第8話 理玖7
自然と目が覚めた。
部屋は暗くて、カーテンの隙間から街灯の明かりが入ってくるだけだ。
身体を起こして時計を見ると、夜の二時だった。
眠気はもうなかった。
眠るまえはあんなに身体が怠かったのに、今は平気だ。
耳を澄ましても何も聞こえない。
家族も近所の人もみんな寝ているんだ。
僕は、どうしてだか、外に出てみようと思った。ちょっとだけ玄関から出て、外の様子を見てこようと。
この世界で、ただ自分一人だけが起きている。
そんな感じがしたのだ。
それを確かめたかった。
パジャマから着替える。暗がりの中で準備をしたから、なにか床に落としてしまった。
目を凝らして床を見ると、写真が数枚落ちていた。写生のために撮ったものだ。すっかり忘れていた。
デスクライトをつけて写真を見てみる。
神社の社、花、雲、男の人、猫、自分の靴。
男の人の写真をもう一度見る。
トオルさんだ。
顔は写っていないけれど、服装でわかる。
気づかなかった。僕はこの写真を撮ったあとも辺りをうろうろとしていたけれど、トオルさんはこのあとまっすぐ神社へ行ったのだろう。
今度会うときに一緒に見よう、そう思って引き出しにしまった。
でも僕はなんでこのときに写真を撮ったのだろう。
もう一度引き出しから写真を取り出す。
なんだか落ち着かない。
洋服のどこかにひっつき虫がついているような感じ。
ちょっと見ただけでは、目立った何かがあるわけではなさそうだ。
写真の中央には道路。左側はガードレールが伸びている。写真には写っていないけれど、ガードレールの向こうは土手になっていて低い位置に川が流れている。
写真の右側は塀だ。
ガードレールの途中にはカーブミラーがたっている。その向かいは塀が途切れていて、そちらに入っていく道がある。
トオルさんはその道から出てきて、僕と同じ方向へ進もうとしていた。
トオルさんの足元には黄色いボールが落ちている。色と大きさから、きっとテニスボールだ。
強いて言うならこの黄色が目を引く。
カーブミラーは色褪せたオレンジ色のポールに、丸い鏡が二つ付いている。
カーブミラーにもとても小さくテニスボールが映っていた。
写真自体が小さいから、カーブミラーに映っている部分もさらに小さい。
でも、いくら小さくてもわかる。
カーブミラーには、トオルさんが映っていない。
どうしてだろう。
カーブミラーの中のものと外のものを、一つ一つ確認する。
塀と道路の隙間から生える雑草とか、道路にかかれた白いラインとか。
でも、どう見ても、トオルさんは映っていない。
誰かにも一緒に見てほしかった。
もしかしたら、僕が知らないだけで、こういった現象が起こるのかもしれないからだ。
その写真だけをポケットにしまった。
そっと一階へ降りる。
一度リビングに入って待った。
今の僕の行動で、両親が起きたかどうかを確認するために。
しばらく待ってみたけれど、どちらも起きてこなかったから、玄関へと進む。
靴を履き、慎重に慎重に扉を開けた。
夜の湿った空気が隙間から流れ込んできた。
夜の匂いだ。
少しだけ開けた隙間に身体を滑り込ませて外に出る。
ゆっくりと扉を閉めた。
鍵をかければ音が響くだろうけれど、さすがに不用心だから鍵はかけた。
月が出ていた。
眩しいと思ってしまうくらいに明るい。
これは部屋の中からは気づかなかった。街灯かと思っていた。
家の前に出ると、左右に伸びる道の両方を伺った。
誰もいなかった。
ほっとする。
住宅街なのだから当たり前なのかもしれない。
まだ迷っていたから、とりあえずはあの道の向こうまで行こうと決めて歩き出した。
不審人物に会うのも危険だけれど、普通の人に会うのも危ない。きっと保護されて、交番に行かなければならなくなる。
両親が呼ばれてきつく叱られて、これから先の夏休みは自由に遊びに行けなくなるかもしれない。
道の端まできた。
車のライトが近づいてきたので、咄嗟に電柱の影にしゃがむ。
トオルさんはまだ神社にいるのだろうか。
明日には移動すると言っていた気がする。とういうことは、今夜はまだあの神社にいるということだろうか。
神社まではここから歩いて十分くらいだ。
急いで行って帰ってくれば三十分もかからないはずだ。
吸血鬼は招かれないと他人の家には入れない。
そんなことはあり得ないとは分かっているけれど、もしも、もしも本当にトオルさんが吸血鬼なら、招いておかないと僕の家には入ってこれない。
だから、万が一のとき、僕の家に逃げてこれるように、招いておきたかった。
考えているうちに時間がどんどん過ぎてしまうから、もう迷わずに行くことにした。
もしかしたらトオルさんはもういないかもしれないし。
それならパッと行って戻ってこられる。
神社は住宅街から離れる方向にあった。
街灯の数が減っていくけれど、月が明るいから歩くぶんには問題ない。
神社への入り口までたどり着いた。
見上げると黒い森のシルエットだけわかる。樹木のせいで月の光が届かないのだ。
虫の声がうるさい。
ここにきて、怖くなった。
真っ暗な山をのぼり、誰もいない神社へ、こらから向かうのだ。
幽霊とか、殺人鬼とか、妖怪とか、さまざまな怖いものを想像した。
誰にも言わずにここにきてしまったのだから、誰からも助けてもらえない。
もう帰ろう、そう思って踵を返そうとした瞬間に、ドンっと音がした。
心臓が早鐘を打つ。
走って逃げようと思うのに足が動かない。
耳を澄ます。
もう一度衝撃音がして、木が揺れる音が続く。
思わずしゃがみ込む。
誰かが草むらを走る音が微かに聞こえた。
トオルさんだろうか。
トオルさんを追っている危険な人というのが、やってきているのではないだろうか。
自分の呼吸音が大きい。
ゆっくり深呼吸をしてから息を止める。
足音は山をのぼり、神社のほうへ向かったようだ。
迷ったら行こう。
僕はいつもの道を我武者羅に走った。途中から山の裏側へ回り込むために道を外れる。
あちこち擦りむいたけれど痛くはなかった。
社の裏へと出た。
立ち止まり様子を伺う。
トオルさんの背中が見えた。
けれど、声をかけられる雰囲気ではないことはわかった。
空気がピリピリとしている。
さっきまでしていた虫の声が一切聞こえない。
僕は社のかげに隠れながら、じわじわとトオルさんに近づく。
声が聞こえた。
トオルさんの声ではない。
森から一人の男の人が出てきた。
見たことのない人だ。
二人は会話を始める。
男の人はよく通る声をしているから話の内容がわかるけれど、トオルさんのほうは低く喋っていて聞き取れない。
僕はちゃんと聞きたくて、さらに二人に近づく。
トオルさんが構えた。
もしかしたら喧嘩になるのでは。
僕は社のかげから飛び出す。
男の人と目が合った。
男の人は、困ったなというような顔をした。優しい表情だった。
だから、大丈夫だと、勝手に思った。
自分は子供なのだから、子供が出てきたら喧嘩はしないだろうと。
トオルさんの前に出て、出た瞬間に身体に何かがぶつかった。
よくわからない。
なんだろう。
背中に衝撃がきて、息が止まる。
僕はどうなったんだ。
さっきまで立って走っていたのに。
トオルさんは大丈夫だっただろうか。
起き上がらなければ。
何が起こったのか見なければ。
でも立ち上がれない。
身体が支えられない。
足が熱い。
手で押さえたいけれど、足がどこにもない。
身体のあちこちが痛い。
誰かがきた。
トオルさんの顔が見える。
何かを叫んでいる。
でも聞こえない。
瞼がかってに閉じてしまう。
だんだんと寒くなってきた。
抱きかかえられる感触。
手のひらに痛み。
「……えるか!?」
トオルさんの声。
僕は薄く目を開ける。でも長くは開けていられない。声を出すのは億劫だ。
「…え……」
「何が見える!?」
何が見える?
頬に風を感じた。
目を開けると、そこにはよく知っている風景が広がっていた。
蛇行したゆるい下り坂、両側は水田だ。夕暮れ時の空を映して、金色にきらめいている。右手にある西の空は真っ赤に染まり、真正面の空で紺色が混ざり始めると、左手の空はもう夜だった。一つ二つ、小さく星が見える。
振り返ると薄暗い一本道。かすかに見える朱塗りの鳥居と、その奥の真っ黒な山。
誰もいなかった。
風と自分の呼吸音しか聞こえない。
もう一度前を向く。
僕はどうしたんだ。
「その道を進め」
聞いたことのある声。
でも誰の声だろう。
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