第5話 理玖4

 トオルさんのことを家族に少しだけ話した。


 写生に行ったら、読書をしている大学生のお兄さんと会って親しくなった。要約するとこんな感じだ。


 正確には大学生ではないけれど、さすがに旅をしている人では両親も心配すると思ったのだ。


 母さんは不審な人物ではないかとやっぱり心配した。ただトオルさんのことを話すように言ったのはトオルさん自身であることを説明したら、少しだけ安心してくれたと思う。



 親も先生も同年代の友達も知らない秘密の、しかも年上の友達がいて、そのことを素敵だと感じることはいけないことではないけれど、とても危険なことでもあるのだとトオルさんは話していた。

 だから自分のことは家族にもちゃんと話すようにと言われたのだった。


 トオルさんは不審者ではないのだから、大丈夫ではないのかと感じるけれど、大人たちがとにかく心配性なのはわかっているので、トオルさんも両親も安心させるために話したのだ。



 次の日は朝から晴天だった。


 トオルさんは午前中出かけているかもしれないと言っていたので、僕も午前中は家で別の宿題をすることにした。


 問題集は見開き二ページが一日分になっていて、その日ごとに国語だったり算数だったりする。

 夏休みはだいたい四十日間あるから、一日で四日分こなせば、七月中に問題集を終えられる計算になる。


 夏休みが始まってからもう数日経っていて、それまでは一日分ずつしかやっていないから、やれてなかった分を今日やってしまおうかとも思ったけれど、あんまり頑張りすぎても先は続かないだろう。


 休憩しながら問題集をして、テレビを見て、母さんとお昼ご飯を食べてから、神社へ向かった。

 今日も母さんに頼んで水筒を二つ持っていくことにした。この間は曖昧な言い方をしてお願いしたけれど、トオルんのことはもう話してあるから頼みやすかった。


 誤魔化したり嘘を言ったりしなくていいのは、精神的に楽だった。だから、トオルさんの言うとおり、母さんたちに話して良かった。


 玄関で靴を履いていると母さんがやってきて、背中のリュックにクッキーを入れてくれた。食べられるようなら、二人でいただきなさいということらしい。


 母さんにお礼を言って家を出る。


 昨日の雨の湿気がもあもあと地面から立ち上っているみたいだった。


 神社まで上っていく道の入り口までたどり着くと、首から下げていた水筒からお茶を飲んだ。


 風が通り抜けると森の木がさわさわと音をたてて揺れて、葉っぱについていた雨粒が雨のように降ってきた。

 画用紙が濡れないように画板を上にして、頭の上に捧げるようにして持ってから、坂道を上っていく。


 神社には誰もいなかった。


 トオルさんはまだ帰っていないらしい。


 僕はいつもの場所で写生を始めた。


 この分なら、今日か明日には絵の宿題は終わりそうだ。

 やらなければいけないことの一つがクリアできたら気分が良いし、そうすると他のことにもやる気が出るから、どんどんクリアしていけそうだ。そうやってうまい具合に宿題が済んでいけば良いなと思う。


 もちろんそんなにうまくいかないのは、これまでの夏休みの経験からわかっているけれど。



 一時間ほど色を塗っているとトオルさんが帰ってきた。


 リュックの他に買い物袋を下げていた。たくさんのものを買ってくるのだと思い込んでいたけれど、トオルさんが持っているのはコンビニでもらえる小さな袋だった。中身もそんなに入っていない。


「こんにちは」


 僕が挨拶するとトオルさんは手を軽くあげる。


「こんにちは。晴れて良かったね」

「はい」


 トオルさんがいつもの場所に荷物を下ろして自分も座ったから、僕はリュックから水筒とクッキーを出して持っていく。


「母からです」

「ん? おお、クッキー? ありがとう。ああ、そうか俺たち二人で食べなさいってことだね」

「そうです」

「うーん、どうしようかな」


 最後の言葉は僕に対してではなく、独り言みたいな声の大きさだった。


「クッキー苦手ですか?」

「いや、そうじゃないんだけど…うーん、そうだな」


 そう言いながらトオルさんはクッキーの袋を開けた。僕も絵を描いていた場所から、自分の水筒を持ってきて座る。


「昔は俺も食べられたんだよ、いろんなものを。クッキーも好きだった。でも今は食べられないんだ」

「それは、あの、アレルギーとか…」


 同級生にもアレルギーで特定のものが食べられない子がたくさんいる。だから嫌がるものを無理矢理食べさせたりしてはいけないと、母さんからも言われたことがあった。


「うん。そうだね、近いかもしれない。ただアレルギーよりずっと食べられるものは少ないかな」

「そうだったんですね」


 悪いことをしたかもしれないと感じて、僕はクッキーをしまおうとしたけれど、トオルさんはそれをやんわりと止めた。


「でも、目の前で食べるのは全然不快ではないよ。美味しそうに食べているの見るのは嬉しい。だから一緒にお茶にしよう」


 そう言ってトオルさんはコンビニの袋からパックの牛乳を出した。


「俺はこれなら飲めるから」


 今までトオルさんが水分をあまり摂っていなかった理由がわかった。


「牛乳を買いに出ていたんですか?」

「それもある。あと、銭湯に行ったり、服を洗ったり、図書館に行ったり」

「銭湯でお風呂に入ってるんですね」

「そう。早朝に空いている銭湯を見つけたから」


 銭湯は夕方から開くところが多いらしい。朝はあまり人がいなくて気持ちが良いのだそうだ。

 そういえば神社で寝泊まりをしていると聞いていたけれど、無精髭が伸びているところも見なかったし、汗臭いということもなかった。


「僕はお風呂は嫌いじゃないけど、長く入っているのは苦手です。なんだが息苦しくなっちゃって」

「お湯の温度が高いのかもね」


 それからトオルさんはリュックから紺色のビニール袋を出した。ショッピングモールに入っている書店の袋だった。

 中から一冊を取り出して、昨日の詩集と重ねて渡してくれた。


「たくさんあると迷っちゃうかもしれないけど」


 新しい一冊はとても奇妙名前の人の本だった。


「こっちは、とても面白い詩集なんだけど、あまり暗唱には向いてないやつなんだ」

 久しぶりに見かけたから買ってしまったんだとトオルさんは言った。

「借りても良いんですか?」

「うん。読んでみて、その中から選んでも良いし、全然別の本から見つけても良いから。その本は参考です」

「はい」


 お茶会が終わったあと、僕は写生の続きをして、絵を仕上げた。

 トオルさんは別に新しく買った本を読んでいるようだった。


 夕方の音楽が流れて、僕は帰り支度をすると、トオルさんにまた明日と声をかけた。

 絵は仕上がったけれど、またここに来たかったからだ。だから絵のことはトオルさんには黙っていた。


 トオルさんも「また明日」と笑って手をあげた。



 

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