第10話 理玖9
ベッドに戻り、改めてブザーを押そうとしたところで、廊下側の扉が開いた。
母さんだった。
一瞬、廊下の明かりに照らされた顔が見えたけれど、目元が赤いようだった。泣いたのかもしれない。
手にはミネラルウォーターのペットボトルを持っている。
「母さん」
僕が声をかけると、母さんはびっくりしてペットボトルを落として、それを拾うことなくベットまでやってきた。
「もう、もう、もう…」
手が伸びてきて僕の頬や髪を触る。最近では、こんなに無遠慮に触れられることはないから、恥ずかしい。でも我慢した。
「痛いところない?」
「うん」
「どうして、外に出たの?」
僕はどういうことになっているのだろう。トオルさんに聞いておけば良かった。
「全然覚えてないんだ。僕はどうして病院にいるの?」
仕方がないので覚えていないふりをすることにした。
母さんが言うには、僕が玄関の扉の前で倒れているのを、新聞配達の人が見つけてくれたらしい。
怪我はないものの、呼びかけても目を覚さないので、救急車で運ばれたのだ。
病院で検査した結果、おそらく貧血が原因ではないかということだった。
眠っている間に、その貧血の原因を突き止める検査をいろいろされたらしいのだが、身体の内部での出血は確認できなかった。
おそらく僕の足が無くなったときの出血が原因だろうけれど、説明するわけにはいかない。もう足は繋がってしまっているし。
結局枕元のブザーは母さんが押した。
最初に看護師さんが来て、そのあと先生が病室に入ってきた。
血圧を測ったり、指を小さな機械で挟んだりされた。
とりあえずのところ、異常はないようだ。
すぐにでも帰ることができるかとおもったけれど、明日も一日様子を見ましょうと先生に言われてしまった。
朝一で父さんがやってきた。
僕の顔を見て、元気そうな様子を確認すると、そのまま仕事に出かけていった。
僕が眠っている間、二人とも僕にずっとついていてくれたらしい。父さんは今日の仕事のために、昨夜は一度家に帰ったのだ。
僕の退院はやっぱり明日になった。
今まで寝ていたから、ベッドに横になっているだけというのも苦痛だ。
病室は相変わらず僕一人だった。
小児科の病室がいっぱいで、急遽一般病棟に入れられたらしいので、そのためかもしれない。
母さんにテレビカードを買ってもらったので、ベッドの横に備え付けられたテレビを見てみたけれど、イアホンで音を聞かなければいけないので、慣れずに消してしまった。
母さんは家に戻っていた。
早朝に採った血液の検査結果を、先生が昼頃教えにきてくれて、貧血は改善傾向にあると言ったからだ。それに僕が何事もなかったかのように振る舞うから、安心したのだと思う。僕も安心させたくて、そう振る舞っていたから良かった。
看護士さんが時折様子を見にきてくれるが、それ以外では特に何もなかった。
点滴はもう外れているので、病棟内を散歩したりした。違うフロアには行ってはいけないらしい。
ナースステーションや浴室などがフロアの中心にあって、そこをぐるりと通路が囲んでいる。病室は一番外側に並んでいた。
だから僕はぐるぐると通路を何周もしてみた。
体力というかエネルギーみたいなものが、身体の中に充満していて、それを少しでも消費したかった。
トオルさんはまた来ると言っていたけれど、今日だろうか。明日だとしたら僕はもう退院しているから、僕の家に来ることになるだろう。場所は知らないはずだけど、病院にも来れたくらいだし、住所を教えなくても大丈夫だろう。
ただまだその許可を出していないから、トオルさんはうちには入れない。
そういえば家に招くためにあの夜神社へ行ったのに、すっかり忘れていた。
お昼ご飯を食べて、少し昼寝をしていると、先生がやってきた。夜とは違う先生だ。
僕が眠っている間に受けた検査とその結果を、とても丁寧に説明してくれた。そして、家族や家でのことについて聞かれた。
きっと原因について探るための聞き取りだろう。
僕は原因についてわかっているけれど、それを素直に言うわけにもいかないし、かといって本当のことを誤魔化すために家庭に原因があると思われても嫌だった。
だから、普段の生活このことはあまり深く考えずに、そのまま答えることにした。
一昨日の夜のことは、よくわからないか、覚えていないで通した。
明朝の退院で大丈夫だと先生は言って、病室から出ていった。
一人になったので、ベッドに横になる。
また暇になってしまった。
詩の暗記をしたかったけれど、本が手元にない。思い出して呟いてみたけれど、あっているかどうかわからなかった。
母さんは夕方頃に戻ってくると言っていたので、そのときに詩集を持ってきてくれるように頼めば良かった。
でも母さんが帰ってくれば、暗記をする時間はないかもしれない。
夕飯は六時で、消灯は九時だ。その合間で、今夜はお風呂にも入れるらしい。
今朝、熱いおしぼりでさっと身体は拭いたけれど、昨日はお風呂に入れなかったから、さっぱりしたかった。
音を聞かないままテレビを眺めていたら、母さんと仕事終わりの父さんが病室に入ってきた。
明日の朝退院できることを二人は喜んでいた。
僕は病院で出された夕ご飯を、二人は家から持ってきたお弁当を一緒に食べた。
本当はこんなふうに、お見舞いの人とわいわいご飯を一緒に食べてはいけないのかもしれないけれど、この病室は僕だけだったし、ナースステーションからも遠い部屋だったので、もしかしたら特別に許されたのかもしれない。
消灯前に父さんは帰っていった。
僕はシャワー浴びて、新しいパジャマに着替えるとベッドに入った。
母さんも隣の空きベッドを借りて眠るようだった。入浴は一度帰ったときに済ませたらしい。
看護士さんが明かりを消しに来てくれて、僕らはおやすみをした。
母さんのベッドからはすぐに寝息が聞こえてきた。
昨日は眠らなかったのだから、疲れているはずだ。心配もかけてしまったし。
僕はお昼寝もしたし、まだ眠くはなかった。
それでも母さんの寝息を聞いていると、少しずつ瞼が重くなってきた。
目が覚めたときは、まだ病室は暗いままだった。
外の匂いがした。
エアコンが入っているから、窓は閉めていたはず。
だれかが開けたんだ。
母さんだろうかと、自分のベッドから下りて、隣のベッドのカーテンを少し開けてみる。
けれど、そこに母さんはいなかった。履いていた靴もない。
僕がカーテンの外に出ると、「やあ」という声がした。
トオルさんが反対側のベッドに腰掛けていた。
「こんばんは」
僕は挨拶して、それからどうしようかと思った。
母さんは今部屋を出ているけれど、こうしてトオルさんと話している間に戻ってくるかもしれない。
僕は廊下へ続く扉へと駆け寄ると、外を確認した。
明かりがついているから遠くまで見通せる。母さんの姿は見えないし、看護師さんも見える範囲にはいないようだった。
扉を閉めるとトオルさんと向き合う。
「今日は母さんも病室に泊まってて、今はいないんですけど」
「昨日の夜もだったよ」
確かにそうだけれども。
「帰ってきちゃうかも」
「大丈夫。少しの間だけ席を外してもらってるんだ」
トオルさんは、まるで母さんにそう頼んだかのように言ったけれど、おそらく違うのだろう。
もしかしたら、吸血鬼の能力なのかもしれない。人を操るような類の。
夏休みの間に吸血鬼の本を何か読もうと決めた。
「きみも一緒に東京に行く話」
「はい。今からですか?」
「いや、急な話ではあるけれど、そこまでではないよ。明日の夜の飛行機に乗ることになる。それについて、もう準備はあらかた終わったんだ。それを知らせにきた」
「僕は何をすれば?」
「何も」そこでトオルさんは言葉を切って僕の表情をみる。「もちろん、明日になって嫌になったら残って構わないから」
僕はそこで、もう一度考えてみた。けれどやっぱり一緒に行きたかった。それに、こちらに一生戻れないわけではないし。
「じゃあ、また、明日。空港で落ち合おう」
トオルさんはまた、あの細い窓の隙間から外にするりと出た。
足場はないはずだけれど、そのままその場でこちらを振り向き、片手をあげる。
僕も手をふり返した。
次の瞬間には、トオルさんの姿は夜の暗がりに溶けるように消えてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます