第65話 さあ外の世界へ
「おかえり」
畑で軽く猫を追い払い洋館に戻れば、玄関の前では赤髪の少女が佇んで居た。
予想外の光景に反応が遅れる。初夏とは言え山沿いの夜は肌寒く、薄い寝間着の魔女は若干の身震いをしながら不機嫌にこちらを睨んでいた。
「ただいま。いつから居たの?」
「灯りが見えたから降りてきただけだよ」
つまり部屋ではずっと窓から外を眺めていたと。
想像しついつい緩む口元に、イグニスは心底呆れた様子でため息を零し、寒いからさっさと入りなさいとギイと立て付けの悪い扉を引いた。
「やはり来たかい?」
部屋に戻り、魔法でコポコポとお湯を沸かす魔女は言う。俺は湯気を吹く水差しを眺めながら、うんとだけ答えた。
多くを語る気は無い。何せ異なる意見を暴力でねじ伏せてきただけだ。とても誇れる内容ではない。
そう、と。愛想ない返事と共に差し出されたお茶はニチク茶だった。
植物の根を炒った物で珈琲に似た苦みがあり、旅では俺の愛飲している飲み物である。
イグニスの淹れる珈琲は好みより少し濃いめの味で、しかしもう飲み慣れた味。いつの間にか無糖でも楽しめる舌に成っていた様だ。
「美味しい。ありがとう」
「ん。まぁなんだ、お疲れ」
赤い瞳が見つめてくる。見ているのは顔というよりは顔の傷だろうか。
何が有ったかは聞かないが、何が起こったのかは一目瞭然。それこそ、この魔女ならば、傷など無くてもお見通しだった事だろう。
まさか労いの言葉を貰えるとは思わなかったので、少しばかり照れた。胸が温かかったのは熱い珈琲のせいだという事にしよう。
極力澄まし顔で、うんと頷いてこの話はお終い。
そうしたかったのだけれど、どっこいそうは行かないお嬢様。
「動かないで。回復魔法を掛けてあげるよ」
不気味に甘い声だった。それでなくても耳心地の良いイグニスの声。そんな彼女が、甘える様な、誘惑する様な音色を喉から響かせ近づいてくる。暗い室内に二人きり。薄着の少女はほんのりと香水の残り香を漂わせていて。
ゴクリと唾を飲む。けして色気を感じたのではない。身の危険を感じたのだ。
上目遣いの赤い瞳が狂気の色に染まっている。一体どんな想像をしているのかニヤニヤと締まりのない口元で、どこか吐息も荒い。
「あ、朝には治るから大丈夫だよ。やめろ来るな」
「駄目。傷跡が残ったらシャルラ殿に心配されるだろう?」
いやだいやだと拒絶するも、熱持つ手のひらがそっと頬に添えられて、有無を言わさず魔法陣が展開された。身を包むのは青白い炎。実際には初めて見るイグニスの回復魔法は、そんな物まで火を使うのかと呆れるもので。
傷口を焼く、と言うのは少し違う。炎に炙られていると怪我が治っていくのだ。
当然そこまでなら何も悪い事は無いのだが、傷が燃やされ始めてから違和感は襲ってきた。
「熱っつ! え、ちょっと何これ。熱いって!」
灼熱というほどでは無い。例えるなら70度程度の少し熱めのお湯をパシャパシャと掛けられている様な、耐えきれなくは無い絶妙な嫌がらせの温度である。
「思ったんだ。君が怪我を恐れないのは回復魔法を当てにしている節もあるんじゃないかって」
うむうむと効果にご満悦の魔女。
遡れば獣人の村でマーレ教の少女が呟いた、懲りない人には割増し料金という発言がヒントの様だ。
世にも恐ろしい回復魔法の発明に俺は絶望した。これから先、怪我したら燃やされるなんてあんまりだぁ!
(カカカ。この一族ホント迷惑よな)
◆
「ああ、本当に領を出るのですね。なんかドキドキしてきました」
馬車の荷台で鞄を抱きしめながらシャルラさんが言う。俺は御者台からその様子を微笑ましく眺める。
フラフラと旅する俺ですら、未だ次の町へ行く時は期待と不安で寝付けない夜がある。ならば領の外に出るのが数百年ぶりだという筋金入りの引き籠りの心中や如何に。
分かるとか、大丈夫だとか、声を掛けるのは簡単だったのだけれども、少し違うかなと思ったので言葉にはしなかった。
そのドキドキを胸に外を見て貰いたい。そして瞳に映るのが彩りに溢れた世界だった時、この町の止まった時間はようやく動き出すのではないだろうか。
ちなみに俺達とクーダオレ領に行くのはシャルラさん一人だけである。
理由はお金が無いからだ。切ない。
しかし先立つ物は必要となる。野宿中はともかく、町に着けば入門料も必要だし、宿代、食事代だって掛かる。
持っていく分のマヨちゃんが売れれば多少の現金は手に入るが、まずは出ていくという順序を忘れてはいけない。そこで俺達は泊めて貰った分の宿代と食事代という事で無理やり現金を握らせている。それで何とか一人分だ。
出来るならば後学の為には人間でも獣人でも後2~3人連れて行った方が良い。
幸いにして魔鹿退治で懐は温かいのでお金ならば貸すと言ったのだけれど、断られてしまった。
借りばかり作っているので、これ以上は貰えないと言うのだ。そう言われては引くしかないだろう。
「ツカサ、こっちは準備出来たけど、そっちは?」
「うん。こっちも大丈夫だよ」
俺は今回シャルラさんが乗る馬車の御者である。
馬車はゴウトが薬の買い出しに使ったという、荷車を改造して幌を張った物が在ったのでそれを使う。
引く動物は何だろう。毛むくじゃらの牛の様な、しかしガゼルに似た角がある魔獣だ。角牛と言ったところか。町の乳牛らしい。
イグニスは当然我らが愛鳥ボコの背に跨っているのだが、ちゃっかりと馬車に荷物を積んでいく。60センチ位の小さな樽だ。この領に来る時には無かった荷物なので、中身を聞いたら、うへへと笑いながら酒だと答えた。
そんな物を一体何時手に入れたのかと思えば、昨日の祭りの後だそうだ。
町の女性に化粧品やら香水と交換して貰ったらしい。
祭りなのにやけに気合入れて御粧ししているなとは思ったが、まさか男にモテる様を見せつけてレートを上げていたとは。コイツは本当に、何というか、魔女め。
「「「シャルラ様~行ってらっしゃーい!」」」
「ああ、行ってくる。行ってくるな!」
元気に遊んでいた子供たちや、仕事の合間を縫って顔を出した住人達が手を振って見送ってくれる。
行程では7日程の予定だと言うのに、愛すべき領主のもとには沢山の人が押し掛けて旅行のお供にと食べ物やら花やら玩具やらを思い思いに手渡していて。困惑するシャルラさんをよそに荷台が一杯になってしまった。
その様子に苦笑いするイグニスはトレードマークのとんがり帽子を深く被り言う。
「じゃあ出発だ」
「応!」
軽快な足で歩きだすシュトラオスに続き、俺も角牛の手綱を引く……引く……。
お願い、道草食べてないで進んでー!
◆
最初のうちこそまさに牛歩。のっそのっそと歩く牛は、別れが恥ずかしくなるほどに、いつまで手を振っていればいいんだよと思うほどに、速度が出なかった。
余りの遅さに何度もピシピシと手綱を引いていたのが良かったのか悪かったのか。
モエーと鳴いた角牛は、突如何かのスイッチが入ったかの様に駆け出して。
行け行け進めと調子よく煽り、小気味よく走るシュトラオスに追いついたまでは良かったのだ。
しかし、ふと我に返り、これちゃんと止まるんだよなと内心密かに冷や汗を掻いていた時、進路の先に影が踊り出して来た。
「止まれ!」
影が叫ぶ。そしてジグルベインが俺の気持ちを代弁する様に言い放つ。
(車は急に止まれんわ!)
まさしくその通りである。異世界でもこのスローガン広がればいいねと、尊い犠牲を見て思った。
「と、止まれよー!!」
何メートル押しただろうか。暴れ牛に真正面から突撃された男は、しかし角を掴み、押し込まれながらも勢いを殺しきってしまった。拍手をしたい。怪我人が居なかった事と、事故歴を作らなかった事に。
「ティグ? お前こんな所で何をしているんだ」
馬車から降りたシャルラさんが虎男のもとへ駆ける。
牛の魔獣を止めた獣人は、その力業に納得がいく大柄の筋肉質な巨漢。
「その姿は、一体何が……」
そして傷だらけであった。手当に上半身の服を使ったのか、顔や胸に雑に布を巻き付けていて、滲む赤い斑点が痛々しい。
それでも劣らぬ眼力の鋭い視線を受けて、俺も見ている場合ではないと御者台を降りる。
しかしティグという獣人が取った行動は予想とはかけ離れていた。
「お願いしますシャルラ様。どうか俺も、人間の町に連れて行ってはくれませんか?」
大男が膝を付き、頭を下げていた。
土に反響し響くお願いしますという声を吸血鬼は駄目だと一言で両断。
なお繰り返し上がる懇願に、一体どうしたと狼狽するシャルラさんだが、虎は事情を話さない。話せる訳が無い。
なのでヤキモキするシャルラさんへ俺が代わりに言う。
「お願いします。連れて行ってあげてください」
「ツカサ殿? しかし……」
「「お願いします」」
二人で頭を下げて、何とか灰色の少女は折れてくれた。
虎は俺が気に食わないのか、ブスリとし、口も交わそうとはしなかった。
シャルラさんの馬車の手綱をティグに任せ、結局俺はイグニスの背中にしがみつく。
別に復讐とかそんな小さい事ではないのだけれども。あくまでも善意なのだけれども。
俺はイグニスの耳元で囁いた。
「怪我してる様だし、あの回復魔法掛けてあげなよ」
人間二人はゲス顔を浮かべ、魔王は笑い、吸血鬼は戸惑い、虎が泣く。
喧嘩両成敗である。
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