4-3

 少しだけ軽くなった心のまま午後の授業を終えた。食後の体育、そのあとで和尚の授業だったから非常に眠い。和尚の本名は岩瀬だが、彼が読む古文は抑揚が少なく念仏のようだから和尚と呼ばれるようになった。彼の音読は生徒たちを眠りにいざないことで有名だ。


 帰ろうとカバンに手をかけたとき「外村くん」と声をかけられた。


「どうした?」


 一色が申し訳無さそうに立っていた。表情は変わらないのだがなんとなくそんな気がした。


「今朝のことを、謝ろうと思って」

「ああ、あのことか。気にしなくていいのに」


 むしろ俺の方が謝った方がいいのかもしれないくらいのことを言ってしまった。それなのに彼女は自分から頭を下げている。


「そういうわけにはいかないわ。私の身勝手で不快な思いをさせてしまった。なにか償いをしたいわ」

「償いなんて大げさだ。人間なんだからそういうこともある。他人から見たらちょっとしたことでも、その人にとっては大切なことってあるだろ。誰にでもあるからさ」

「だからってそのままにしていいわけじゃない。これから時間ある?」

「特に用事はないけど」

「それなら帰りにどこか寄っていきましょう。なにかご馳走させて」

「いやホントにいいって」

「外村くんは女性の誘いを断るの? もっと紳士な人だと思ったのだけれど」


 急に態度が大きくなった。付き合いは短いがこういうことはかなり多いような気がする。


 ここで断ったらあとでなにを言われるかわかったもんじゃない。おとなしく従うのが得策だ。


「わかった、付き合うよ。どこ行くんだ?」

「シスタードーナツがあるわね。そこでどう?」

「いいよ。確か新作のドーナツが出てた気がするし」


 一色が一つ頷いた。こうして一色と共に教室を出ることになったのだが、残っているクラスメイトの視線がやや痛かった。ここまで一色と親しくしているのは俺くらいなものだ。よくない噂になるのも時間の問題かもしれない。


 シスタードーナツは学校から少し離れたドーナツ屋だ。帰り道にあるのでリュウともたまに寄るのだが、女性客が多いので一人で行くことはまずない。


 店内に入るとうちの学校の生徒が数名座っていた。この時間は学生が多い。


 カウンターでドーナツとドリンクを買い、俺たちは向い合せの席に座った。一色は新作のトリプルチョコホイップ、定番のプレーンシュガー、アップルパイにバニラシェイクを頼んでいた。俺はホイップドーナツとオールドファッションとアイスコーヒーを頼んだ。


「お前、結構甘党なんだな」

「女の子は甘いものが好きなのよ。基本的にはね」

「三つも食べて夕食大丈夫なのか? アップルパイ結構デカイし」

「大丈夫よ。女の子には胃袋が二つあるの」

「女の子の前にそれは人間じゃない」

「牛と人間のハーフかもしれないわね」


 一色は気にすることなく、その小さな口でドーナツを平らげていく。一口一口は小さいのにどんどんとオボンの上からドーナツがなくなっていく。たまにシェイクを飲むのだが、俺にはシェイクが飲み物という発想はなかった。


 しかし、ドーナツを食べシェイクを飲む彼女は心なしか嬉しそうだった。


 こうして見ると一色も普通の女子高生に見える。口調も表情も固いが見ているぶんにはそのへんの女子高生と変わらない。


「外村くんは私の噂について知ってるかしら」


 一色は紙ナフキンで口を拭いながら、さらっと大事なことを言った。あまりにも唐突なので返答に迷ってしまった。


「知ってるっていう顔ね」

「んー、まあ。どういう噂?」

「知ってるのに訊くの? イジワルね」

「一応本人から訊いた方がいいかなと思って」

「本当は自分が知ってる噂と私が知ってる噂が違うと面倒になると思ったんでしょう? その面倒事を避けるために焦点を一つに絞りたいと」

「分析をするんじゃない。で、どんな噂なの」

「外村くんのそういうところ嫌いじゃないわ」

「そりゃどうも」

「噂は転校に関すること。私が四人の女生徒を暴行し学校に居づらくなって転校してきたという噂」

「ああそれな。大丈夫、俺が知ってる噂もそれだ」

「なるほど、その顔は本当のようね」

「表情で判断するんじゃなくて俺の言葉を信じて欲しいんだけどね」

「それはどうでもいいわ」

「わかったわかった、もうそれでいい。で、その噂がどうした。まさか真実だなんて言わないよな?」

「真実よ」


 俺の言葉を切り裂くように言った。


「四人も殴ったのか?」

「殴ったし蹴ったし引っ掻いた。今思えばバカなことをしたなと思うけれど、あのときはああするしかなかったのよ」

「どういう意味だ? っていうかなんでそうなった?」

「そこは意外とあっさり訊くのね」

「なんていうかもう慣れた。お前相手に躊躇してもいいことがない」

「面白い人。話は戻るけど、私がなんで暴れたのかと訊いたわね。それは、彼女たちが私の奥深くにある宝物を汚そうとしたからよ」

「宝物……」

「そう、宝物。今朝アナタも見ているわ」


 今朝の出来事を思い出す。いつも、ではなく今朝と言っているから、これまでではじめての出来事が今朝あったことになる。となると一つしかないだろう。


「絵本か」

「前々から彼女たちに嫌われてることは知ってた。だから私も極力近づかないようにしてたの。悪口も陰口も苦じゃなかった。彼女たちよりも優れている自覚があったから。でもね、私がカバンを落としたときに絵本が出てしまったの。それをサッと奪いとっていったのよ」

「絵本を読んでるってバカにされたのか?」

「違うわ。バカにされたのは目のことよ」


 今朝のことを思い出した。それで彼女は絵本と自分の目を結びつけて感情的になったのだ。


「でもそれだけじゃないわ。あの絵本をゴミ箱に捨ててこう言ったのよ。絵本なんて読んだってわからないだろって。両親が気の毒だって」

「んで殴ったのか」

「正直なにしたかほとんど覚えてないわ。気付いたら病院のベッドの上だったけど手は腫れていたし顔やお腹にアザがあった。一応両親と一緒に謝りには行ったのだけれどね、あまりいい顔はされなかったわ」

「感情を抑えきれなかった、か」

「彼女たちは私の両親を貶したのよ。それだけじゃないわ。あの絵本は祖父からもらったものなの。祖父は私にたくさんの絵本を与え、読んでくれた。そんな祖父の形見を目の前で捨てられたのよ。私のことをなにも知らない女子高生が、無邪気に笑って絵本をゴミ箱に入れたの」


 彼女が顔をしかめた。本当にイヤだったんだ。そうじゃないな。心底腹が立ち、自分の思い出を汚されたと憤っているんだ。


 この話を聞いて俺はなんて言ったらいいんだろう。なんと言えば彼女は納得するのだろう。なんと言えば慰めになるんだろう。


「ごめんなさい。こんなこと言われても困るわね」


 彼女がバッグを持って立ち上がった。「行きましょうか」と一人で出口に向かってしまった。急いで追いかけ、二人揃って店を出た。空の茜色がどんどんと沈み、風も少しだけ涼しく感じられる。


 店を出て歩き始め、噂について訊き忘れたことを思い出した。


「なあ一色」

「なにかしら」


 なにごともなかったかのように聞き返してくる。


「噂の出どころなんだけどさ。先輩が特定してくれたみたいなんだ」


 実際のところ暫定でしかないが、ここは朱音ちゃんを信じてみるか。


「そう、なの……」


 僅かな動揺が見られるが一気に話してしまった方がいい。彼女の顔色を伺っていたら話なんて進まない。


「俺も又聞きだから確証はないけど二年四組の天羽誉だ。聞いたことないか?」


 耳がピクリと動いたことを俺は見逃さなかった。間違いなく一色は天羽のことを知っているのだ。転校してきたばかりの一色が知っているということは、今の学校で接触があったのかもしれない。いや違うな。接触があったのなら噂の出どころが天羽であることくらい一色ならわかるはずだ。ではなぜ一色は天羽を知っているのか。


「お前、天羽と知り合いだったのか?」


 彼女は一つ深呼吸をした。けれど言いよどむことはない。


「天羽誉は私の友人だった人よ。元、だけれど」

「天羽も転校生だって話だ。ってことはアイツとお前は元々同じ学校だったのか?」

「そうよ。誉は三年前に引っ越していったの。でもそれだけじゃないわ。私の唯一の友人だった。彼女が引っ越しをするそのときまではね」

「引っ越しの直前にケンカでもしたのか」

「そういうことね。私はそれっきり連絡をとらなかったけど誉は友人が多かったから私のことなんて気にならなかったんでしょうね。たぶん前の学校の誰かに私のことを聞いたんでしょうね」

「これからどうする? 天羽に話を訊くか?」

「必要ないわ。やりたいならやらせてあげなさい。そのうち気が収まるでしょう」

「止めなくていいのか? これから根も葉もない噂を流されるかもしれないんだぞ」

「それはないわね。彼女は真実しか話していない。つまり私を陥れる気はあっても嘘を吐くつもりはないということ。それなら被害と呼べるようなものはないの」

「現に被害受けてるだろ」

「これは被害とは言わないわ。さっきも言った通り真実なの。だから問題ないわ」

「問題ないってお前……」

「私は大丈夫よ。アナタもこの件については忘れなさい」


 どうしてこの噂が流されて、どうしてこんな状況になっているのか。一色はわからないかもしれないが、俺にはなんとなくわかってしまった。


 俺だって最初聞いたときはわからなかった。でも一色と天羽の関係性を聞けば辻褄が合う。天羽がどうしてこんな噂を流したのか理解できないこともないのだ。


「天羽のことはもう友人とは思ってないのか?」

「当然よ。誉が引っ越したの三年前だし、さっきも言ったけど喧嘩別れしてるのよ。引っ越してから三年間まったく連絡をとってない。今の御時世、普通に生きていたら連絡くらい取れるでしょう。私も誉もそれをしなかった。ということはお互いにその気がなかったということよ」


 そこで一色が立ち止まった。突き当たったT字路、俺たちの分かれ道だ。


「それじゃあまた明日」

「ああ、またな」


 姿勢よく歩く彼女の後ろ姿は少しずつ見慣れてきた。彼女のこともなんだかんだでわかってきたし、俺にも心を開きはじめているのだろう。


 今日の話で彼女への理解がまた深まった。いいことなのか悪いことなのかは不明だが、彼女の行動の矛盾が見えてきた気がする。友人のこと、転校の理由、絵本と小説、他人への風当たり、そしてコンプレックス。


 しかしそれを知ってどうしたいのかと考えてみてもちゃんとした答えが出てこない。一色は友人ではないし、お互いに恋心をいだいているわけでもない。それでもなんとかできれば彼女は前進できると思う。思うけれど、俺が彼女の手助けをして本当にいいのかがわからないのだ。


 悩んだって始まらないのに、俺は今日も悩み続けることしかできない。そんな足踏みをしている自分が嫌で嫌で仕方ないのに、それでも足踏みを続けるのだ。地団駄のような、そんな足踏みを。

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