第9話 理玖8

 キャスターの回るからからとした音がした。そして金属がぶつかり合う音。


 目を開ける。


 最初に見えたのは天井。そして天井からぶら下がっているレール。


 ベッドの上だった。


 でも自分の部屋ではない。

 明かりはついていないけれど、真っ暗というほどではなかった。


 少しだけ頭を浮かせて、部屋のあちこちを見る。

 ベッドが並んでいた。

 僕の左手の甲には点滴が繋がっていて、ぽたぽたと液体が落ちてきている。


 そうか、病院だ。


 部屋の一面は上半分が窓になっているようだった。カーテンが閉まっているから外の様子はわからないけれど。

 反対側には扉があった。

 部屋にいるのが僕一人だからだろうか、ベッドごとにカーテンがついているものの、閉まってはいなかったから、部屋の全体が見渡せた。


 頭を枕に下ろす。


 どうしてここにいるのだろう。


 衝撃と痛みが身体のずっと遠くに、少しだけ残っている気がした。


 ああ、僕は神社に行ったんだ。

 トオルさんと知らない男の人がいた。

 そして、そう、僕はあのとき…。


 心臓がドキドキした。


 僕は二人の争いに割って入って、そして、足が無くなってしまった。

 あのときは、痛くて怖くてはっきりとは分からないったけれど。

 恐る恐る布団の上から右足があった場所を触る。けれど、そこにはちゃんと僕の足があった。


「なんだ…」


 掠れた自分の声がした。

 上半身を起こして布団をめくる。

 僕の両足が並んでいる。糊のきいた浴衣のようなものを着せられていた。


 めくってみる。


 うっすらと傷跡のラインが見えるようだったけれど、暗いからよくわからない。指でなぞると、治りかけの傷のような感触がした。


 痛みはない。


 叫び出しそうな恐怖は、まだ僕の背後にぴったりとくっついているけれど、飛び出してきそうな雰囲気はない。


 父さんと母さんはどこだろう。

 あれから家に帰れたとは思えないから、きっと心配しているはずだ。

 今になると、真夜中の神社に一人で行った自分の行動力が理解できなかった。


 トオルさんはどうなったのだろう。

 枕元にはコードに繋がったブザーがあった。

 これを押せば看護師さんが来るのだろう。

 起きたことを知らせようかと迷っていると、窓が開く音がした。


 そちらを見る。

 カーテンが風で大きく揺れた。

 その向こうに、誰かが立っているようだった。


「トオルさんですか?」


 きっとそうだろうと、妙な確信を持ちながら声をかけた。


「そうだよ」


 しばらく間を置いて、ゆっくりと声がこたえた。


「どうしてそんなところにいるんですか?」


 窓の外側どうなっているかわからないけれど、窓が開いたなら入ってくれば良いのにと思った。


「入れないからだよ」


 吸血鬼は招かれないと他人の家には入れない。

 それを思い出した。

 病院は他人の家に含まれるのだろうか。


「トオルさんどうぞ入ってください」


 僕がそう言うと、ゆっくりとした動作でトオルさんは入ってきた。

 窓際に立ち、僕を見る。

 厳しい顔をしていた。

 でも僕はトオルさんが無事だったことが嬉しかった。


 トオルさんはしばらく無言で立っていた。

 僕はベッドから下りて近づいていったほうが良いが気がしたけれど、身体を動かすのが億劫だった。


「そういえば、神社に吸血鬼が出るって、夏休みに入る前に学校で噂になってたんです。それってトオルさんのことだったんですね」


「そうだよ」


「初めは全然わからなくって、噂のことも忘れていて…でも、僕、会う前に偶然トオルさんの写真を撮ってたんです。トオルさんは写真には写っていたのに、鏡には、カーブミラーには映ってなくて、不思議で、それであの夜神社に行ったんです」




「巻き込んでしまって、ごめん」


 静かな声だった。不思議とよく聞こえる。


「僕が勝手に飛び出したんです。僕が出ていけば、喧嘩はしないと思って。でも失敗でした」

「いや、君のおかげで、俺は助かったよ。ありがとう」

「あれからどれくらい経ったんですか?」


 僕が家を出たのは二時過ぎだったから、三時間くらいは経っているのだろうか。だとしたらもう夜が明ける頃だろう。


「あれから丸一日経っているんだ。きみはずっと眠っていたんだよ」


 ずっと眠っていたなんて、少し損した気分だった。


「そうだ、僕の足…」

「うん」

「なくなったはずなのに…」

「ああ、気づいていたのか。そう、繋げられたんだ。痛いところはない? 違和感は?」


 僕はベッドの上で膝を片方ずつ曲げてみた。そのまま両膝を抱える。


「痛みはないです」

「良かった…」

「僕は、どうなったんですか?」


 普通なら吹き飛んだ足を元通りに戻すなんてできないはずだ。

 あのとき感じた手のひらの痛み。

 トオルさんはすぐには返事をしなかった。だから自分で続けた。


「僕は吸血鬼になっちゃったんですか?」


 吸血鬼なら怪我も一瞬で治せそうだ。


「いや、まだなってないよ」

「まだって? これからなるんですか?」

「いや、きみを吸血鬼にはしないよ。絶対に。今回は緊急でやったことなんだ。失敗する可能性もあった。でも、うまくいって良かったよ」

「どういうことなんですか?」


「俺の血を使って、身体の傷を治した。きみは吸血鬼になりかかっている状態なんだ。でもそのうちに俺の血は排出されるから、そうしたら普通の人間に戻れるよ」


 人間の血液はだいたい百日あれば入れ替わるらしい。

 僕の身体に入ったトオルさんの血はほんの少しだから、一、二週間でなくなってしまうみたいだった。


「あとはきみが選択さえしなければ大丈夫」

「選択ですか」

「きみの目の前に道があっただろう?」


 確かに道があった。あのとき僕はその道

を、たぶん進んだんだと思う。覚えていないけれど。


「もう一度その道を進めば吸血鬼になってしまう。だから何があっても進まないこと」


 不思議な話だった。

 一度目は進んでも帰ってこられるけれど、二度目は帰ってられない。


「朝になったらここに俺の友人が来る。きみが吸血鬼にならないようにサポートしてくれるように頼んだから、安心していい」

「トオルさんはどうするんですか?」

「本当なら俺がついているべきなんだけど…申し訳ない。東京に戻らないといけなくなった」

「どうしてですか?旅は?」

「俺は今、昼間に出歩けないから、旅は難しいかもしれない」 


 躊躇いがちな言葉だった。きっと言いたくなかったのだと思う。でも僕に対して嘘をつかないようにしてくれたのだ。

 一昨日まではトオルさんは昼間でも外にいた。それが、今は出来なくなっている。

 何かが変化したんだ。


「それに、会わなきゃいけない人ができた」


 僕はトオルさんの表情をよく見ようとした。本当のところを、それで見抜こうと思った。


「トオルさんは、その人にあまり会いたくないんですね」


 そう言ってみた。そうすると、トオルさんは薄く笑った。


「そうだね。できれば。別に嫌いってことではないんだけど」

「怒られちゃうんですか?」

「え?」

「その人に」

「ああ。そうかもしれない」

「僕も一緒に行って良いですか?」

「え?…ええ!?」


 トオルさんの声が病室内に響いた。慌てて口を手で押さえる。

 幸い誰も病室には入ってこなかった。

 二人で顔を見合わせる。ふっと空気が緩む感じがした。


「えっと、どうして?」

「それは…」


 そう言われてから理由を考える。

 一緒に行きたいと思ったことに、特別な理由はなかった。


 トオルさんがどこかに行くなら、自分も行ってみたいと素直に思ったのだ。もしかしたら、家族に対する感情に近いかもしれない。

 両親が東京に行くと言うなら、自分も行きたいと思うはずだ。


 でも何か理由をつけるとするならば、なんだろう。


「もしかして、トオルさんは帰ったら怒られるんじゃないですか?」


 トオルさんは東京へ帰ることを、嫌がっているように思えた。

 もとから嫌で逃げ出してきたのは知っているけれど、他にも何か理由があるのかもしれない。

 誰かに会わなければならなくなったというのは、きっと今の状況のせいなのだろう。


「僕に血を分けて、死にそうになっているのを助けたことは、もしかして、やってはいけないことなんじゃないですか?」


 僕の命は助かったし、足もくっついた。気をつければ吸血鬼にだってならないで済む。でも、そんな話あるだろうか?

 もしそんなに簡単に人が助けられるなら、もっと頻繁に起こったりして、話題になりそうだ。

 そうなっていないということは、簡単にはできない理由があるか、やってはいけないルールがあるからじゃないだろうか。


「あれは誰もがうまくいく裏技じゃないんだ。きみは死ぬ可能性があった。でも、どちらにしても死んでしまうかもしれなかったから、賭けてみただけだ」


 そう話してから、トオルさんはちょっとだけ息を吐いた。


「それに、やってはいけないことではないよ。うん、やれる人が少ないだけ。でも、そうだね、俺が怒られるのは…まあ、そうかもしれない」


「なら、僕が行って一緒に怒られます。一人よりも二人のほうが、怒りが分散されると思います」

「断ると言ったら?」

「そうですね」


 目を閉じる。風がどこか遠くで吹いている感覚がした。


「この目の前の道を歩いていけば、僕は吸血鬼になっちゃうんですよね?」

「その脅しが僕に効かなかったらどうするの?」

「んー、でも効くでしょう?」


 トオルさんはため息をついた。でも僕を呆れてではなくて、諦めてついたもののように思えた。


「そうか…そういう効果もあるのか」

「何の話ですか?」

「血を分けると、こういうことも起こるのかってこと」

「家族みたいになっちゃうってことでしょうか」

「そうだね」


 トオルさんは携帯電話を取り出すと、黙って操作した。メールを送ったのかもしれない。


「きみを連れて行くにしても準備が必要だから。また来るよ」

「このまま、空を飛んだりして行けないんですか?」


 空が飛べるのではないかと、大いに期待していたのだ。


「入院中のきみがいなくなったら大事件だよ。ご両親も心配するし。だからその準備をする。それに、行っても数日で戻ってくることになるから、そのつもりで」

「それは、はい。ずっとって言われたら、ちょっと尻込みします」


 トオルさんはまた窓から帰っていった。


 僕はその姿を見ようと点滴の下がった棒を押して窓に駆け寄ったけれど、もうどこにもその姿はなかった。

 試しに窓を開けてみた。ほんの十五センチ程しか開かなかった。

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