5-2

 それが一変したのは中学二年生の夏だった。


 青沙ちゃんがこのビルの上から飛び降り自殺を図ったのだ。夜中に一人でここへ来て飛び降りた。その日家に帰ると千歳さんが青い顔をしていた。千歳さんは「青沙ちゃんが死んだ」とだけ言った。最初は信じられなかったが、あれよあれよという間に通夜が始まり、気がつけば葬儀が終わっていた。俺は青沙ちゃんが死んだことを理解できていなかった。


 その日から朱音ちゃんが変わってしまった。学校を休みがちになり、うちに来ることもなくなった。たまに見かけたと思えば道端で急に泣き崩れてしまう。情緒不安定で彼女の両親もどうしてよいかわからない状態だった。両親も酷く落ち込んでいたので、あのときの七楽家のことは思い出したくもない。


 朱音ちゃんは自分を責め続けていた。休日に朱音ちゃんの家に行っても上の空で、ずっと青沙ちゃんの日記を読んでいた。そしてこう言うのだ。「なんでなにも言ってくれなかったの」と。でも俺はなにもできないから、近くに座って彼女が俺に気付いてくれるのを待ち続けた。そんな時間が二ヶ月ほど続いた。


 少しずつではあるが、朱音ちゃんが俺を認識するまでの時間が早くなっていった。そしてついに、朱音ちゃんは青沙ちゃんの日記を読むのをやめた。それまで半年以上かかった。


 時間が経つにつれて少しずつ回復していった朱音ちゃんだったが、それでも青沙ちゃんがどうして自殺したのかは突き止められなかった。突き止められないまま、朱音ちゃんは高校生になった。


 青沙ちゃんが生きていた頃と同じくらいまで明るくなった。けれどまだ不安定なときがある。それをなんとか制御するために、彼女はたまにこのビルに来るのだ。


「私さ、ミハルには感謝してるんだよね」

「なんだよ急に」

「いやいや、ホントに。たまに学校休んでまで側にいれくれたでしょ。めちゃくちゃ嬉しかったよ」

「気付いてたのか」

「そりゃ気付くよ。私と青沙の部屋に入ってきて、なにも言わないで壁際でしゃがみこんで、朝から晩までいてくれたしね」

「気付いてないんだと思ってた。だって俺のこと完全に無視してたし」

「無視してたっていうか、ミハルに見せる顔がなかったっていうか、なんていうか」


 照れくさいのだろうか、頬を掻きながら視線を落としていた。


 今だからこそ言えるのだろう。あのときの朱音ちゃんにはこんなことを言えるような気力はなかった。


「でもさ、ミハルだって最初は私のこと無視してたじゃん。おあいこおあいこ」

「小学校の頃だろ。それに母さんたちが死んだ直後だったんだし。だからあのときの朱音ちゃんの気持ちもわかったわけだけど」

「そうだね。ホント、ミハルがいてくれてよかったよ」


 歯を見せ、目を細めて笑う彼女はとても輝いて見えた。本当に吹っ切れているのかまではわからないが、間違いなく少しずつ前進していると実感できるからだ。


「よしっ」と満足気に言った朱音ちゃんは来た方向へと身体を向けた。ここでビルを見上げる時間も、三年前に比べればだいぶ短くなった。


 帰ろうとしたそのとき、ビルの中から誰かが出てきた。野暮ったいスウェット姿にくわえタバコ、気だるそうに腹を掻く一人の中年男性だった。


「なんだお前ら、こんなところでイチャイチャしてんじゃねーぞ」


 志倉航一郎、俺や一色の担任教師だった。


「イチャイチャはしてないけど」


 そこまで言って、疑問が降って湧いた。


 このビルは随分と前から廃ビルになっていたはずだ。今まで人が出てきたことはないし、どこかの会社が廃ビルに入ったということもなさそうだ。それはビルの上部に看板が出ていないことからもわかる。


「志倉先生、こんなところでなにしてるの……?」


 朱音ちゃんが恐る恐る訊いていた。表情はこわばり、きっとさまざまな思考が彼女の頭の中をぐるぐると回っているに違いなかった。


「ああ、ここに住んでるんだ。このビルはじいさんの持ちもんでな、家賃ただだっつーから」

「いつからですか?」

「あー……たぶん二年くらい前だな。ちょうどじいさんが死んじまってな、親父が遺産代わりにもらったってわけだ」


 朱音ちゃんは親指の腹で下唇を触り、俺にも聞こえないような声でブツブツとなにかを言っていた。


「他にねえなら俺は行くぞ。あ、そうだ。ここが俺の家だからってイタズラすんなよ」

「しないって、そんなこと」と俺が笑いながら言うと「そうか、じゃあな」と志倉はどこかに歩き去ってしまった。

「俺たちも帰ろう」

「うん、そうだね」


 まだ納得できていないのか、朱音ちゃんは下を向いて歩き始めた。家に着くまでに何度か話しかけてみたが「うん」「そうだね」としか帰ってこない。この状態のときはあまり深く関わろうとしない方が良い。それは青沙ちゃんが自殺したときによくわかった。


 結局まともな会話もできないまま家に着いてしまった。別れの挨拶もろくにしないまま、朱音ちゃんが家に入っていくのを見送った。明日から学校に来なくなるなんてことにならなきゃいいけど、もしそうならば俺は三年前の再現をするだけだ。同時に今朱音ちゃんが考えていることを共有する。それくらいしか俺にはできないのだ。だったらできることをするまでだ。

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