第3話 理玖2
僕は知らない大人の男の人が少し苦手だ。
あまり周りにいないせいかもしれない。
父さんと学校の先生くらいだろうか。お祖父ちゃんはたまにしか顔を合わせないから、会うときは少し緊張してしまう。
でも、瓢箪の実を育てて、徳利を作ったり、一階建ての家の屋根よりも高くサボテンを育てたり、鈴虫をたくさん飼ったりと、お祖父ちゃんは趣味が多くて、毎日忙しそうで、そして楽しそうだ。尊敬しているから、緊張もするけど嫌いじゃない。
大人の男の人の苦手なところはなんだろう。
お酒を飲んで声が大きくなったり、怒鳴ったりするところだろうか。あと聞いていて嫌な気持ちになる冗談を、笑いながら言ってくるところも。そうじゃない人もたくさんいるのは、わかっているのだけれど。
神社で会ったお兄さんも、大人の男の人だったから話しかけるのを躊躇したけれど、話してみたら嫌な感じはしなかった。
お茶を渡したときもちゃんとお礼を言ってくれたし、本について少し失礼なことを僕が言ってしまったときも、お兄さんは笑っていた。これは家に帰ってから気づいて、すごく後悔した。
でも笑ってくれたってことは、気分を害したりはしなかったってことだと思う。
次の日も絵を描くために神社に行った。写真を見て描くのをやめにしたのだ。絵を描くのが楽しくなってきていた。お兄さんにまた会えるのではないかという期待も少しあった。
母さんに言って、水筒を二つ用意してもらったから、もし会えたら一つ渡そうと考えていた。
ラジオ体操をしてから少し二度寝をして、お昼になる前に家を出た。
神社に着くと、お兄さんは昨日と同じような格好で、昨日と同じように本を読んでいた。
「こんにちは」
僕が勇気を持って挨拶すると、お兄さんはこちらを見て、「こんにちは」と返してくれた。
「また来たんだね」
「はい。宿題の写生が終わらないから」
僕は画用紙を見せる。
「俺は絵は詳しくないんだけど、良い絵になると思うよ」
お兄さんは僕の絵を見ながら、真剣な顔をしてそう言ってくれた。
だから今度はあまりどきどきせずに水筒を渡せた。お兄さんも今度はすんなに受け取ってくれた。
それから僕らはそれぞれ写生と読書を始めた。
昨日と同じ場所に座る。今日は下書きの線をペンでなぞって、色を塗っていくつもりだった。
ペンでなぞるのは家でもできるので、夜のうちに済ませようかと思ったけれど、家だとどうしてもやる気が起きなかった。
ここにきたら嘘みたいにやる気になってきた。
油性ペンでなぞり終えると、お茶を飲んで休憩をして、色を塗る工程に入った。
色は何を使って塗っても良かったので、僕は水彩絵具にした。
図工の時間に見た、水彩絵具で絵を描く動画が印象に残っていたからだ。
色は薄い色から塗っていくこと。
あと、固有色以外の色をまず使うこと。
固有色というのは、トマトなら赤、葉っぱなら緑みたいな色のことらしい。
動画の中では大胆に色を塗っていて、出来上がりがとても綺麗だったから、僕も自分で描きたくなった。
固有色以外の色というのは、その物をずっと観察していると、奥の方から浮き上がってくるというので、僕もまず観察から始めた。
何分か経って、気づくと、お兄さんが近くまで来ていた。
邪魔をしないように少し距離を置いて立っているけれど、僕の絵を見ているのはわかった。
「どうしたんですか?」
僕が尋ねる。お兄さんは肩をすくめた。
「きみが急に動かなくなったから」
きみと言われたことが初めてで、少しくすぐったい。
お兄さんの言葉には訛りもないし、きっと都会からやってきているのだと思った。
「色を塗るために、観察してたんです」
「そうなんだ」
「奥のほうから浮かび上がってくるらしいんですけど…」
そこで僕は固有色の説明をした。お兄さんは熱心に聞いてくれる。それから二人でまずは木の観察を始めた。
「ほらあの辺、光が当たってるからちょっと白っぽいというか黄色っぽく見えない?」
「はい」
「で、こっちのほうは影になってて、濃い緑のはずなんだけど青っぽい気がする」
「はい」
「固有色以外っていうのはこういう色のことかもしれない」
「はい。なんだか見えてきた気がします」
「いや、うん、俺も絵は学校でしか描いてないから、ちゃんとやってる人から怒られるかもしれないけど」
お兄さんは自信なさそうにそう言った。
「いえ、他の部分もそんな風に見てみます!」
僕は教えてもらえたことが嬉しくて、大袈裟にリアクションをとった。
お兄さんは何度か頷くと、また定位置に戻っていった。そして僕が渡した水筒を、ゆっくりと飲んだ。
気温がぐんぐん上がっていって、僕は汗びっしょりになっていたけれど、お兄さんは涼しい顔をしている。
僕は忘れないうちに木の部分の色を塗ったあと、お弁当を食べた。
お兄さんは何をしている人なのだろうか。
昨日も今日も神社にいる。おそらくそれよりも前からいたのだと思う。
仕事の合間に休んでいるようにも見えないから、大学生なのだろうか。
都会の大学に通っていて、夏休みだから実家に帰省しているのかもしれない。
大学生は自由なのだと、学校の先生が言っていた。
小学生も中学生も高校生も、登校途中で行くのをやめたりしたら怒られる。大人場合は職場だ。
だけど、大学生は大学に通う途中で、例えば反対方向の電車に乗ってしまえるらしい。
海外に留学だって、会社を起こしたりだってできる。
もちろん先生は、たがら大学に入るまでは、一生懸命勉強しましょうね、ということを言いたかったんだと思うけれど、僕は自由にできるところに憧れた。
お兄さんが大学生なら、どんな生活をしているのか聞いてみようと思った。
お弁当を食べ終わったあと、絵をまた描き始めたけれど、あまり集中できなかった。だから今日は早めに切り上げることにした。
やるべき宿題は他にもある。
問題集と読書感想文と自由研究。あと、好きな詩を暗記すること。これはあまり短いやつは駄目だと言われているから、まず詩を探すことから始めないといけない。
もしかしたらお兄さんに聞けば、何かいい詩を知っているかもしれない。
そう思ってお兄さんのほうを見ると、姿がなかった。
帰る準備をしてから、境内を一回りしてみたけれどいない。
帰ってしまったのだろうか。それなら、一言声をかけてくれれば良かったのにと、少し寂しく感じたのだけれど、お兄さんが座っていた場所には、文庫本が二冊と僕が渡した水筒が残っていた。
水筒を振ると、中にまだ麦茶が入っている。申し訳ないけれど、水筒は持って帰ることにした。
文庫本は忘れ物だろうか。それとも、またここに、すぐに戻ってくるということだろうか。
夕立がきたときのことを考えて、濡れない位置まで文庫を移動させると、僕は荷物のところまで戻った。
すべての荷物を抱えたタイミングで、後ろから「こんにちは」と声がかかった。
びっくりして振り返る。
少し離れた場所で竹箒を持ったおじさんが立っていた。首からタオルをかけていて、この神社までくるだけで、汗びっしょりになっている。この神社はのぼってくるには大変な場所にあるからだ。だからお参りに来る人は、もうあまりいなくなってしまったらしい。だから専任の神主さんがいないのかもしれない。なにか行事があるときは、近くの神主さんが代わりにやってくると聞いたことがあった。
「こんにちは」
僕は緊張しながら挨拶を返した。
もしかしたらここで写生をしていることで、怒られるかもしれないと思ったからだ。
水彩絵具を使ったけれど、汚さないように気をつけたつもりだ。
おじさんは僕の格好から、絵を描きにきたことに気づいたようだけれど、夏休みの宿題かどうか聞いただけだった。
「そういえばボク、ここであやしい人を見かけなかった?」
おじさんの言うボクというのは、つまり僕のことだろう。
「いえ。昨日もここに来ましたけど、見てません」
「そう。なんか若い人らしいんだけどさ、この辺の神社でどうやら寝泊まりしてるらしいんだよね」
「はあ」
そこで僕はやっとお兄さんのことに思い至った。僕の中であやしい人だと思っていなかったから。
「誘拐されたりとか、変なことされたりしても危ないし、見かけたら近づいちゃだめだよ」
「はい。ありがとうございます」
僕はお辞儀をして、そのまま帰ろうとした。
「あれ? あそこの本、ボクのじゃないかな?」
おじさんが指さした方向には、お兄さんが残していった文庫本があった。
「あ、はい、僕のです」
咄嗟にそう答えると、社まで走り、文庫本を手に取ると、そのまま「さようなら」と言って山を下り始めた。
遠くの方で「走ると転ぶよ」と聞こえた気がする。
あのまま本を残していけば、神社にお兄さんがいたということがバレてしまうと思った。
お兄さんはあやしい人ではないのに、もしかしたら警察を呼ばれてしまうかもしれない。
明日また神社に来たときに、事情を話して本を返そう。
山を下り終えると、一度立ち止まって、本をリュックにしまった。
歩きながら、リュックの中で本に変な折り目がついたらどうしようと不安になったので、家に帰るとすぐにリュックから出した。
一冊は初めて会ったときに読んでいたヘミングウェイの本だった。もう一冊は詩集だった。表紙にはピアノの鍵盤のようなものが並んでいる。
勝手に読んでは駄目だと思ったけれど、少しだけ、と、ペラペラ捲ってみた。
意味はうまくつかめなかった。けれど綺麗で冷たくて、カッコ良い感じがした。
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