第95話 失ったもの
中空にていつもの通りに手を握れば、右手は当然に虚無を掴んだ。
一切の抵抗無く、宙を滑る様に刀身を現す黒い剣は、研ぎ澄まされた刃と裏腹に艶さえも許さない、闇を凝縮した様な凶器である。
もっと早く武装していれば。今、胸の中に沸くのはその後悔しかなかった。
それは死体というにはあまりに形状を留めず、もはや残骸と呼べる程に損壊していて。
しかし犠牲が出たというのに、俺の目からは不思議と涙が零れない。
実は俺は冷酷な奴だったのだろうか。ヴァンは地面に膝を付き、天に吠えるほどの激情を見せるというのに。
「ちくしょう。俺がついていながら!」
「しょうがないよヴァン。しょうがない」
俺は咽び泣く少年の肩に手を置き告げた。せめて仇を取ろうと。俺たちにはそのくらいしか出来ないと。
その言葉でヴァンは涙を拭い、キリリと緑の瞳に火を灯す。
やってやろうじゃねーかと立ち上がり、手は両の腰に下げる剣へと伸びて。シャランと双剣を構える剣士の姿は、翼を広げた大鷲に似ていた。
「つおらぁあ!!」
初手は俺が貰う。
ブチュリと外殻を貫く音がして、木の上に居たソレは、身を捩りながら地へと落ちた。
苔の淡い光に照らされたのは、黒鉄を思わせる光沢の殻。蛇を連想する胴長の外見は、しかし蛇足と言うには多すぎる無数の赤足で、その生き物は誰が呼んだか百足という。
体高はそれほど高くない。せいぜいが1メートル程か。
ならば長さは如何程だろう。10メートル……15メートル……。薄闇の中でうねる関節は無限に続くとさえ思えて、関節の数だけ生える脚もまた100では収まるまい。俺ならば千足とでも名付けようか。
「行くぞオラァ!」
ヴァンが足に魔力を纏い駆け出した。
一瞬姿がブレ、見失うかと思うほどの加速で苔むす足場を疾駆する。
巨大百足は一体何で察知したのか。疾風と間違う剣士をそれでも捉え、ピクリピクリと触覚を動かし追従する。
目らしい部分はあるが、そもそもが木の上は光の届かぬ暗闇だ。視力以外の器官が発達しているのだろう。音、あるいは振動だろうか。何にせよ、ヴァンの動きが補足されているという事実に変わりなく。
「気をつけろ! あれが来る!」
「わーってるよ!」
百足はただ噛みついた。だがそれが何よりの脅威だった。アイツもこれにやられたのだ。
虫という生物が巨大化をするとどれだけ脅威になるかとういう良い例だった。多足と蛇腹の構造が生む脅威の瞬発力は、長い胴体を使い大砲を思わせる勢いで遠距離から噛みついてくる。
通りゆく電車の様にガタゴトと風を巻き込み百足が通り抜けた。連なる関節による広い可動部は巨体に在り得ぬ小回りを実装し、空振った頭部はその場でくるりと回り、なんとも早い往復を見せて。
「うぉおお。ついてくるんじゃねぇ!」
勢い余ろうと土や木程度では傷つきもしない硬い外殻。ジャラジャラと蠢く体はそれ自体が凶器か。千の足が行進する様はチェーンソーの刃が回転している様子を連想する。
百足は気性が荒いというが本当のようだ。ただでさえ攻撃的な魔獣は、攻撃を止める事を知らず、標的とされた剣士は地を蹴り木を蹴り、時には百足の背を走りさえもして逃げの一手を強いられる。
頭部に追われる剣士もたいがい必死に逃げ回るが、胴体が暴れる地上もだいたい地獄だ。
固く鋭い千の足が地面をバタバタと耕しているのである。今の俺の心情を表すならば、シュレッダーにかけられる紙屑の気分と言っておこう。
「足元がお留守だけどな!」
しかし紙屑を舐めてはいけない。アレだ。シュレッダーなんて少し重ねればすぐに詰まりやがるぜ。
再び取り出した黒剣を握り上段より振り下ろす。狙いは適当。なんて言っても的は大きい。
ガンッと響く大きな音は、鋼同士のぶつかり合いとも違う鈍い音だった。そして手に返る手ごたえもまた異質。相手の背が低いためにやや体勢が崩れたが、それでなくても高速移動し、足がワサワサと動く中に剣を突っ込んだのだ。扇風機の羽に指でも入れた様に弾かれてしまった。
ならばと気合一喝。足を飛び越え、乗り込んだ胴体の上から体を刺す。次は外殻を突き破り切っ先は地面に届いた。衝撃に暴れる刀身を必死に抑え込めば、百足は自身の力で身体を縦に引き裂き、そして千切れる。
「よっしゃ! いけヴァン!」
上半身は体液を振りまきながら丸まり悶える。下半身も未だ暴れるが、こちらは時間の問題だろう。エンガチョエンガチョ。
「ありがとうツカサ!」
追跡者を振り切った風が今度はこちらの番だと空中でクルリと回る。器用な奴だ。さながらに水泳のクイックターン。木の幹を蹴り加速した剣士は止めとばかりに振りかぶる。
そして百足も意地を見せた。
千切れた上半身とて長さは10メートル近くあるだろう。体を伸ばし対空で迎撃するには十分な長さだ。ガパリと二本の牙を横に大きく広げ、決死の咬撃へとその身を走らせた。
「上等だ、百足野郎!」
ヴァンの強味は、俺なんて比較にならないほどの豊富な実戦経験だろう。
特に巧みだと感じるのが、左手の使い方だ。近くで見ていれば受けに回る事が多い手なのだが、相手の攻撃に応じ、瞬時に受けを最適に選択しているのだ。
今回選んだのは弾き。左の剣が迫りくる毒牙を下からかち上げた。
その腕力だけでも大したものだが、わざわざ弾いた目的を知り、俺は二度驚く。
百足は基本地を這う虫だ。背に硬い外殻があれど、腹にまで守る殻は無い。
仰け反り無防備に柔肌を見せる怨敵に、すぐ様に続く右の渾身の一振り。攻守一体の連撃はまさに二刀流の神髄だろう。巨大の百足のがら空きの喉元を目掛けて第二の牙が放たれる。
「これは! ヘラクレスさんの分だー!!」
終われば疲労と達成感。そして虚しさが襲う。やはり復讐は何も生まないのだろうか。
バラバラになった金色のカブト虫を埋葬し、ヴァンと二人で手を合わせていると、全てを俺の横で見ていたジグが言う。
(とんだ茶番よな)
「この人でなし!」
(カカカ。儂魔王じゃし!)
そういえば、ジグルベインの笑い声を久しぶりに聞いた気がした。
◆
この事件の発端はと言えば、道中が険しくなってきたから。としか言えない。
軽く昼食を取り、今日はもう少し進んで見ようかという事で、俺たちは川を沿い歩き始めた。
ラウトゥーラの森に来てからというもの、常に樹木に翻弄され続けてきたわけであるが、どうして水というのも凄いものだ。
雫の一滴ならば、土に吸い込まれてたちまち消えよう。しかし二滴三滴と続けば、それは土を穿ち、岩を穿つのだ。俺たちの今通る道は、涓滴岩を穿つと言葉の通りに水の努力を感じるものだった。
木々の間を縫うように谷が出来てた。過去には土があったのを、水が押し流して掘り進めたのだろう。足場は大きな岩や、水に流れぬ砂利の道。両脇は土と光る苔の壁に挟まれて、頭上には、肉を削がれ剥き出しの骨になったかの様に、木の根が姿を晒している。
水量は多くなく、大体は陸地を歩める良い道だ。確かに森の中に比べれば、行先は知れぬが迷わず進めるだろう。
唯一うっかりしていた事と言えば水場という事だ。
虫が樹液に集まる様に、魔獣も生命の源である水を求めるのは当然だった。
水を飲みにくる魔獣。水辺に生える魔木を狙ってくる魔獣。魔獣を狙ってやってくる魔獣に、血の匂いを嗅ぎつけ集まる魔獣。
あれ、これもしかして森の方が安全なんじゃない?と思える程度には連戦に次ぐ連戦だった。だからヴァンは、仕方なしにこう告げたのだ。
「お前はもうお荷物だ。ここから先は俺たちだけで行く」
戦力外通知。クビ。パーティー追放だ。
いや、虫かごに入っているだけで元から戦力にもならないのだけど、うっかり潰しそうだったから放してあげる事になった。
「元気でな、達者に生きろよ!」
「もう捕まるようなへまするなよ!」
地球での名前を貰いヘラクレスと名付けて可愛がっていただけに、別れはそれはもう惜しいものだった。虫かごから出せば、金色のカブト虫は「あばよ」とでもいうように羽をはためかせ、近くの木へと飛んで行って。そしてあの巨大百足に轢かれたのだった。ブチっと。
◆
以上が百足討伐に至る経緯なのだが、奴はもう一つ俺の大事な物を奪っていく。尊厳だ。
思えば胴体に斬りつけた時に、暴れる脚により多少の切り傷は出来ていた。
いや、あるいは串刺しにした時に体液でも飛んだのだろうか。
百足に毒があるのは知っていたが、それでなくても清潔ではないのだろう。
「ぎゃーイグニス! イグニス、助けて、俺の俺のが!」
用を足した後に真っ赤に晴れてズキンズキンと鈍痛が走り。
思わず俺は患部を露出したままに魔女に詰め寄ってしまったのだ。
「ぎゃー! 何考えてるんだ馬鹿! 見せなくていい! 隠せ!」
「見てよー! 頼むよー!」
雑菌とは露知らず、毒にやられたと勘違いした俺は泣きながらに助けを乞うた。
もろちん。いや、勿論他のパーティーメンバーにもその現場は目撃されていて、その後、なんとも気まずい雰囲気になってしまった。
まぁカノンさんの神聖術ですぐに治して貰えたのだけど、神の御業でも心の傷は完治しないようだ。くそ、百足め。
「しくしく。もうお婿に行けないよぉ」
「それはこっちの台詞なんだが!?」
手は綺麗に洗いましょう。
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