4-1

 カーテンを開けて空を見ると曇天が広がっていた。


 あの日は雨が降っていた。そのせいか、雨が降ると思い出したくない記憶が蘇ってくる。甲高いブレーキの音。衝撃。横揺れ。赤く染まった車内。


 深呼吸を二度三度と繰り返してから制服に着替えた。千歳さんには心配をかけさせたくない。


「大丈夫だ。大丈夫」


 いつもと同じように振る舞え。そうやって自分を鼓舞した。今までやってきたことだ、雨が降ったくらいでなんだというんだ。


 部屋を出るとコーヒーのいい匂いがした。インスタントではなくドリップしたものだとすぐにわかった。


 リビングでは千歳さんが新聞を読んでいた。「おはよう」と俺が言えば「ああおはよう」と千歳さんが返してきた。


 俺が起きる時間を予測していたのか、用意されていたトーストにバターとストロベリージャムを塗って頬張った。


「そんなに急いで食べる必要もないだろ」

「別に急いでなんてないけど」

「じゃあリスみたいに頬袋作ってないでゆっくり食べろ」

「急いではいないけど学校には早く行きたい」

「他人と出会わないから?」

「そういうこと。いってきます」

「おう。気をつけてな」


 トーストの残りをコーヒーで流し込んで玄関に向かった。千歳さんは手を振る代わりに新聞紙をバサバサと揺らしていた。千歳さんの面白ポイントの一つで、この仕草を見ると安心して家を出られる。違うな、また家に帰ってきてもいいんだと思えるんだ。


 家を出ると今日も朱音ちゃんがいた。


「もしかして待ってた?」

「また一緒になるかなとは思ったけど待ってたわけじゃないよ」

「わかっててこの時間に登校したってことだな。朱音ちゃん、もしかして俺に気があるんじゃない?」

「ハッキリ言っちゃうのも可哀想なんだけど、私はもっと友人が多くて明るい人がいいな。いやー残念」


 いつもは自分から仕掛けてくるくせに、こっちが仕掛けるとすぐこれだ。


「俺そんなに暗くないと思うんだけど」

「自分じゃ気づいてないだけさ。それに友人は少ないじゃん」

「俺そんなに……」

「落ち込むな落ち込むな、キミにもいいところあるよ。 さ、行こ行こ」


 朱音ちゃんは俺の腕を掴んでエレベーターに向かってガンガン進んでいってしまう。いいところがあるなら具体的に教えて欲しいものだ。


 マンションを出て傘を差した。空は厚い雲で覆われているし今日は一日中雨だろう。


「雨は嫌い?」

「まあ、好きじゃないな。雨の日にはいい思い出がないから」

「あー、うん。そういえば雨の日だったっけ」


 いつもは軽快に笑い返してくる朱音ちゃんだが、俺の家族のことを知っているからこそこの件に関しては茶化さない。彼女は俺の心の傷を知り、慰めてくれた人の一人だ。そして俺は彼女の心の傷を知っている。つまりお互いに傷を舐め合っているのだ。


「あんまり無理しない方がいいよ。辛かったら休めばいいし」

「そういうわけにもいかないでしょ。雨が降ってるくらいで学校休んでたら絶対卒業できないし」

「ちゃんと人間らしい生活しようっていう気持ちはあるんだね」

「それは朱音ちゃんも同じなんじゃない?」

「私にはね、ほら、紫貴がいるから」

「五歳になったばっかりだよね、紫貴」

「そ、私とは十二歳差。言うことはちゃんと聞くしいい子に育ってるよホント。青沙にも見せてあげたいくらい」


 声のトーンが落ちた。これでも昔よりもずっとマシになった。


 彼女の名前を久しぶりに聞いた気がする。とても大人しく、とても優しく、とても健気な女の子。人の陰に隠れているタイプの少女で、学校に行く以外で家から出ることも少なかった。


「きっとどこかで見てると思うよ。青沙ちゃん、朱音ちゃんのこと大好きだったし」

「知ってるよ、そんなこと」


 それきり学校まで朱音ちゃんは口を開くことはなかった。だから俺も話しかけなかった。こうするのが一番だと知っているからだ。


 朱音ちゃんは明るく饒舌で友人が多い。献身的でもあり、落ち込んでいる人がいれば助けようとする。家庭的な面があるのを知っている人はあまりいなさそうだが、料理も作れるし子供が好きで弟思い。俺から見ても頼れる姉のような存在だ。


 しかし頼れる姉になるまでにはいろいろあった。それまでは明るく無邪気なだけだった。間違いなく人として成長しているんだろうが、成長したという結果が成長するまでの過程を正当化できるかどうかはまた別の話であることを俺はよく知っている。俺自身も強く痛感しているからだ。


 教室にはやはり一色しかいなかった。


「おはよう」

「ええ、おはよう」


 最近はこのやりとりをすると一日が始まったんだなという気持ちになる。まさかこの少女が一日を始めるためのチャイムになるとは思わなかった。


「今日は小説じゃないんだな」


 一色が広げていたのは一冊の絵本だった。角は白く擦り切れているが非常に綺麗に扱われていることがわかる。児童用の絵本によくあるような厚さで、頑丈そうな装丁も小さい頃に読んでもらった絵本を思い出す。絵本の中がチラリと見えたが派手な色合いはそこまでなく、どちらかといえば淡い色使いで落ち着いた雰囲気だ。


「たまに読みたくなるのよ」

「もしかしていつも持ち歩いてるのか?」

「悪い?」

「いや悪くないけど」


 熱心に絵本を読みすすめる一色。数分と経たずに読み終り、その絵本をカバンに戻した。代わりに文庫本を取り出して読み始めた。


 かと思えば急に視線を向けてくる。


「なにか言いたいことでもありそうな顔ね」

「別にないけど」

「ホントに? もしもあるなら怒らないから言ってみてちょうだい」


 彼女の瞳がギラリと光った。ような気がした。どことなくいつもと違う。憤ている。そして悲しんでいる。


 彼女が望んでいる答えはわかる。それでも俺が気になったのはそこではない。


「それなら言わせてもらうけど、毎日持ってきてるのかなと思って」


 頬が僅かに弛緩したように見えた。


「それだけ?」

「それだけで悪いか? そう思うのが普通だと思うけど」

「普通……本当にそう思ってる?」

「そりゃ高校生になって学校で絵本読んでたらそう思うだろ。他にどんな疑問があるってんだよ」


 俺の言葉が気に食わなかったのか顔つきがまた引き締まった。もしかしたら地雷を踏んでしまったのかもしれない。

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