いつか忘れる空
秋月カナリア
第1話 襲撃
問答無用で吹っ飛ばされた。
咄嗟に手首を重ねて攻撃を受けた。手首の骨が折れる感覚がした。奥歯を噛み締める。幸い切断は免れた。咄嗟に後ろへ飛んで衝撃を和らげようとしたが、うまくいったのかわからない。
直前に気配を察知したが、避けられらなかった。警告なりなんなり、会話があってから向こうも動くだろうと考えてしまったからだ。
樹木の枝を次々と折りながら後方へ飛ばされる。太い幹にぶつかったことでようやく身体は止まった。だが顔を上げればすぐそこに相手が飛びかかってくるのが見えた。
息をつく間も無く立ち上がると、背を任せていた木の後ろに回りこみ、そのまま山を駆け上る。
走りながら手首の骨の位置を戻した。擦り傷はすぐに治った。
背中が軋んだ音を当てるが、大丈夫。こっちは折れていない。
木の根に何度も足を取られ下草に滑りながらも、転ぶことなく走り続けることができた。
走りながら相手の気配を探る。先程の場所から動いていないようだった。
構わず走るスピードを上げた。
焦りながらも、こんなに早く走れることに驚いていた。一歩の滞空時間が長い。
手首の痛みはもうなかった。
こういう瞬間に、ああ自分は人間ではなくなったのだと実感する。
相手の顔は見えた。見覚えのない人間だった。
いや、人間かはわからない。生身で人を吹っ飛ばすような、あんなパワーは人間にはない。
おそらく人間ではないのだろう。僕と同じように。でも同類、同種ではない。それならば雰囲気でわかる。
誰かが自分を追ってくるという警告を受けたのは夕方だった。
警告してくれた相手は、追っ手は警察かもしくは……と言葉を濁していたが、僕は八割は警察だと思っていた。
だからこちらに着くのは、早くても明日の朝だと推測した。
僕は法に触れるようなことはしていない。相手が警察なら話し合いでなんとか解決できるのでは、なんていう甘い考えも持っていた。だからすぐには移動しなかった。
まさか夜には見つかってしまうとは。しかも警告もなく攻撃をされた。
相手が何者かわからないけれど、僕がこうして襲われる理由として考えられるのは、僕が人間ではないこと。
山道を駆け上がり、社へとたどり着いた。
豆電球ほどと小さな明かりが一つ灯っているだけで、真っ暗闇に近い。けれど僕にはじゅうぶんな明るさだ。しかもしばらくの間、この社で寝泊まりしていた。どこに何があるかは知っている。
僕は社殿を背に立つと、耳をすまし気配を探る。
相手は明らかに自分よりも強い。
自分がまだ生きているのは、ただただ相手が本気を出していないだけだからだ。
僕をたんに殺したいだけなら、最初の一撃で仕留めたはず。
何か目的があるのだろうか。
生き延びられる道があるとしたら、そこだろう。
強靭な肉体を手に入れたと思っていたけれど、上には上がいるものだ。
呼吸を整える。
相手はまだ迫ってきていない。
だが、このまま逃げ切れることはできない。
相手との対話を求めるべきか、それとも応戦するべきか。
人間のときに喧嘩なんてしたことがなかったから、まずもって戦い方がわからない。
まあ、そもそも戦って勝てる相手ではないのだ。
なら対話一択だ。
目の前の方角から、ゆっくりと相手が来るのを察知した。そしてもう一つ、背後から別の気配も感じていた。
どちらも殺気はない。
そう、あれだけのことをしておいて、相手は殺気がまるでないのだ。それが逆におそろしい。
背後からやってくるのは、どうやら人間であるようだった。
二人が仲間ではないのなら、後ろに構っている余裕はない。目の前から来るほうに集中する。
樹木の合間から、相手が現れた。
攻撃してこない。
でもまだ安心できない。
「あれ、逃げるのやめたんだね」
場違いなほど上品な声だった。
十代後半から二十代前半くらいの青年に見える。白っぽいシャツにスラックス。荷物はない、手ぶらだ。
「ああ。どうせ逃げられないし」
青年は当然だというように頷いた。
「何が目的なんだ?」
そう聞くと、相手は芝居かがった動作で顎に手を添える。
「んー、気になっている子のために何かしてあげたくなって。でも、生きたまま連れて帰ったほうが喜ぶかもしれないなってついさっき思ったんだ」
そのおかげで僕は生きているらしい。
殺されるよりも連行されるほうが有難いが、どこへ連れて行かれるかにもよるだろう。
こっちは簡単には死なないんだから。
僕の緊張を感じ取ったのか、青年は微かに笑った。
「俺は殺されたくないから、あんたに大人しく着いて行ってもいい」
「へぇ、正直だね。僕と戦ったら勝てるとは思わないんだ?」
「そうだ」
僕の言葉に相手は何度も頷いた。
「でも考えてみたんだけれど、きみから有用な情報をどれだけ引き出せるのかな」
確かにそうだ。
僕はほとんど何も知らない。関わりたくないから逃げてきたんだ。相手がどんな情報を望んでいるかわからないが、自分が提供できるとは思えない。
「それに、きみを連れてまた東京に戻るのも、なんだか興醒めだし」
僕はこの土地まで飛行機とバスを乗り継いできている。浮世離れしたこの青年が、同じようにしてきたとは思えないから、特殊な移動手段でも持っているのだろう。
「じゃあ…どうする?」
「うん。やっぱり当初の予定通りにするよ」
棒立ちはなかろうと、僕は膝を曲げ、少しだけ腰を落とす。
相手は僕の様子を見て、なんの予備動作もなくこちらに向かってきた。
瞬き一つの猶予もなかった。
僕の身体は再び飛ばされた。でも、直撃ではない。
視界の端で同じように宙を舞っている影が見えた。
先ほどから背後に隠れていたもう一人だ。
僕は身体を捻り体勢を変え、木の幹に垂直に着地する。
もう一人は受け身をとることも出来ずに暗い草むらに消えた。
僕は幹を蹴り、その方向へ飛ぶ。
着地したそのすぐ先に、もう一人は転がっていた。
知っている少年だった。
「理玖」
僕が名前を呼ぶと、少年は目をうっすらと開け、立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。だが、バランスを崩して倒れる。
右の膝から下がなくなっている。
傷口からは止めどなく血が流れていた。
僕は咄嗟にTシャツを脱ぐと傷口に押し当てる。
「大丈夫だ! 大丈夫。すぐに救急車を呼ぶ。俺も着いてる」
理玖はもう動こうとはしなかった。目は虚空を見ている。
息が荒い。けれど徐々にそれが静かになり始めていた。
俺はベルトで理玖の足を縛る。
山をどれくらいで下りられるだろうか。
「その子の血を飲めば、案外僕と対等に戦えるんじゃないかな」
青年の声が聞こえた。
少年を抱え上げ、振り返る。
言葉とは裏腹に、青年は痛ましげに少年を見ていた。
まだ戦いは続けるつもりなのか。
今度動けば死ぬ。
だが胸に抱いた少年から伝わると生命力が、だんだんと失われていくのも感じる。
「早く決めないと、その子が死んでしまうよ」
「大丈夫だ。方法はある」
妙にさっぱりした気分になった。
この子を助けられるかもしれないし、青年とも応戦できる道がある。
僕が選びさえすれば。
「ああ、なるほど。確かにその情報なら、持ち帰るに値するな」
青年も気づいたようだった。
人生とは儘ならない。
目を閉じた。
頭の隅にずっとあって、気を抜けばすぐにその存在を主張してくるもの。
靄。
影。
こちらにやってこないようにと、ずっと気を張っていたけれど、それを緩める。
一瞬何も聞こえなくなった。立っているのか座っているのかもわからなくなる。
でもすぐに足の裏に地面を感じた。
目を開ける。
これは三度目の風景。
目の前には空があった。
朝焼けとも夕焼けともつかない。
視線を下ろすと、ずっと下の方に森が広がっている。自分の足下は、ほんの数センチ先から地面は途切れ、垂直といっていいくらいの切り立った崖がある。
風がふいて身体が揺れる。手に汗がじわりと浮かび、心臓が高鳴る。
他人に選択の風景のことを聞いたことがある。そう何人でもないのだが、皆、違った風景に身を置きながらも、まっすぐ目の前の道を進んでいくのだと語っていた。
自分の場合はこうだ。
進んでいかなくても良い。
ただ一歩だけ。
前に足を伸ばせば。
落ちていけば、良いのだから。
こんな簡単なことはないだろう。
深呼吸をした。
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