第2話 理玖1
神社に吸血鬼がいる。
そんな噂が流れ始めたのは、夏休み目前だった。
やれ追いかけられただの、やれ血を吸っている場面に出くわしただの、さまざまな話がまことしやかに囁かれていたけれど、真実なら警察沙汰だろうし、全校集会で注意するよう呼びかけられるはずだ。
それがないのだから、ただの噂なんだと僕は思っていた。
それよりも、これから始まる夏休みのほうが楽しみだった。
僕は朝早く起きるよりも、夜遅くまで起きているほうが得意だったから、長期の休みになってようやく、自分にあった生活が送れるのだ。
毎朝のラジオ体操の時間帯にだけぱっと起きて、帰ったらまた寝てしまえばい良いし、昼前までに起きられれば、母さんもあまりうるさく言わない。
七月中に宿題を終わらせて、残り一ヶ月、好きなことだけして過ごすのだと決めていた。
だから、図工の宿題をするために行った神社で出会った男の人のことを、僕ははじめ吸血鬼だと思わなかった。
図工の宿題は写生だった。
出来るだけ風景を描くこと。外で描く場合は、熱射病に注意すること。
先生にそう言われていた。
僕はカメラで風景の写真を撮って、それを見ながら家で描くことにした。小さくて丸っこいカメラを貰ったのだ。その場でプリントできる。何枚も撮ってから家で選ぼうと思った。
夏休み初日。ラジオ体操のあと朝ごはんを食べて、会社に行く父さんと母さんを見送った。昨日の夜は早く眠ったので二度寝はやめて、写生に行くことにした。
母さんに用意してもらったお弁当と水筒とカメラと、あと一応画板と画用紙を持って出かけた。
玄関から外に出る。その瞬間からじりじりと肌が焼けるような感覚がした。一度玄関に戻ってから麦わら帽子を被った。これは長い時間、外で過ごしたら危ないだろう。しかも気温はこれからもっと高くなるはず。でも、暑いのは得意だし、嫌いじゃない。
特別に描きたいものもなかったので、とりあえず学校とは反対方向に行ってみることにした。学校も学校へのルートも目新しくはない。
歩いている途中で、一枚撮ってみた。小さな写真がカメラから出てくる。鮮明ではないし拡大もできないけれど、なかなか雰囲気のある写真が撮れた。写真をポケットにしまうと、また歩き出す。
木陰の猫、カーブミラーと男の人、珍しい車、木の枝越しの入道雲、道路脇に咲くオシロイバナ。
思いのまま撮ってしまったため、残りの枚数が四枚になった。替えのフィルムを持ってきていない。
そろそろ休憩したくなったので、山へ登る小道に入った。この小道の先には神社がある。山の斜面に沿って階段も設置されているけれど、急だし段差が高いので坂道を選んだ。神社へ行くルートはあと一つ、舗装もされていない獣道がある。
神社にはもう神主さんがいないから、誰にも会わないはずだ。
時折風が吹き抜けて気持ちよかった。頭上で笹がさわさわと鳴る。山の全体として杉の木が多いけれど、この道の両脇は笹が植えられていた。
坂道を登り切って、社のあるスペースに入った。
古い社と社務所だけがある。手水は階段の下にあるからここにはない。
座れる場所を探そうと歩き始めてから、社に人がいることに気づいた。
男の人だった。
僕が現れたのを見て、男の人は驚いたみたいだった。
僕はというと、少し警戒した。
見たことがない人だったし、公園や神社で変質者には何度か遭遇したことがあったからだ。
男の人は驚いたあと、頷くような会釈を僕にしてから、少し伸びをして、本を読み始めた。
文庫本だ。カバーがなかったからタイトルはわからなかった。
僕はしばらく男の人を観察していたけれど、どうやら読書に集中しているようだったし、僕もどこかに座りたかったから気にしないことにした。
境内のあちこちを歩き回り、腰掛けるのにちょうど良い大きな石の上に落ち着いた。
そこから見ると、真ん前に大きな木が生えている。
その木を画用紙の真ん中にどんと置いて、隅に神社の建物を描けば面白い構図になるかもしれない。
写真を一枚撮った。それから水筒のお茶飲む。
虫の声と木々のざわめきに包まれていた。ここも風が通り抜ける場所らしくて随分と涼しい。汗もすぐに乾いた。
写真を見ながら描こうと思っていたけれど、道具はあるのだから、このまま下書きまでしてから帰ることにした。
描いては消し、描いては消しを繰り返して、ようやくうまく描けそうな気がしてきたから、一度鉛筆を置いてお弁当を食べることにした。
男の人はというと、まだ同じ場所で本を読んでいた。今は賽銭箱に寄りかかっている。
僕が見ていることにも気づいていないようだった。
ぼんやりと読書する姿を眺めながらお弁当を食べた。
その間も男の人は本から顔を上げなかった。ただ同じ姿勢に疲れたのか、途中で横になっていた。
男の人の周囲には、水筒もペットボトルも見当たらなかった。だから、何時間も水分を摂っていないのかもしれない。少なくとも、僕が観察している間は一度もなかった。
もしかしたら具合が悪くなって、横になったのではないだろうか。
そう考えたら急に心配になってしまった。
以前、運動会の練習をしていたときに、人がたくさん倒れたことがあった。救急車が呼ばれて、友達が何人か運ばれていった。
そのときのことを思い出してしまった。
みんなパニックになって、泣き出してしまう子もいた。
僕は水筒のコップに麦茶を注ぐと、ゆっくりと男の人に近づいていった。
「あの…」
僕がおそるおそる声をかけると、男の人は本から視線を外してこちらを見た。
なんだか不思議な目をした人だった。まじまじと見てしまって、失礼になると思って目を逸らす。
「なに?」
「あの、飲み物。熱中症になっちゃうから。あの、これ」
僕がしどろもどろになりながら、コップを差し出すと、男の人はきょとんとした顔をした。
「さっきから何も飲んでないから。今日暑いし」
「ああ」
男の人はようやく僕の言っていることがわかったらしく、身体を起こした。
コップに手を伸ばしかけて、ふとやめて、なにか考えているようだった。
ああ、断られるな。そう僕は思ったから、コップを引っ込めようとしたけれど、それよりも一瞬早く男の人はコップを受け取った。
一気に飲み干す。
「あの、足りなかったら、まだあるので」
「いや、もうじゅうぶん。ありがとう」
「大丈夫ですか? 気分が悪かったりしませんか?」
男の人はそこで快活に笑った。
「うん。大丈夫。俺は体温が低くって、あんまり汗もかかないから」
コップを返してもらうついでに、そっと手に触れてみる。たしかにひんやりと冷たかった。
「なにを読んでいるんですか?」
「これ? ヘミングウェイの移動祝祭日」
男の人は僕に本を見せてくれる。
「ヘミングウェイがパリにいたときの話なんだ」
「ヘミングウェイ?」
「アメリカの作家。老人と海とかが有名かな。老人が海でカジキを釣る話」
「それって面白いんですか?」
男の人は笑った。
「おもしろく書けるから有名な作家になったんだよ」
「ふーん」
お互いにお礼を言って、男の人は読書へ僕は写生へと戻った。
一時間くらいで下書きはできあがった。
男の人は本を脇に置いてお昼寝をしているようだった。
僕は帰る前に挨拶したかったけれど、起こさないように静かに家に帰った。
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