第7話 理玖6
五時の音楽が鳴る前に家に帰ったことを、母さんは少し驚いていた。けれど僕の暗い顔を見て、喧嘩でもしたから早く帰ってきたのではないかと思ったようだった。
僕は自分の部屋に入るとリュックを床に置いてベッドに横になった。明かりはつけていないから、部屋は薄暗い。
トオルさんは大丈夫だろうか。
普通に暮らしていて、ここは危険だから来ないようになんて、言われることはまずない。
いや、そうでもない。工事現場がそうだ。あまり人が集まらないような公園も、変質者が現れたりして、行ってはいけないと学校で言われたりする。
でもそれらは、僕もその危険さがわかる類のものだ。
トオルさんは曖昧な話し方をするから、いまいちその危なさがわからなかった。
トオルさんを追ってくる人とは誰だろう。
やっぱり何か犯罪組織の一員で、犯罪に手を染めるのがか嫌になって逃げてきたのかもしれない。
追ってきているのは、その組織の人間か、もしくは警察ではないだろうか。
でも警察なら、こっちの警察に連絡したら、東京から来るよりも早くトオルさんを捕まえることができるだろうから、やっぱり悪い仲間だろう。
そこまで考えて、ちょっと可笑しくなった。
これはただの妄想だ。
本当のところは、僕のことが嫌になったからかもしれない。
小学生が毎日会いに行っていたら、たとえトオルさんが優しい人でも、少しは面倒に感じるのではないか。
深呼吸した。
泣いてしまいそうだったけれど、深呼吸して耐えた。
泣いてしまったら夕飯のときに、家族に気づかれてしまう。
そのまま天井を眺めて、悲しいのが去るのを待った。
泣かないために寝てしまおうかと思ったけれど、お昼寝をしてしまったから眠気もない。
詩集を暗記する気力もなかった。
何もせずにぼんやりしているうちに、父さんが帰宅する音を聞いた。しばらくして母さんが僕を呼ぶ声も聞こえた。
確認のためにもう一度深呼吸してから立ち上がった。
ずっと暗い部屋にいたせいか、居間の照明が眩しい。
食卓には、おばあちゃんの家からもらって帰ってきたご飯が並んでいる。
同じものだけれど、美味しそうだ。
テレビでは芸能人が一日、牛舎で働く体験をする映像が流れていた。
「…牛一頭から一日でとれる牛乳の量はなんと二十リットルから三十リットルにもなります。これは牛乳瓶に換算すると百本。これだけの牛乳をつくるのに必要な血液の量は約一万リットル…」
「牛乳って血からできてるの?」
ナレーションを聞いた僕がそう尋ねると、母さんは「食事中ですよ」と言って顔を顰めた。
「そうだよ。母乳もそうだし。血には赤血球っていうものが含まれていて、それが赤いんだ。牛乳とか母乳には赤血球が入ってないから赤く見えないんだよ」と父さんが答えてくれた。
血液を飲んでいると考えると、すこし気分が悪くなりそうだったので、深く考えるのをやめた。
かわりにトオルさんが牛乳を飲んでいたことを思い出した。
「人間が牛乳だけ飲んで生きていけるかな」
「そりゃあ子牛が育つくらいだから、栄養は満点だろうけど。大人は無理なんじゃないかな」
「そうね。母乳と牛乳とでは成分がだいぶ違うし」
そこから父さんと母さんは二人で成分について話し始めたが、じきに映画や小説の話に変わった。
二人での会話はいつもそうで、どんどん移り変わっていく。
僕はテレビのほうに向き直ったが、さっきまでの番組は終わっていた。
「俺が好きな作品では吸血鬼が牛乳飲んでたな」
父さんの話が耳に入ってきた。
「私が読んでた漫画では薔薇の生気を吸ってたけど…一般的にはトマトジュースとか赤ワインじゃないの?」
「たぶん血の色からの連想なんだろうな。それこそ成分的に見たら牛乳のほうが血液に近い」
「牛乳だけだったら鉄分が不足しそうね」
「鉄瓶で牛乳を温めて飲んだら良い」
そう父さんが言って二人は笑った。
そこで、僕は思い出した。
神社で吸血鬼を見た。
学校で流れていた噂だ。
もしかしたらあの噂はトオルさんのことを言っていたのではないだろうか。
「ねー、ねー。牛乳ばっかり飲んでたら吸血鬼って言われちゃったりする?」
二人の会話に割って入った。
二人は不思議そうな顔をしている。
「全然そんなことはないと思うよ。その設定はよく見るわけじゃないしね」
「じゃあ、どんなだったら吸血鬼って言われちゃう?」
「そうだねぇ。昼間外を出歩かないとか。肌が青白いとか」
「八重歯があったりすると言われたりしない?」
「あー、そうかも。でも吸血鬼の場合は犬歯が発達してるんだろうから、八重歯は関係ないんだけどね」
「え、八重歯って犬歯のことじゃないの?」
「犬歯が八重歯になりやすいだけだよ。乳歯から永久歯に替わるときに一番最後に生えてくるからね」
そうしてまた二人で話し始めた。
二人の会話をからわかった吸血鬼の特徴は、
・太陽の下を出歩けない。
・他人の家には招かれないと入れない
・鏡に映らない
などがあったが、トオルさんはまず一番めから当てはまらない。
いつも昼間に会っていたのだから。
珍しく二人の話題は僕のところに戻ってきて、どうして吸血鬼の話を聞くのかと尋ねられた。
「実は学校で噂になってるんだ。吸血鬼が出るって」
場所は伏せた。最近僕が神社に通っているから、神社に吸血鬼出るという噂が流れているとは言いづらかったのだ。今まで忘れていたとしても。
「昔あった口裂け女の話みたいだね」
「ポマード、ポマード、ポマード?」
「そう。人面犬とか、小さいときにそういうあった?」
父さんが母さんに聞く。
「学校での噂にみたいなものはなかったかな。でも、近所に魔女が出るって話はあった」
「それって日本の話?」
「五時過ぎまで外で遊んでいる子供を拐いにくるの」
「あー、なるほど。家に早く帰らせるためにね」
「そうそう。でもそんな噂が流れると、不思議なことに目撃したって子が現れるの」
「あれって目立ちたいから嘘をついてるのかな」
「どうなんだろ。出るかもって思っていると、ちょっとした木の葉のゆらめきも魔女に見えちゃうのかもしれないよ」
子供を帰らせるための嘘。
もしかしたら、神社に出る吸血鬼も同じことなのかもしれない。
神社に人を寄せ付けなくさせるために流した噂。
そんなことをしたのは、もちろんトオルさん本人だろう。
神社で寝泊まりするために。
夏休みに入った子供たちに見つかれば、保護者を通して通報される可能性もあるからだ。
そこまでして一箇所に、あの神社にとどまりたい理由はわからないけれど。
僕が神社に行くと、トオルさんはたいてい読書をしていた。静かに過ごしたかったのかもしれない。なら、僕が毎日行くことで邪魔をしていたはずだ。
急激に身体が重くなった。
身体が座っている椅子に、そして床に沈んでいくような感覚だ。
ごめんなさいという気持ちと、恥ずかしいという気持ちが重くしていた。
居た堪れなくなって立ち上がる。
「僕、疲れたからもう寝る」
二人にそう言う。母さんは僕の顔を見て驚いた顔をした。
「あなた顔色悪いわよ。もしかして体調悪い? 熱測ってみようか」
母さんも椅子から立ち上がって僕の傍に座ると、手のひらで僕の額を触る。
父さんも同時に立ち上がってリビングルームを出ると、救急箱を持って戻ってきた。中に体温計が入っているのだ。
僕は否定をせずにされるがままになっていた。本当に具合が悪いような気もしてきていた。
脇に挟んだ体温計からメリーさんの羊のメロディーが流れる。
「三十七度か。どうする? 病院行く? 最近暑い時間に外にいる事が多かったから…」
「ううん、いいよ。大丈夫。寝てれば平気」
「明日になっても体調悪いなら病院に行きましょう」
僕はシャワーだけ浴びて汗を流すと、歯磨きをしてベッドに入った。
サイドテーブルにはお水が入ったグラスが置いてあったから、一口飲んだ。
頭がくらくらしてきた。
もしかしたら本当に病気なのかもしれない。
まだ寝るには早い時間だったけれど、目を閉じると眠気がやってきた。
そうか、明日は神社には行けないんだ。
最後にそれだけを考えていた。
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