3-3

「俺のこと、どう思ってんだろ」


 そう口にしてみる。当たり前だが答えは返ってこない。でも本人に直接訊く勇気もなかった。


 千歳さんは決して難しい人じゃない。けれど口調は少し荒く、人によっては非常に威圧感を覚える。それでも優しいのは間違いではない。そうでなくては俺を引き取って一緒に暮らすなんてことはしないはずだ。


 俺の両親と千歳さんは仲が良かったというわけではなかった。仲が悪いというほどでもないが、そもそも顔を合わせることがなかったのだ。だから千歳さんと一緒に暮らすようになるまで、彼女がどういう人間かはわからなかった。


 この家で暮らし始めた頃は怖い人だなと思った。目つきが鋭いのもあったが物腰がキツイのだ。それでも彼女は俺を育てようとしてくれているのがわかったから、俺も少しずつ慣れようと努力した。というよりも自然と理解できるようになった。


 小学校の頃、締め切り直後なのに参観日に来てくれた。両親がいなくなった直後というのもあって、俺は自分のことしか考えられなかった。それでも、目の下にクマを作り、化粧もそこそこのまま参観日に来てくれた千歳さんを見て信じてもいいのかもしれないと思った。遠足のときはちゃんと手作りの弁当を作ってくれて、その弁当が実はあまり美味しくなくて、それがきっかけで料理を勉強したのを俺は知っている。


 中学校の頃、部活に入れと言われた。俺は金銭面でも迷惑をかけたくなかったし、千歳さんの代わりに家事ができればいいと思って断った。けれど千歳さんは「学生生活は一度しかない」と言って無理矢理部活に入らせた。友人はできなかったが、目標に向かって一生懸命に取り組むことを覚えた。努力した先にある達成感も、千歳さんの一言がなければ得られなかった。


 そして高校に入ってからも俺に影響を与え続けてくれる。俺が好き勝手に時間を使えるのも千歳さんのおかげだ。アルバイトをする時間があるなら勉強しろ。卒業してから経験することがない青春という時間を楽しめ。そうやって言ってくれるから、俺も千歳さんになにかを返していきたいと思えるのだ。


 といっても、まだなにも返せていないというのが現状だ。


 風呂から上がり、ダイニングに向かった。


「遅いぞ。男ならサッと入ってバッと上がってこい」

「無理言わないでよ……」


 すでにカレーが用意されていたので、定位置に座って手を合わせた。


「いただきます」

「はい、いただきます」


 このやり取りは、俺と千歳さんが暮らし始めてすぐに決めたことだ。最初に俺が「いただきます」と言い、あとから千歳さんが復唱する。どうしてそんなことをするのかを訊いたのだが詳細は教えてもらえなかった。


 白米とカレーをスプーンに乗せて口に入れた。米は水を少なめにしているのか若干固い。カレーは中辛と甘口を混ぜてあるので口当たりがよく、辛さも程よい。何年も変わらない味にほっとする。どうやっても自分じゃこの味を出せないのだ。


「しばらくは普通の生活に戻れるの?」

「いや、月刊雑誌の連載が来たからまた忙しくなるな。小さな賞の審査員も頼まれてる」

「作家先生も大変だ」

「仕事があるのはいいことだ。この業界も水商売だからな、本が売れなくなればすぐ干される。しかし呼ばれるってことは需要があるってことだ。需要があるってことは、まだ私はこの業界で仕事ができるってこと。仕事ができるってことは、私の本はまだ売れる」

「ホント、大変そうだね」

「自分で決めた道だからな。大変だし苦労も苦悩もあるが、どうやっても嫌いにはなれないんだ。それに家で仕事ができるのがいい。会社に行って上司にペコペコするのは私の性に合わない」

「確かに上司の言うとおりにしてるのは想像できないな。すぐ反発して仕事辞めそう」

「間違ってはいないから反論できないんだなこれが」


 そう言って彼女は笑った。甥である俺から見ても美人だ。それでも彼女には今恋人がいない。その件については一度も話をしたことがなかった。怖くて訊くことができなかったのだ。


 俺が知る限りだが千歳さんに恋人がいたことはない。年齢は今年で三十二歳だったと思うが、そろそろ結婚や出産についても考える年だと思う。仕事柄出会いがないのはわかっているが、もしも俺のせいで千歳さんが結婚を躊躇しているのならなにかアクションを起こさなきゃいけない。いつかは向き合わなければいけないのだ。


「千歳さん、今恋人とかいる?」

「なんだ、藪から棒に」


 スプーンを皿に落とし、眉根を寄せて怪訝そうな顔をした。俺をバカにするときのいつもの顔だ。


「いい年だしそろそろ結婚とか考えないのかなって思ってさ」

「恋人に関して言えばいないこともない」

「いるの?!」


 衝撃的すぎてイスから飛び上がってしまった。もしかしたら今までも何人かの恋人がいて、ただ単に俺が気づいていなかっただけなのか。


「そこまで驚くことないだろ。ただ仕事がらみだからお前と面識がないだけだ」


 ゆっくりと腰を下ろし「それで?」と続きを促す。


「ただな、結婚となると話は別だ。他人と一緒に暮らすってのは、どうもな」

「結婚願望はあるの?」

「急に突っ込んだこと訊きたがるんだな。ないこともない。子供もまあ、嫌いじゃないしな」

「それなら結婚してもいいと思うけど」

「もう少しだけ様子を見てからだな。言っておくが、別にお前がどうのこうので結婚しないわけじゃない。これは私の問題だからな。それよりお前の方はどうなんだ? この前連れてきたあの子、付き合ってるのか?」

「そういうんじゃないって。ホント、ただのクラスメイトだから」

「さてね、果たして本当にそうかな」


 視線を上げると、そこには涼やかな瞳があった。



「それどういう意味? 俺と一色が付き合ってないのは本当のことだよ」

「でも好意は抱いてる」

「最初はね。美人だし」

「それだけじゃないような気はするけどな」

「なんでそう思うのさ。誰だって困ってる人がいれば助けるだろ?」

「じゃあその一色ちゃんは困ってたのか?」

「それは……」


 一色がなにを思っていたのかなんてわからない。でも確かに困っていたようには見えなかった。雨の中で傘も差さずに公園にいて、その雨を受け入れていたのになぜ困ったように見えたのか。それは俺にもよくわからない。


「それにお前が自分から家に招くのは龍星以来だ。なにかあったんじゃないかと勘ぐってもおかしくない。とは思わないか?」

「どこまで分析してるんだよ、怖いな」

「お前は無自覚なのかもしれないが、もしかすると彼女になにかを感じ取ったのかもしれないな」

「なにかって、なに?」

「私が知るか。私はお前じゃないんだ。それくらい自分で見つけろ」


 いつの間に食べ進めていたのか、千歳さんのカレー皿は空になっていた。


「さっさと食べて洗い物しろよ。私は自室に戻る」

「はいよ。片付けはやっとく」

「いい子だ」と、彼女は皿を持って立ち上がった。それを台所に持っていくと、インスタントコーヒーを入れてから自室に戻っていった。


 カレーを食べ終えた俺も自室に戻り、今日の授業の復習を始めた。


 しかし、どうもペンが進まない。最近はいろんなことがありすぎて、頭の中で上手く整理できずにいるのだ。整理できないままなのに時間は待ってくれず、時計の針は時を刻み続けていた。。


「天羽誉か」


 話してみようなんて思わない。まだ天羽が犯人かもわからないし、犯人だったとしてもどうして噂を流したのかと問いただすつもりもない。そもそもこれは俺の問題ではなく一色の問題だ。天羽のことを一色に言うのはいいが、俺が自発的に行動を起こすのは違う。


 頭ではわかっているのにどうしてもそれが正しいとは思えない自分もいる。一色が美人だから容姿に惹かれて彼女のために働きたいのだろうか。いや、きっとそうではない。ではそうではないとなぜ言い切れるのか。簡単な話だ。俺は一色に惚れているわけではないから。好きだとか、愛しているだとかいう感情を抱いていないのだ。


 それでも一色のことを考えてしまう。無表情なあの横顔を思い出してしまう。でもその理由がわからなかった。


 大きくため息をついて机に突っ伏した。今日はもう勉強する気にはなれなかった。

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