9-1
次の日、一色はなにごともなかったかのように学校に出てきた。「風邪か?」と声をかけると「似たようなものよ」と返ってきた。風邪か風邪じゃないかの二択だろ。似たようなものってなんだよ。
一色の様子は今までとなに一つとして変わらなかった。いつもそうだ。俺と言い合いになっても次の日には戻っている。こっちが考えすぎなのかと思うほどあっさりとして驚くことも多かった。
俺は納得していたんだ。
『一色周ならばそれも仕方ない。一色周とはそういう女子なのだ』と。
彼女はきっとそれを望んでいる。望んでいるのだがどこか引っかかった。
三時間目の体育が終わり教室に返ってきた。水泳の授業のあとは非常に眠くなる。まだお昼にもなっていないというのに教科書を出す気力すらなかった。
水泳の授業は男女一緒なのだが、やはり一色は浮いていた。他の女子が男子に見られていることを騒ぎ立てる中で隅っこの方で小さくなっていたのだ。もしかしたらあれはあれで見られたくなかったからそうしていたのかもしれない。
そのうち女子が帰ってきて、チャイムが鳴り四時間目の古文が始まった。
しかし一色の姿はなかった。彼女の連絡先は知らない。そもそも一色が授業をサボったところなど見たことがないのだから、これが異常事態であることはすぐに気がついた。いや、異常事態だと気付いたのはそれだけが原因ではない。女子のギャルグループがニヤニヤしながら一色の席に視線を向けていたからだ。
「先生、俺ちょっと腹痛いんでトイレ行ってきてもいいですか」
手を上げてそう言った。近くのクラスメイトたちには「おいおいうんこかよ」なんて冷やかされたが「そういうときもあるって」と返すだけで精一杯だった。
「授業前に行かなかったのか?」
「前の授業が水泳だったんですよ」
「まあ時間なかったか。行っていいぞ、でもすぐ戻って来いよ」
先生が物分りがいい人で良かった。厳しい先生だと時間制限もついてくる。でも時間制限があっては一色を探し出すことなんてできない。
早足で教室を出て近くの階段を二段飛ばしで降りていく。他の先生に見つかると厄介なので慎重に行動してプールの方に向かった。
プールの横を通るが他のクラスが授業を始めていた。もしかしたらここにはいないかもしれない。そう思いながら歩いていると、ずぶ濡れの制服を着て廊下でしゃがみ込む女生徒を見つけた。
「一色」
声をかけると彼女が顔を上げた。感情が欠如したいつもの彼女の顔があった。
「授業、始まってるわよ」
「知ってる」
彼女の横にしゃがみこんであぐらをかいた。
「なんで来たの?」
「なにかあったんじゃないかと思ってな」
「別になにもないわよ」
「その姿で言うか? それに胸に抱えてるの絵本だろ」
胸と太ももに挟まれているがわずかに表紙が見えていた。
「なにがあった」
彼女は脚をキツく抱き込んだ。
「着替えが終わったとき、クラスの子に絵本が見つかった」
「あのギャル共か。で、その絵本をプールに投げ込まれたと」
「よくわかったわね。超能力者かしら」
「超能力者じゃなくてもわかるから」
そのときの彼女の行動は目に浮かぶようだ。行動だけじゃない、必死にプールに飛び込んだ彼女の表情も、なぜか想像できてしまった。焦り、戸惑い、恐怖するそんな顔だ。
「じゃあそのあとなにが起きたかもわかるわよね」
「プールに飛び込んで絵本を回収した。でもこのままじゃ教室に戻れないから更衣室にいようと思ったけど他のクラスが入ってきた。仕方なく更衣室から出てきたけど行く宛がなかった、だな」
「ホント、アナタって面白いわね」
「面白い? なにが?」
「こうやってここに来てくれるところとか」
本当に少しだが、彼女の頬が緩んだような気がした。あまりにも微細な変化だったため俺の気のせいかもしれない。
でもこれでわかった。一色周という少女がなにを考え、行動しているのか。
「昨日一晩考えたんだ」
「今日の水泳のこと? 意外とスケベなのね」
「考えなかったわけじゃない。でも違う。俺が考えたのはお前のことだ」
「私のことなんて考えても意味がないわ。生産性は皆無。そんなことをしている時間があるのなら勉強でもしていた方が有意義よ」
「かもしれないな。でも考えなきゃいけなかったんだ。お前のことでいろいろ巻き込まれたんだぞ。三田のこととか、噂のこととか、天羽にだって絡まれた」
「誉のことはいいじゃない。彼女、可愛いと思うわ。可愛い女子とデートできたんだからよかったじゃない」
「普通の男子は嬉しいんだろうが俺はそうでもない。天羽はお前のことを知りたがってた。上手くやれてるかって訊かれたよ。アイツは今でもお前のことを心配してる。だから俺と天羽はデートしたんじゃなくてお前についての話をしたんだ。だから天羽の件についてもお前に巻き込まれたと言っていい」
「それで、私のことを考えてなにかわかったの?」
「わかったよ、いろいろとね」
一色の方を見るが、本を抱いたまま前を見続けていた。
「あの噂さ。流したのお前だろ」
俺が出した結論をそのまま口にした。
「どうしてそうなるの? 私が自分の噂をなんで流さなきゃいけないの?」
「当然他人を遠ざけるためだ。特に俺やリュウ。三田の事件で関わりすぎたって思ったんだろ。自分がいかに「普通ではないか」がわかれば、俺もリュウも少しはよそよそしくなると思ったんだ。違うか?」
「さあ、どうでしょうね。でも噂が流れたのは上級生の間ででしょう? それなら私が噂を流すのは難しいと思うのだけれど。同級生の間で流れても同じだけれど、私にはそんな人脈はない」
「人脈はなくても関わりがあった人間はいるだろ?」
そうだ。友人はいなくとも接点を持ち、使役できる三年生はいるのだ。
「三田と一緒にいた先輩に頼んだんだろ。違うか? 頼んだか脅したかはまあわからんけど」
「よくもまあそんな推測を真顔で語るわね」
「実はちゃんと確認が取れてる。朱音ちゃんを通じて確認をとったよ。三年の牧瀬京子、あのとき三田と一緒にいた女子だ。そして牧瀬京子が二年生の一部に噂を流した」
一色は大きくため息をつき、諦めたように口を開いた。
「それがわかったからどうなるというの。確かに他の生徒を遠ざけるために噂を流したわ。自作自演というやつね。それがわかったからなに? 私が誰とも交わりたくないのはアナタも知ってるわよね」
これも事実だ。一色が積極的に会話をしようとしないのも、他人を近づけたくないからだ。
「お前さっき言ったよな。「こうやってここに来てくれるところとか」って」
「それがなんの関係があるの?」
「来てくれる、って言ったんだ。勝手に来たとかじゃないんだ。お前は誰かに来てほしかったんじゃないのか? それに噂のことだって、噂が広まれば注目が集まるってことを考えなかったわけじゃないはずだ。それでも実行したのは、それでもいいと思ったからだ」
「また勝手なことを言うわね。ケンカでもしたいの?」
「正直に話して欲しいだけだ。お前が他人を遠ざけたかったのは哀れんでほしくなかったからだろ。可哀想、気の毒にって言われたくなかったからだろ。気を使われることがたまらなく悔しかったからだろ」
「それが事実だとしても、他人を遠ざけたいのは本当のことよ。それならば結果は同じでしょう」
「いいや違う。それが事実なら、気を使われなければ受け入れてもいいってことだ。他人を遠ざけながらも友達がいたらいいなって思ってたんじゃないか?」
「そんな馬鹿なこと――」
「そうじゃなきゃ天羽とは友達にならない。いつもみたいにぶった切って「興味がない」って言えばいいだけの話じゃないか。それをしなかったのは天羽が特別だったからだろ? 天羽が転校するときに突き放したのだって、向こうで楽しくやれるように自分を忘れてもいいぞっていう意思表示だったんじゃないのか」
「アナタに!」
ようやく一色と目が合った。感情をむき出しにして、今にも怒りを爆発させようかという顔をしている。
「アナタに、なにがわかるのよ……」
今度は泣きそうな顔になった。意外と忙しいやつだな。
「わからないよ、お前のことなんて。でもさ、気を使われたくないから人を遠ざけるっていうのはわかるんだよ。俺も同じだからさ」
「そう、なの?」
「両親と弟が死んでさ、俺にもいろいろあったんだ。知ってる人はみんな顔を合わせる度に俺を憐れむんだよ。頑張って忘れようとしてるのに、周りの人間が忘れさせてくれないんだよ。俺はいつまで経っても「可哀想な外村未陽」のままなんだ。だから、親しい人間なんて作らなかった。リュウだけはいつでもまとわりついてきたからそのままにしておいたけど、アイツは俺の過去を知っても憐れまなかったから。たぶん一色もそうなんじゃないかなって思ってんだ」
プールで授業を受ける生徒たちの黄色い声が聞こえる。楽しそうなその声を聞いていると苦しい気持ちが少しだけ和らいだ。俺もはしゃいでもいいのかなって、そういう気持ちになってくる。
「アナタが言うように、誉は特別な存在だった」
ようやく認めたのか、下を向きながらだが一色が少しずつ喋り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます