第86話 楽しいクッキング
来訪があったのは2の鐘が鳴って少し経った頃だった。メイドさんがイグニス様がお見えですと扉を叩いて、俺は来てくれたのかと椅子から立ち上がり出迎えに向かう。
別れたはいいけど合流の話をしていなかったのだ。そろそろコチラから会いに行こうかと思っていた所である。
「おはよう。昨日は楽……しめた?」
扉の先に居たのは黒いワンピースを着た赤髪の魔女。
低い耳心地の良い声がおはようとかろうじて挨拶を紡ぐが、赤い瞳は何とも恨みがましい炎を灯している。
まぁ立ち話もなんだろうと、部屋に招き入れて椅子を引く。イグニスは相変わらずの行儀の悪さで腰を落とすと、背もたれに首を預けて溶けた。
俺は上向く額を行儀悪しとぺしりと叩いて、ジト子さんに飲み物でも頼もうと入口へ向く。すると有能メイドは言う前にはもうカップを用意していた。とても無気力な表情からは窺えない素早さだ。
「ああ、良い香りだ。カフワだね」
「はい。ツカサ様がニチク茶を好むとおっしゃっていたので、取り寄せてみました」
水差しからチョロチョロと注がれるお湯は、布で濾される黒い粉末を通りカップへと雫を落とす。湯気に乗って漂う焙煎の香ばしいこと。どれほどかと言えば、飲み物なのに食欲を覚えるほどで。おおうと堪らず鼻から肺いっぱいに空気を取り込むと、元の素材なのか仄かに果実の様な甘い匂いも混じっていた。
味はといえばほろ苦く、後味の良い酸味がなんとも深いコクを出している。
確かにニチク同様珈琲に似た飲み口なのだが、正直これは珈琲よりも美味しい。少なくとも俺の知るインスタント珈琲程度の味では太刀打ちできない風味である。
「ありがとうございます。凄く美味しいです」
「お気に召して何よりです」
メイドは無表情で頭を下げると、浮足立てて壁の花へと戻った。
あれは喜んでる?喜んでない?ジト子さんの感情を読み取るのは実に難易度が高かった。
淹れて貰ったお茶を楽しんでいると、イグニスは俺の顔を見つめながら、うんざりとした表情で言う。
「昨日は一日中君との関係をしつこく聞かれたよ。親にもフィーネ達にも」
なるほど不機嫌な理由はそれか。カノンさんは男勝りに見えて意外と恋バナ好きだし、親御さんも駆け落ちを疑っていたのであり得そうな話だ。
もしイグニスに付いて行ったら盾代わりにイグニスとの関係を詰められていたのかと考えると、実はアトミス家に残って正解だったのかも知れない。
「でも楽しかったんじゃない? たまにの友人や家族との会話は」
「それは……まあね。うん。楽しかったよ」
なんだろう。記憶を辿り僅かにほほ笑む彼女の顔は、どこか諦めの入った儚い表情に見えた。そして、そっちはどう過ごしたんだいと、チロリと赤い瞳が持ち上がる。
俺はそうだなぁと呟いて、昨日あった事を思い出した。ほわんほわんほわん以下回想。
◆
「よしジグ。今日は海老フライを食べさせてあげるよ」
訓練が終わってから買い物に走り、料理人さんが夕食を作り始めるまでの間厨房を借りた。厨房は前回プリン作りでも借りたので、勝手知ったるものと食材を机に並べる。
前回王都の側に湖があると知っていつか食べようと計画していたのだ。実行するなら今しかない。中濃ソースは無理でもマヨネーズはラルキルド領で散々作ったし、その時に食用の植物油も教わった。準備は万端である。
(ふむ。嬉しいのだがよ、お前さん。それは海老なのか?)
ははは。何を言っているのだコイツは。
籠の中に沢山入っているのは20センチくらいのどう見ても伊勢海老な生物。こちらの生物は大きい傾向にあるが、まさか伊勢海老サイズが普通に流通しているとは思わなかった。
市場には10センチくらいの普通の海老もあったのだけど、コレを見かけた瞬間思わず大人買いしたよね。伊勢海老フライ、それはバケツプリンと並ぶ浪漫食だと俺は思うのだ。
まずはと、ボウルに卵黄と塩そして酢と油を入れマヨネーズ作りだ。
今日はタルタルソースにするので、卵を茹でるお湯を沸かしつつ、ピンク色の玉ねぎもどきを水に晒す。野宿生活で料理スキルも成長したのか動きは慣れたものである。まぁコチラは基本混ぜるだけなので割愛しよう。
やはり一番の敵は巨大海老の下処理だろう。もう動かないのだが、まな板の上で改めて見るとちょっと怖い外見だった。
岩の様にゴツゴツとした黒い外殻。虫を連想する立派な触覚と不気味な多足。そしてなにより大きな
「じゃあマルミット先生、今日はよろしくお願いします」
「はいはい。あら、今日は鋏海老を料理するんですね」
「ほら海老だ」
「?」
助っ人であるシャルール家の料理長マルミットさんだ。薄い紫の髪を後ろで束ねたアラアラ系のお姉さんである。いつもニコニコで、あらあらと何でも許してくれそうな雰囲気があるが、裏では鬼の料理長と呼ばれている事を知っている。
「泥抜きはしてあるのかしら。少しお酒に晒すようかなぁ」
まずはと言い、ふんと海老の頭部を躊躇なく引き抜くマルミットさん。お見事と拍手していると、その後も下半身の殻をベリベリとむしり取り、あっという間にプリプリの身にしてしまう。尻尾だけは残して置いてというと、首を捻りながら了解してくれた。大事なんです、尻尾。
何というか、解体してみると可食部は思ったより大きく無かった。普通の海老より気持ち大きめくらいだろうか残念だ。
そして、より悲惨なのは残骸のほうで、調子に乗って20匹近く買ってきたために桶には上半身が積み重なって絵面が酷い。後で夕食のスープの出汁に使うそうだ。楽しみである。
「後はワタ抜きねー。お腹と背中に包丁を入れて、ちょちょいと取ります」
流石はプロで、本当にちょちょいとワタを取る。俺も見本の通りに包丁を入れていく。
1~2匹くらいは若干身が崩れたが、慣れればそんなに難しく無い作業だった。伊勢海老たわいなし。ついでに揚げた時に丸まらない様に筋を切るのも忘れない。
「ツカサくん。このタレ少し味見してもいいかしら?」
手持ち無沙汰の料理長はタルタルソースが気になったようだ。いいですよと言うと、匙でひとすくいして頬張る。カッと目を見開いて「コレは何!?」とガクガクと肩を揺らしてきた。包丁使ってる時は揺らさないで!お気に召した様なのでルノアー商会で取り扱い予定のマヨネーズを強く推しといた。
「さぁ、いよいよ衣付け。うふふ待っててね海老フライ!」
「あら、ツカサくん。これは海老の料理なの? 鋏海老はどちらかと言うと蟹に近い味よ」
え!?聞けば一応海老の仲間ではあるそうだが、別種らしい。海老と蟹の中間くらいの生物のようで、詰まるところ……。
(ほれみろ。やはりザリガニではないか)
「はい。じゃあ海老フライいきまーす」
(あ、こやつ現実逃避を覚えおった)
厨房の竈は魔道具で火力も強く炎も安定している。地球のガスコンロと大差無い性能なので油の温度も十分だ。塩コショウで味付けした海老を小麦粉で眩し、卵をくぐらせパン粉を付ける。
えい!と海老を油に投入すれば、水分が若干残っていたのか、少々跳ねたが、数分後にはカラリと黄金色の衣を纏った
(ザリガニフリャー!!)
うん。見た目も味も触感もほとんど違和感は無かった。ジグルベイン含め大好評だった。
久しぶりの地球料理。ザクザクの衣の歯ごたえは懐かしく、プリプリの身と酸味あるタルタルソースの相性だって抜群だ。
だというのに、記憶から蘇るのは懐かしい自宅の食卓ではなく、ラルキルド領で食べたシャルラさんの料理だった。何故だ。だってあそこで食べたのは……俺は考えるのをやめた。
◆
ほわんほわんほわん。回想終了。
「いや、昨日は特に何もしなかったよ」
料理の話をすればイグニスも食べたいと言うだろう。しかし、寝食を共にした仲だからこそ言わない優しさもあるのだ。俺達は少し時間を置いたほうがいい。
「そう? とりあえずこの後、私の家でフィーネ達と合流して打ち合わせをするんだ。来て欲しい」
「あ、じゃあ了承貰えたんだ」
「うん。ラウトゥーラの森は勇者一行との共同戦線だ」
ラルキルド領でジグルベインの幹部【影縫い】の手記を読み解けば、そこにはもう一人の幹部【黒妖】の居場所が記してあった。その場所こそ、ラルキルド領より更に東にあるという広大な森林ラウトゥーラだ。
ジグルベインの情報を手繰るもそれは400年前の出来事。加えて魔王の詳細となれば、1の事実に対し10の伝説が残っている。だからこそ、歴史の生き証人との対面には大きな価値があると魔女は言う。
「俺には会いたい理由があるけど、よくフィーネちゃんは協力してくれる気になったね」
「ん。純粋に友情もあるのだけど、魔王の幹部だからね」
刺激はしたくないけれど放置も出来ないようだ。可能ならば俺が言ったようにラルキルド領に居てくれたほうが助かるらしい。未開の地という事は、逆にいつか開拓をするという可能性がある。つまりうっかり虎の尾を踏む事もあり得るのだ。
「つまり使者役さ。人類は戦いを望んでないってね」
(カカカ。賢明だな)
「あ、そうだツカサ。フィーネとカノンがニヤケ顔で迫ってくると思うけど反応はしちゃ駄目だよ。いいかい、絶対に相手にするな」
「むしろイグニスは何を洩らしたのさ? ねぇちょっと、こっち見ろよおい!」
赤い瞳は終ぞこっちを見なかった。
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