第4話 理玖3
次の日は朝から雨だった。
湿度は高いけれど、気温は上がらなかったので、幾分か過ごしやすい気がした。
写生の続きはできそうもないけれど、お兄さんに本を返したかったので、昼過ぎに神社に出かけていった。
山全体が雨を受けてバタバタと音を立てていた。それなのに山に入ると、雨は地面にまであまり届かない。
見上げると雨粒が緑色に煌めいていた。
リュックを濡らさないために抱えるようにして持ったので、普段よりも移動に時間がかかった。
神社にたどり着くと、お兄さんはいつもの場所に座っていた。
本は読んでいない。僕が持っているからだ。
空を見ている。
屋根のある場所ではあるけれど、少し髪が濡れているようだった。
僕は申し訳なくて小走りになった。
僕の走る音に気付いてお兄さんはこちらを向く。良かった笑顔だ。
「やあ、この雨のなか来たんだね」
「こんにちは。あの、お兄さん、ごめんなさい。昨日、お兄さんの本を持って帰ってしまって」
僕は昨日のことを話しながら、リュックから本を出して渡した。ついでにタオルも。
お兄さんはどちらも「ありがとう」と言って受け取ってくれた。タオルを首にかけ髪を拭く。
僕も自分のぶんのタオルで濡れたところを拭いた。
「そうか、本はきみが持っていてくれたんだね」
「かってに持って帰っちゃってごめんなさい」
「いいよ、ありがとう。それに俺のことを黙っておいてくれたし」
「でも、あの、お兄さんはべつに、不審者じやないし…」
「俺はじゅうぶん不審者だよ」
そう言ってお兄さんはからからと笑った。
「お兄さんはここで寝泊まりしてるんですか?」
昨日のおじさんが言っていたことだ。お兄さんは特に躊躇いもせずに頷く。
「そう。こことか、近くの神社を転々と。でも、ここは誰もこないから、ここにいることが多いかな」
お兄さんは賽銭箱の裏側を指さすと、小さく畳まれた寝袋と大きなリュックが置いてあった。
「自分探しですか?」
僕がそう尋ねると、お兄さんは意外そうな顔をする。
「よく知ってるね自分探しなんて言葉」
「テレビで見ました」
「そっか。うん、自分はここにいるから、まだ探さなくても大丈夫そうだよ。でも、たしかにまわりにはそう見えるかもなぁ」
「じゃあ帰省ですか?」
「俺の地元はこっちじゃないんだ。ここはいいところだね」
「とっても田舎ですけど」
「のんびりできて良いよ。本もじっくり読めるし」
そこでしばらく無言になった。
雨はまだ降っていた。
梅雨の時期に雨があまり降らなかったから、もしかしたら雨が数日続くのかもしれないと思った。休みに入ってから天気予報を見ていないせいで、これから先の天気がわからない。
お兄さんに聞きたい事がたくさんあったはずなのに、いざ聞けるとなると、全然質問を思い出さなかった。
僕はリュックに入れていた水筒を出すと、コップを二つ用意してお茶を注いだ。一つをお兄さんの近くに置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
お兄さんは少しだけ飲んだ。それを見てから僕も飲む。
それからお兄さんはコップに視線を落として、難しい顔を一瞬だけしてから僕のほうを見た。
「俺はね、うーん、仲間って言っていいのかな、そういう間柄の人たちと仕事をしてたんだよね」
「はい」
「それまでは結構退屈してたんだ。大学は楽しかったけれど、刺激的な毎日ってわけじゃなかったし。だからその人たちの仲間になって、自分が特別になった気がしてたんだ」
お兄さんは時折僕のほうを見て、僕が話についてきているかを気にしていた。
僕はちゃんと話を聞いていることをわかってもらいたくて、大袈裟に頷く。
「二、三年くらいかなぁ、一緒に過ごしていたんだけど、うーん、もしかしたら俺が思ってるよりも、ずっと怖い人たちなんじゃないかなって感じてね。そこから離れるためにここに来たんだ」
「お兄さん、それは振り込め詐欺とかの…」
「いやいやいや、違う違う、そんな犯罪組織なら、俺だって最初から入らないよ」
「ああ、ごめんなさい。びっくりしました。良かった」
「いや、俺も悪かったよ。そんなふうに聞こえるもんな」
「最近学校でも生活の時間に振り込め詐欺について勉強したりするんです。警察の人がきたりして」
「今の話をちゃんとあやしいって思ったんだ、偉いよ。でもあやしいと思う人に、あやしいってそのまま言うのは危険だから気をつけなさい」
お兄さんは僕が傷つかないように、軽い口調でそう言った。
「んー、まー、時間ができたからね、ちょっと旅をしてもいいかなって思ったんだ」
「じゃあ、ここからまたどこかへ行くんですか?」
「いずれはね」
「しばらくは、いますか?」
「そうだね。知り合いから頼まれて、調べ物もしているし」
お兄さんはそこで賽銭箱の裏へ手を伸ばして、リュックを引き寄せた。中から地図が載った本を出すと、ページの間から折り畳まれた日本地図を取り出した。
二人の間で地図を広げる。
「今はここにいる」
日本地図の一点をお兄さんは指さした。
「きみは行きたいところとかある?」
「近いところは修学旅行で行けるから、ずっと遠いところが良いですね」
そこで北海道を指差してみる。
「僕、たくさん積もった雪って見たことないので、北海道が良いです」
「北海道か。俺は何年か前に一回行った事があるよ」
「どうでした?」
「夏だったけど夜は寒かったよ。びっくりした。それでいて地元の人なんかは半袖を着てたな」
「じゃあ僕もたくさん着込んで行かなきゃ」
それからしばらく二人でそれぞれの旅の計画を立てた。お兄さんにとっては、実際に旅するための計画だったけれど、僕にとっては理想の旅の計画になった。
それでもわくわくした。
本当に一人で旅に出かけられるようになるのは、いつになるだろうか。それが待ち遠しい。
その日はずっとそんなふうに、とりとめのない話をしていた。
詩の暗唱の話もできた。
持って帰った本を少し読んでしまったことを謝った。明日には読み終えるから、そうしたら貸そうと言ってくれた。
夕方の五時になって音楽が流れるまで、僕は時間のことなんかまるで気にしていなかった。
五時の音楽が聞こえたら帰ること、というのが母さんとの約束だった。僕のいわゆる門限というやつだ。
僕の帰り際、お兄さんは自分の名前をトオルだと名乗ってから、僕に名前を尋ねてきた。
「僕は
「うん。午前中はもしかしたら街に買い物に出ているかもしれないけど、そんなに長い時間留守にはしないよ」
それから「また明日」とわかれた。
明日は絵の続きが描けるだろうか。描けなくても来るつもりではあるけれど、自分の夏休みの計画もちゃんと遂行せねばと思った。
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