第2話 カーテンを開いて



 朝。目はとっくに覚めているというのに、部屋の電気もつけず布団に包まっていた。

 朝は嫌いだ。学校に行かないと行けないから。行かないけど、そんな気分にさせるから。


「司~起きてる?」


 扉越しに母さんの声がした。布団から顔だけ出して返事をする。


「おはよう。起きてるよ」


「おはよう。父さんはもう仕事に行ったから下で朝ご飯食べちゃいなさい」


 うん。と答えると、廊下を軋ませて去る足音が聞こえた。

 ノソノソと布団から這い出す。動きの重さは、きっと心の重さと比例している。


 別に父さんと仲が悪いわけではない。仕事から帰ってきたら部屋にやってきて、言葉は少ないけど一緒にゲームをしている。色んなジャンルをするけど、父さんに勝てることは滅多にないけど。


「きっと、俺から何か言うのを待っているんだろうなぁ」


 けど分かっていたって出来ないことはあるじゃないか。だから、両親の優しさに触れるたびに勝手に罪悪感を抱いてしまい……また距離が遠くなるのだ。なんて自分勝手なんだろう。


 ベットから起き上がった時、ふと目に光が入った。風でカーテンがそよいだらしい。


「小さい頃は」


 ふと昔の歌を思い出し、目を細めたままにカーテンを開く。窓の外は梅雨のくせに憎たらしいほどの青空だった。



 パジャマのままリビングに行けば珈琲の香りが鼻孔をくすぐる。テーブルにはいつものトーストとベーコンエッグが用意されていた。母さんは台所で洗い物をしているようだ。


「砂糖はもう入ってるからね」


 席に着いて角砂糖に手を伸ばしたところで声がかかる。


「ブラックでいいっていつも言ってるじゃん」


 母さんはハイハイと空返事しながら作業を続けていた。明日もきっとこのコーヒーは甘いのだろう。そう思いながらマグカップに口をつけたが、俺は無言で角砂糖をもう一つ追加する。大人は本当にこんなものが美味しいと思っているのだろうか。


「勉強のほうはどうなの。余裕があるなら、たまには散歩にでも行って来たら?今日は良い天気よ」


「……大丈夫、勉強は進んでる。そうだね。気分転換には良いかも」


 気まずくなり、トーストを咀嚼しながらテレビをつける。先に父さんが観ているせいか画面に映るのは決まっていつも同じニュース番組だ。


「あら速報?」


 話題はなんとか反らせたようだが、内容は頭に入ってこない。早く食べてここを離れたかった。


 思春期妄想症。そう診断された俺の病気。学校はおろか外にすら出歩けなくなった引き籠りの原因。


 顔だとか声だとかなんでもいいけれど、他人と比べて変なんじゃないかと思ったら、変なのだと思い込んでしまう病気らしい。


 自分的にはコンプレックスは無いつもりである。多少背は低いかもしれないが、至って容姿は普通だ。普通のはずだ。


 それでも、中学に入る頃には俺は視線に怯えるようになっていた。怖いのだ。見られるのが。なんというか、言葉にするのは難しいのだけれど。何か大切なものを失ってしまいそうで。


「ごめん」


 食器を片付け、足早にリビングを後にする。ずっと床と目が合っていたため、母さんの表情は見ることが出来なかった。



 自室に戻り、扉を背にして大きな大きな溜め息をついた。


「ああ、俺は本当にダメな奴だな。受験生なんだしそりゃ心配だろ。もう引きこもり3年だぞぉ」


 扉に寄り掛かったままずるずると腰を落とす。そのまま床にお尻をつけて、出たのはやっぱり溜め息だった。


 現状に一番不甲斐なさを感じるのも、変わりたいと思うのも、自分なのだ。


 部屋からは出れるようになった。親とは会えるようになった。だから大丈夫大丈夫と幾ら心を騙しても、体は玄関の扉を開くことは出来なかった。


「俺だって。俺だって。秋葉原に行きたい。コミケに行きたい。メイドカフェに行ってみてぇよー!」


 思わず叫ぶが、本当に今は無理なのだ。満員電車なんて考えただけで卒倒しそうだ。


「あ、やべ。窓開けっぱなしじゃん。誰にも聞こえてないだろうな」


 違う意味でも近所の視線が怖いのでさっさとカーテンを閉めようと窓に近づいた。日向に立てば太陽はすっかり夏の日差しで、今日も暑くなりそうな予感がよぎる。空調の効いた部屋に籠っていては暑さは関係ないけれど。


 しかし、晴天にしてもやたらと空が明るくて。かざした手の影から薄目で見上げてみた。


「……飛行機雲じゃないよな?」


 黄金の光が走っていた。太陽よりもなお眩しく、流星よりもなお速く飛来する光源。一見すれば飛行機雲か、あるいは彗星のような、尾を引き駆ける巨大ななにか。


 それが、闇をまき散らしながら天空を劈(つんざ)く。


 目の前に広がる神々しい光景を見て、まず抱いたのは嫌悪と恐怖で。そしてなぜか、まるで世界が斬られている様だと場違いな錯覚をした。


「いやいや。いやいやいや」


 そんな事はない。さすがに有るわけがない。厨二な感想をぱたぱたと否定する。

 その間にも光は伸び続けて、本当に空を両断してしまうのではないかという勢いで世界に線が引かれていく。


 輝きの行く末を眺めること数十秒。最後は燃え尽きたようにすぅと光は消えて見えなくなった。


「なんだったんだろう。隕石か何かかな」


 突然の光景に圧倒されてしばし薄れていく光の筋を眺めていれば、燃えカスの灰が空から降りてきたらしい。


 黒い雪のようにフワフワと舞うソレを見て、思わず窓から手を伸ばしてしまう。


 右手に積もっていく黒い物体。砕け散ったのかそれは形様々で、大きさは砂利程度だ。見かけに比べて軽く、綿毛のように重さは感じない。


 手には結構な量が集まったのだけど、想像していた様なジャリジャリやゾリゾリとすることもなく、そもそも触っている気がしない。映像に手をかざしているかの様だ。


 なんとなしに握りこみ、その感触に反射で手を開いた。


「ぐぅああ。なんだよこれ」


 止まっていた血流が急に流れたときの様に、痛みと痺れを感じた。血管に冷や水を流し込まれたみたいだ。


 気持ち悪いから捨ててしまおう。そう思い右手の暗黒物質(仮)を再び見たとき、粉々だった何かは手に収まる大きさに固まって仄かに発光をしていて。


 即座に手を放すが、降りしきる空中の破片がその塊に集まって肥大化していくではないか。その様子に雪玉を連想するが、実際に起きたのは雪崩だった。


 次の瞬間には膨れ上がる闇に飲み込まれていたのだから。



 そこは光もなければ闇もない混沌空間だった。暗いのに明るいとは不思議な気分である。


 ただ闇に飲まれたならば自室にいるはずなのだけれど、見果てぬ地平に限りない宙。星屑の足場は飛んでも跳ねてもピクリともしない。銀河に立つことができなたらこんな風景が見えるのではないだろうか。


 途方もない空間と突飛もない出来事で、夢だと言われればまだそのほうが納得ができるのだけれど、この場所の空気はどこか胸の奥をくすぐる懐かしさを孕んでいた。


 足が進んだ。ドクンと心臓が跳ねる。


 上では光を飲み込む太陽が漆黒に輝く。下では新星が生まれては崩れる。まるで世界の終わりの光景だ。


 それでも、足が止まらない。止まってくれない。

 進む先には王座があって、そこに座る人影が見えていたから。

 銀と言うには透き通り、白と言うにはくすみがかった白銀色の髪をした女性の姿だ。


「なんで」


 その人の前に立ったら、急に目頭が熱くなり、視界が涙で歪む。頭の中も様々な感情が溢れてぐちゃぐちゃである。


 俺が目の前に立っても、その人は目を瞑ったまま椅子にもたれ掛かり、ピクリとも動かなかった。


 黒いドレスで着飾った女性は王というよりお姫様という雰囲気で、現実ではまず見ない銀色の髪のせいか、まるで絵から出てきたように神秘的に感じる。


 綺麗だった。


 呼吸を忘れて見ていたくなるほどに美しい人、作り物だと言われても可笑しくないほどに完璧で完全だ。


「…………」


 幼少の頃の朧気な記憶が輪郭を取り戻していく。


 そうだ。確かにこの人に会ったことがある。


 両親に聞いても誰も知らなかったその名前。バイバイした日は俺は一日中泣き癪っていたらしい。


 生まれた時からずっと一緒にいて、泣くときも笑うときも片時も離れることが無かった存在だというのに、時間が経ち記憶は薄れて、思い出にさえ残っていなかった。


 そっと頬に手を伸ばす。白くてスベスベな肌は思っていたよりずっと冷たい。

 こうしていると不思議と、よく通る鈴の音のような声が耳に蘇る。笑い上戸のその楽し気な笑い方も知っていた。


「俺のこと、わかるかな。もう15歳になったんだ。ねぇ」


 出来ることならば、その長い睫毛を持ち上げて下にある黄金色の瞳を見せてほしい。


 しかし、それが叶わないのは分かっている。


 血の気がない。胸の動きがない。その唇は吐息をしない。


 本当に作り物ならば良かったのに、それは、あんまりにも綺麗な死体だった。


「ジグルベイン」



「夢なら醒めて欲しい」


 混沌の世界には、いつか一緒に居た人が居て。その人の名前を呼んだら世界が崩れていった。ガラス細工で作られていたかの様に、あちこちに亀裂が走りバラバラに砕け散ったのだ。訳が分からない。


 意図せず謎空間からの脱出はできたわけであるが、問題はその後である。


 放り出されたのは自室ではなく、なんと見知らぬ森の中だった。両断された大きな古城が木々に肩を貸されてなんとか立っている。


 そよ風が頬を撫でて、家の外に居ることを実感する。久々に土と草の匂いを嗅いだ気がした。


(デルグラッド城。儂の居城……だったのじゃが。これはまた見る影もないの!カカカ)


 ふいに声が聞こえて。振り返れば、先ほどの女性が、ジグルベインがそこに立っていた。


 思わず飛びつくけれど、その体は幽霊のように触れることができなくて。きっと一人きりで心細かったのだと、行動の気恥ずかしさを誤魔化した。


「え!? ジグ? ほんと……え!?」


(カカ。大きくなったのう。息災でなによりよ。して、何事だ? なぜお前さんがこちらに居る)


 話したいことがたくさん……あるわけでもなかった。

 でも声を聴けるのが嬉しくて、一人じゃないのが心強くて。倒木に腰かけて今日在ったことを話す。


(……油断した。そりゃあ来るよなぁいつかは)


 話では、空に走る巨大な光こそがジグを地球に吹き飛ばした正体らしい。時空だの次元だのを突破して流されてきたから時間が歪んでいるようだ。


 ジグが転生までに掛かった時間が不明らしいが、あの別れから10年以上のラグで到着したらしい。


 そして、その後に降ってきた黒い塊はジグの魔力だそうだ。もう単語だけで心の隅がムズムズするのだけど、話を進めよう。


 バラバラになっていたのは、なんと先ほどの混沌世界。それが俺に、というか俺の中のジグルベインに反応して再び組み立てられる。その中に俺IN。


 主の無い世界はすぐに消滅するが、元はジグの力なので体の残るこの世界に出された、と。要するにジグルベインの力を介して偶然にも異世界転移したらしい。


「お前のせいじゃねぇか!」


(自業自得じゃ。迂闊にものに触っちゃいかんと教わらんかったか?」


 ぐっ否定できない。


「じゃあジグの力で帰れないの?」


(……儂も、お前さんの力になりたいとは思う。だが、地球に飛ばされたのがまず偶然なのだ。それに仮に手段があってもな。見てみぃ、故郷がこうなっているやもしれんわ)


 指さすのは木に侵食された城。この城は小高い丘の上にあって、そこから城下町が一望できたと言うけれどそれも今は昔の話。傾斜は確かに確認できるけど、そこから見えるのはどこまでも森だ。


 一体ジグの知っている時から何百年が経ったのか。少なくとも人の営みが植物に侵食される程度の時間は経っているのだろう。


 仮に地球に帰れたとして、時間の保証はない。家が無くて両親も知り合いも居なければ、それは帰ったと言えるのだろうか。


「でも俺、パジャマなんだけど。荷物どころか靴も履いてないんだけど」


(カカカ。儂なぞ肉体すらないわ。体があるだけマシだと思えい。それにこちらならば儂にも出来ることはあるのでな)


 こうして前途多難な異世界生活がスタートすることになった。



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