第37話 恭子18

 涼子は戻らないかもしれない。

 いや、戻れないのか。


 どちらにしろ、私にとって平穏だと思っていた日常は戻ってこない。


 ひどく疲れてしまった。

 身体が重い。横になりたい。

 肉体の疲れに精神の疲れが追いついたのだ。


「全部嘘だよ」


「え?」


 伊織さんの目を見る。伊織さんはなんの衒いもなく見返してくる。


「吸血鬼なんてこの世にいない。普通に考えてそうだろう? 思い出してみて、吸血鬼なんて言ってるの俺だけじゃない?」


 昨夜はどうだっただろう。

 後輩さんはあの男の子のことを人間じゃない存在だと言っていたと思う。女の子は特別だと言っていただろうか。歳をとらないでずっとあのままだと、それは確実に言っていたはずだ。


 でも、あのときは、そう説明されただけで、特別な力を見せられたわけではない。


「奇妙なサークルは、ただ少し突飛なだけでただ若者が集まって遊んでいるだけだ。もしかしたら、誰かを教祖にして宗教みたいにしているかもしれないけど、それにしたって珍しいわけじゃない」


 不思議なことはなにも起こっていない。


「今本当に起こっているのは、友達が駆け落ちしたかもしれないってことだけだよ」

「でも、私、花火を見たんです。キラキラしていて、熱くなくて……普通の花火じゃなかった」

「薬か何かかもしれない」

「でもあの日、私が口にしたのはコンビニで買った飲み物だけで」

「本当? 昼間はどう?」


 昼間は、どうだっただろう。


 みんなでゲームをしていて、そのとき、その場にあったものを飲んだかもしれない。


 じゃあ全部、私の妄想だろうか。


「友達を探すのは警察に任せよう。危険を冒してまで、きみがしなければいけないことではない。ただ、そう、ウィルスには感染しているから、それが身体の外に出るまでは、家でゆっくり休んだほうが良い」


 手を見る。

 手のひらの小さな傷は、治りかけている。でも、まだ確かにここにある。

 私の手をひいた、冷たい誰かの手の感触も覚えている。

 それに、目を閉じればすぐそこに、あの高原の風景が迫っている。

 緑と朝露の香りも。


 嘘じゃない。

 少なくても、昨夜私の身に起こったことは。


「あの、大丈夫です、私」


 嘘にしなくても、受け止められる。


 背筋を伸ばす。

 前を見る。

 窓にうっすら自分の姿が映る。


 その向こう。駅に吸い込まれていく人たちと、吐き出される人たち。

 この街だけでも、こんなにも人がいる。


 意識をして呼吸をする。


 言葉を続けようとして、窓に映っている伊織さんの姿を先に見た。

 見ようとした。

 けれど、そこには、私の左隣には、誰も映っていなかった。

 右隣の人も、伊織さんの向こう側の人も映っているのに。

 伊織さんの前にある、コーヒーのプラスティックのカップも映っているのに。


「どうしたの?」


 伊織さんは私が気づいたことが、わかっただろうか。


「いえ」


 そうか、本当に吸血鬼なのか。


 

「涼子は、無理やり吸血鬼にされたんでしょうか」


 昨夜の私は、私ではなかった。操られていたわけではなかったけれど、まるで暗示にでもかけられたかのように、そうすることが幸せだと思っていた。

 そのことを伊織さんに話してみる。


「どんなに強い暗示でも、選択の場にまで影響は与えられない。みんな自分で選んで吸血鬼になってるんだよ」

「私もですか?」

「そう。覚えていないかもしれないけどね。だから、きみの友達が戻れない道を進んでいるとしたら、それは彼女自身が選んだことなんだ」


 このまま涼子を諦めるべきなのだろうか。

 それが彼女の幸せだろうか。


 息を止める。


 最初はすぐに戻ってくると思っていた。その次は、そう、どこかで監禁されていて帰ってこれないのかと思っていた。だから、私が助けに行かなきゃと。


 それはこのもやもやとした感情を処理するためだった。


 これからも、ずっと一緒だと思っていた。なんの根拠もなく。

 別々の大学に行ったとしても、その後、就職したとしても。


 そう思っていてのは、私だけだったのだ。

 それを思い知らされるのが嫌だった。


 涼子は何も言わずにいなくなってしまった。

 うん、大丈夫。

 何から何まで報告することが友情ではない。

 でも。


「私、涼子に会って怒りたいんです。勝手にいなくなったりして、心配してるんだって。私はずっと一緒にいるつもりだったのに、どうしてくれるんだって。親友だって思ってたのは私だけなの? 一緒に大学デビューするつもりだったのに」


 そこで私は笑ってみせた。伊織さんも笑ってくれた。


「だから、涼子をこれからも探したいんです」

「わかった。それなら紹介したいところがある。時間大丈夫?」


 伊織さんはそう言うと立ち上がった。


「なにをするにも助けてくれる人は多いほうが良いんだ。実際に手を借りるだけじゃなくて、今の状態を知ってくれている人とか、これからなにをするのか、今どこにいるのかを把握してくれている人が大事なんだよ」

 

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