第101話 理玖34

 朝になって、いつものように看護師さんが病室に入ってきた。


 いつものように体温を測ったり血圧を測ったりして、ホットタオルで顔を拭く。

 朝ご飯を食べると、それからはいつもとは違う、荷物をまとめる作業に取りかかった。といってもそんなに時間はかからない。

 病室から出てフロアをまわり、知り合いに退院の挨拶をしていると両親がやってきた。


 母さんはお菓子をナースステーションにいる看護師さんに渡そうとしていたけれど、受け取ってはもらえなかった。そういうプレゼントは禁止であるらしい。

 恭子さんが空港に見送りに来てくれることを話していたので、その子に渡そうということになってしまった。恭子さんは食べられないが、その説明はできない。一緒に住んでいるお母さんが食べてくれると良いけれど。


 みんなで荷物を手分けして持ち一階へとおりる。

 父さんが病院の玄関前に並んでいたタクシーに合図した。運転手さんがおりてくる。

 トランクを開けてもらって荷物を積んでいく。その間に母さんは入院費の支払いに行ってしまった。どれくらいのお金がかかったのだろうか。

 タクシーの中で待っていると、母さんが戻ってきて僕の隣に乗り込んだ。


 タクシーがスタートする。

 このままどこへも寄らずに空港へ向かうのだ。二人は仕事があるし。

 恭子さんとは空港で待ち合わせている。


 もうこの病院に来ることは、少なくてもしばらくの間はない。それは寂しいような気がした。これが名残惜しいという気持ちなのだろうか。だから、もう少しゆっくりと病院から出たかったけれど、立ち止まることなく流れるようにタクシーで離れていく。


 父さんも母さんも、僕がこんな気持ちだとはきっと考えてもいないだろう。珍しい病気を疑われて、一人で入院していたのだから、僕が早く家に帰りたかがっていると思っているかもしれない。



 結局トオルさんにさよならの挨拶は出来なかった。

 それを言ってしまったら、本当にもう会えないように思えたからだ。

 そんな小さな抵抗で、すぐにまた会えるなんてことはないのだろうけれど、それでも小さな希望くらい持ったまま帰りたかった。


 空港に着くと搭乗手続きを済ませて荷物を預ける。

 搭乗時間にはまだかなり余裕があったので、レストランで食事をすると、お土産を見ながらぷらぷらと歩き回った。


 夏休み中のお昼間なので、空港は人でごった返していた。

 僕は両親とはぐれないように気をつけながら、同じ制服を着た人たちの群れをかき分け進んでいると、その先に恭子さんが現れた。

 僕のほうをしっかり見て、手を振っている。

 僕は父さんと母さんに声をかけてから恭子さんに駆け寄った。


「先に連絡がくると思ってました。よくここがわかりましたね?」

「うん、びっくりさせようと思って。少し探しちゃった。でも見つけられる自信があったから」


 そう言って恭子さんは笑う。

 二人が追いついてきたので、恭子さんが礼儀正しく挨拶した。

 その様子に、二人は安心したみたいだった。小学生の僕を見送りに来てくれる高校生がどんな人物なのか、不安だったのかもしれない。


 母さんに「どうやって知り合ったの?」と聞かれたけれど、僕らは笑って顔を見合わせることしかできなかった。

 僕たちはこの間まで吸血鬼になりかけていたなんて、どうやって説明したら良いのだろうか。咄嗟に嘘をついて誤魔化すことも、うまくできそうになかった。



 家に帰ってからの数日は、夢から覚めたばかりといった感覚が続いた。何もせずにぼーっとしていることが多かった。それで少し母さんを心配させたりもした。

 夏休みの宿題はほぼ終わっていて、ぼんやりしていても大丈夫だったから、自分からそうしていたところもあった。


 そうやって過ごしてから、ようやくトオルさんに電話をかけた。

 無事家に帰ることができた、という報告をしなければと急に思い立ったのだ。

 本当なら当日の夜にすべきことで、こんなに経ってからだと変に思われるのではないかと迷った。けれど、この日を逃すと、もうこの先ずっと電話なんてできないだろう。


 トオルさんは穏やかな声で良かったと言ってくれた。そして二往復くらい会話したあと電話は終了した。

 そっけなく思えたけれど、そもそもトオルさんはそんなお喋りな人ではないのだから、気にしないことにした。


 それから少しずつ、ラジオ体操に行ったり、友達とプールに出かけたりと、普通の夏休みの生活に戻っていった。

 電話ができたことで安心したからだと思う。


 あと数日で夏休みが終わる頃だった。

 夜に窓の外から音がした。

 僕は目を覚まして、ベッドの中で少しだけ身を固くした。


 もう一度聞こえた。

 今度は起きていたから、はっきりとノックの音だとわかった。


 予感と期待。

 ベッドから慎重におりると窓に近づく。

 カーテンを開けると、トオルさんがいた。慌てて窓も開ける。

 そうだったら良いと思っていた。けれどそんなことは起こらないとも思っていた。


「やあ。起こしてごめん。近くまで来たものだから」

「こんばんは。途中で起きるのは平気なので大丈夫です」


 そういえば最初に会ったとき、あの神社にいたのは頼まれごとをされたからだと言っていた気がする。同じ用事なのだろう。


「もう会えないんじゃないかと思っていたので嬉しいです」


 本当は飛び跳ねたいほど嬉しかったけれど、寝ている父さんと母さんを起こしてしまいかねないので、控えめな声でそう言う。

 するとトオルさんは「そんなはずないだろう」と、こともなげに返した。

 僕はトオルさんを招き入れようと後ろに下がる。そして忘れていたことを思い出した。


「トオルさん、どうぞ入ってください」


 僕はこの言葉を言うために、あの夜、家から出たのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る