ノーブレスオブルージュ~その唇は吐息をしない~
じゅん
廃城 終わりと始まりの場所
第1話 その唇は吐息をしない
「ンギャー! ンギャー!」
(ぬあっ!?)
耳元で泣きじゃくる赤子の声がした。
薄暗い部屋の中で、なぜか枕を共にしている。
(なんで赤子がおる? んん? 儂は一体)
覚醒したばかりの頭はまだきちんと回らず、記憶の前後に靄がかかる。まるで火酒を一日中呷った翌日のようだ。
現状の把握に努めようと昨日の自分を必死に思い出そうとするが、オンギャーオンギャーと耳元で騒がれては集中など出来るはずもなく。
とりあえず、コヤツを黙らせよう。拳を頭蓋に向け振り落とした。
(ばかな)
感触が何もない。手は赤子を、枕をすり抜ける。まるで幻影に手をかざしている様だ。
何度も試すが、己の手はそこにある何もかもを通り過ぎて、結局赤子に触れることは叶わない。当然のように泣き声を止めることも出来はしなかった。
(馬鹿な!)
この絶望が伝わるだろうか。いや伝わるまい。今、儂は赤子の気の済むまでの間、特等席で演奏会を聴くことになったのだ。
ジグルベインの名を聞けば泣く子も黙るというのに、泣く子を黙らせるどころか泣かされそうである。
(これが地獄というやつかや?)
一体なにがどうなればこんな状況になるのか理解はまるで追いつかない。だがそれでも昨日には追いついた。
はて、それが本当に昨日の話であるかはさておき……そういえば儂、死んだのだった。カカカ。
◆
演奏会の終わりは存外と早かった。隣で何かがモゾりと動いたかと思えば部屋が一瞬の内に明るくなる。便利な魔道具だと感心をしていれば、それを使ったのはどうやらこの赤子の母親らしい。
「大丈夫よ。寝てていいから」
「ああ、すまない。次は代わるよ」
男の低い声に驚き頭を振れば、なんと寝具の中には父親もいたようだ。
よもや同じ寝具に他人が三人も同衾していた事に動揺が隠せない。そして両者共に儂に対しての反応はない。
手が赤子をすり抜けた時に薄々感じたが、どうやら今の儂には実体がないらしい。
何やら言葉を交わした二人だが、初めて聞く言語で会話の内容までは理解が出来なかった。察するに男の睡眠を守るために女が赤子を寝かしつけようというのだろう。
(うむ。良きに計らえ。儂も少し頭を整理したいのでな)
「ほーら司ちゃん大丈夫だからねー。怖くない怖くないよー」
母親が赤子を抱いて部屋を出るのを見送ろうとすると、体がぐいと何かに引っ張られる。 何か、というよりこれは赤子にだろう。母親が廊下をすいすいと進むたび儂は紐の付いた犬のように引きずられた。
(なんたる屈辱! くっ殺せ! あ、死んじょるわ)
儂の自由範囲はせいぜい赤子から5歩前後らしい。よく見れば自分の身体は手も足も付いてはいるものの、足は地につかず手もまた物に触れること叶わずだ。抗う術などありはしない。
たとえ無理やり引っ張られようと壁にぶつかることは無いわけであるが、これでは本当に死んだほうがましだ。
儂は引きずられるままに廊下を進み、階段を下りて扉を潜る。ついた部屋は先ほどの寝室よりは広い部屋。ここにも先ほどの魔道具があるらしく、光る半円が室内を明るく照らしていた。
(見慣れぬ物ばかりよな。使用用途はおろか、素材すら想像がつかんわ)
決して広い空間では無いのに、そこにあるものは全てが未知の物である。さしもの儂も頬が引き攣るのが分かった。
「あら良かった。お漏らしはしてないのね。お昼に寝すぎちゃったかなぁ?」
つまりはこうか?悠久の時を超えて儂の魂は転生したものの、どういう理由か赤子の意思とは別に自我が残っていると。
記憶はあり、思考もできる。見て聞けるのに、儂はこの世に一切の干渉が出来ないと。
ある意味はお似合いの地獄かもしれんが、カカカ。
(これは流石に笑えんわなぁ。カカカ、カカカのカ!)
◆
三日が経った。
(いやぁうん。これはあれだの。ここ、儂の居た世界じゃないの!)
国や言語は時代によって様々で、その時の勢力でいくらでも変わる。技術も時が経てばそれなりに発展もするのだろう。
故に最初は異なる世界に来たなど無形な話を考えもしなかったわけだが。
魔獣が存在しないて!魔族はおろか獣人も居ないて!むしろ魔力が無いて!
(人間も外敵がいなければここまで繁栄するかよ。魔法を使わないというのもまた面白い。つまりこれは法則を使っているというわけよなぁ)
物を落とせば下に落ちる。童でも知っている常識だが、この世界はどうやらそれをとことんにまで突き詰めたらしい。
カカ、一体ここまで発展するのにどれだけの数を試したのやら。歴史による積み重ね。幾億数多の試行錯誤の粋。天晴である。
(認めよう。お前らは阿呆だ)
ここの住人はどこぞの貴族かと思うたが、どうやらそれも違うらしい。まぁ家がやたらに狭いとは思ったが。
しかし、この様な狭い家に住んでいる程度の階級が三食を問題なく食べられる事実。それも見たこともない美味しそうなものをだ。
箪笥には幾つもの着替えがあり、多種多様の衣服がある。
鉄の管からはいつでも好きな時に水が出て、あまつさえ風呂にまで毎日入りおる。
部屋は夜でも明るく、小さな板で遠話して、額縁からは映像が流れる。
魔法以前の問題だ。まるで王族の生活ではないか。
これが……普通なのか?
(いやはや外を知るのが空恐ろしいわい)
飛ばされた原因はやはりあの戦いのせいか。おのれ!
◆
半年が経った。
最近ツカサが儂の言葉に反応しているようだ。声を聴いては見つめてきたりキャッキャッと笑いおる。意外ではあったが、やはり反応があると嬉しいものよ。
ツカサというのは赤子の名前である。元気一杯の男の子だ。
こちらの言葉は、人の観察かテレビを観るくらいしかやる事が無いせいで習得は存外早かった。両親が言葉を教えようと赤子用の教材を用意したのも一因だろう。
(流石に赤子に負けるわけにはいくまい)
ツカサから離れられぬ儂は、もはや母親のようにツカサを溺愛していた。ふふん、見ておれよ。最初に名前を呼ばれるのはこのジグルベインよ。
そうそう外にも出た。ツカサの首が座ってからは手押し車に乗って良く散歩するからだ。
街の外観こそゴミも無い綺麗なものだが地面は石に覆われていて、空には電線が行き渡る、それは窮屈なものだった。
しかし向こうと変わらぬ青空に、どことなく懐かしさを覚える。
馬も無く走る荷台や空飛ぶ鯨の話をクリアにしても信じないであろうなぁ。いや、空飛ぶ鯨はあっちにもおったか。
何より驚いたのは店の品数だ。どの店も所狭しと商品が並んでいるではないか。恐ろしい生産力と物流である。
だが、それも納得する。人類は町や国を超え世界で繋がっていたのだ。
世界中に人間しか居ないというのも凄い話であるが。
(世界とはかくも縮まるものであるか)
移動の量も速度もなにもかもが異次元である。その気になれば誰もが世界の反対まで一日で行けるなど狂気の沙汰だ。竜にでも乗るなら兎も角、馬ではせいぜい隣町に行ける程度だというのに。
「母さん、ツカサお風呂に入れちゃうねー。一緒に入る?」
(ちと待てい父上!今日のドラ●もんは映画じゃぞ!何考えておるのか!)
「あーお願い。一緒に入るのはまた今度ね」
(いやじゃ! 15分! あと15分待ってくれい!)
風呂場に運ばれるツカサに連動してずるずるとテレビから離された。無念である。
◆
ツカサが立った!違った、一年が経った。
這うことを覚えてからというもの絶好調であった男の子。怖いもの知らずの豆戦車は階段から落ちかけたり、机の脚にぶつかったり、床に落ちるものを手当たり次第に口に入れて回ったりと、それはデンジャラスな日々であった。
赤子の成長とは早いもので、日々学び変化を見せる。アーアーとしか喋らなかった口からはママやパパなど短い単語も出るようになっていた。
(カカカ。そして今日、ついにツカサは歩いたのだ!)
思い返せばこの一年はお世辞にも短いと言える期間ではなかった。戸惑い嘆き、途方にくれては無力だけを募らせる、そんな時間。
ツカサが儂を見つけてくれた日から、この子が儂の全てであった。
「ジグー!ジグー!」
二歩三歩と短い足を不器用に動かしてツカサが儂に向かって歩いてくる。これが母性というやつか、自然と顔をツカサの目の高さに合わせ応援をしていた。
(おお、上手じゃ上手じゃ!)
足元までたどり着く小さな子。もしもこれが両親であれば、良くできたと抱きしめて頭を撫でてやるのだろう。
しかし、儂の両手では抱きしめることも、頭を撫でてやることも出来なかった。
儂に捕まろうとしたツカサは体をすり抜けて転倒してしまう。涙ぐむ赤子を前に、手を差し伸べてやることもできなかった。
(お前さんよ、どうか泣かないでおくれ。お前さんの涙にだけは儂は敵わんよ)
恥ずかしいのだが。最近……夜が怖い。
夜は喋ることができないからだ。目を瞑れば暗闇だからだ。
眠る事の出来ない身では、ただひたすらに思考の海に沈むしかない。
人に触れたい。触れて欲しい。愛したい。愛されたい。
己の存在をどこにも証明出来ないというのは、存外気が狂いそうである。
ああ、早く朝よ来い。
そして、お前さん。早く儂の名を呼んでおくれ。
◆
三年が経った。
ツカサも随分と大きくなったものだ。何にでも興味を示し、あれやこれやと質問攻めが増えた。その度に、ツカサと二人で頭を横に捻るばかりである。
なんでどこでもドアは何処にでも繋がるのじゃろうな?世の中は不思議が一杯よ。
ともあれ、活発で行動力があり良く喋る。年相応の我儘さはあるが、それでも聞き分けのある優しい子である。強いて言うならば、少し泣き虫なところが玉に瑕だろうか。
(ふふん。我ながら少しばかり贔屓が過ぎるかのう)
子供は、良いものだ。そして、家族というのも、良いものだ。
己には両方とも縁のないものであったが、向こうの世界でも人の子はこんなにも愛されて育つのであろうか。
もし、自分もこんなに愛されて育ったならば……いや。
(いやいや。儂はこれで良かった)
「ジグーどうしたー?」
(おお、お前さん。なにバイバイの時間が来ただけじゃよ)
予感はあった。ツカサが成長する度に、自分の削れていく感覚。
おそらくは赤子で自我が薄かったからこそ同じ魂を持つものとして存在が許されていたのだろう。
ツカサが相模司であると自覚するころには、このジグルベインなど不要ということよ。
「ばいばい?だれとばいばい?」
(儂と~お前さんが~ばいばいじゃ!)
悔いなどは別に無い。とうに終わった命なのだからむしろ今が余分なのだろう。終わらない物語など在ってはならないのだから。
「やだ!ばいばい、やーだー!」
(カカカ!こればかりは泣き落としは通用せんぞ)
嘘をついた。
一度だ。ただの一度で良いからお前さんを抱きしめて見たかった。
ツカサの前に膝を落とし、両手を回すもやはりそこに温もりはない。
せめて目一杯まで顔を近づけて、真ん丸な瞳と目を合わす。
(息災でな)
薄れる意識のなか。濡れる黒曜をみて思う。ああ、泣く姿を見ることがなくて良かった。
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