第42話 解放

 ザアザアザアザアと柊が音を立てる。それを掻き消すように後ろから声が響く。

「大和君、迎えに来たんよ」

 針依の声だった。

 ザアザアザアザアと湧き上がった波は勢いを増し、僕の口を突き動かした。

「僕は桜刃組に入るよ。この村から出ていく」

 カツと靴音がした。静止させる為に僕は喋ることにした。今度ははっきりと意識的に口を動かした。

「このまま聞いてくれ。僕も混乱しているんだ。話を整理させてくれ」

「桜刃組の誰かに命令されたん……?」

「違う。この決定は僕の意思だ」

「じゃあ、何でよ!」

 針依の声は荒んでいた。しかし、十一年前程の狂気はそこに無いように思われた。

 僕は彼女の顔を見ずに、今の複雑怪奇な心を言葉にしようと試みる。

「君が、好きでは無いんだ。ずっと好きでは無かった。嫌いだった。憎かった。当然だよ。十一年前、君は僕の将来とその時の恋愛と左目を奪ったんだから。好きになれる筈が無い」

 針依は意外にも堂々と言い返した。

「それは分かっとる。でも、今まで――十一年間も受け入れてきたのは大和君自身やろ」

「ああ、そうだね。そう生きる他無かった」

 彼女に呆れそうになる気持ちを己で引き留めながら、先程の問いを彼女自身にぶつけた。

「針依は今もなお僕が欲しくて片目を穿つのか?」

 針依は答えなかった。ただ、鋭い息の音がした。僕は畳みかける。

「今此処で君が僕の右目も穿って全盲にしたら、桜刃組には行けなくなる。僕は大人しくこの村に留まるだろう。また、刀太郎さんが君を庇ってくれて、村の秘密にしてくれるかもしれない。君にデメリットは無い。穿つのか?」

 桜刃組が反撃してくれるかもしれないことをわざと伏せて尋ねた。

 針依の鋭い息は短く早く繰り返された。程なくして嗚咽が零れた。

 僕は両腕の荷物を地面に落とし、彼女の両肩を掴んでいた。膝を着き、彼女を下から見上げる。髪は流れ、僕の醜い義眼が湿った外気に晒された。

 針依は顔を両手で覆って泣いていた。

「ちゃんと僕を見ろ。さあ、答えろ。穿つのか?」

 手に力を籠めると、針依は恐る恐る両手を下げた。真っ赤な顔から涙が零れ落ち、僕の顔を濡らした。左瞼も濡れた。義眼に流れ落ちていることだろう。

 針依存は顔を横に振った。

「……できへんよ」

 彼女の言葉に安堵する。同時に、呪いという言葉も浮かんだ。

「じゃあ、もう解放してくれ。僕を君から」

 自分の言葉に疑念が生じる。

 今、初めて僕は針依の視点から物事を考えることができた。

 彼女もまた十一歳の少女の凶行の被害者なのだ。十一年前の事件で運命を決められたのは彼女も同じだ。彼女はあの事件で僕に対して生涯をかけて償わないといけなくなった。

「解放しよう。僕から君も」

 針依は目を見開いた。その唇に唇を重ね合わせた。触れるだけの接吻にした。針依は更に驚き、硬直していた。僕はその反応に驚きもせず、納得するだけだった。

「嬉しくないだろう」

「そ、そんな訳無いよ」

「なあ、君は僕を好きでは無いんだろう。恋愛対象ではない」

「何でそんなこと言うんよ」

「正気か?」

「それは大和君やろ。安藤巳幸やっけ? 女装するような気持ちの悪い男に騙されてるんよ」

 僕の手を解こうとした両腕を掴む。

「僕を見ろよ。今の僕だ。今、此処に、此の村にいる現在の僕を見ろよ」

「見てるわ!」

 針依の甲高い叫び声に鳥肌が立った。

 僕は彼女を更に揺さぶろうと、男特有の低くて支配的で嫌な話し方を選んだ。

「見ていない。僕は三十二歳だ。なのに、十一年も続く鬱病のお蔭でその年齢に見合った成長をしていない。職場での地位も、責任の無い、いてもいなくてもいいような虚無のものだ。この歳になっても父親と一緒じゃなきゃ村の外に出られなかった。おまけにミサンドリーという偏見持ち。その癖、適当に誤魔化して女々しく生きている男だ。生きているというか、村の情けだけで生かされているような男だ。君の機嫌を損ねないように見え見えの本心を隠して、媚び売ってきた男だ。男だから、君で性欲を解消した。君が嫌いだから愛が無い。正直に言うと、あれは暴力だ。本心では君を軽蔑しきった僕が唯一できた暴力だ。こんな嫌な男を君は愛しているのか?」

 針依は目を堅く瞑って叫んだ。唾液が僕の顔を濡らした。

「愛してるに決まってるやろ!」

 僕は更に大きな声で叫び返す。

「僕を見て言え!」

 ワンと空気が揺れた。針依は仰け反ろうとしたので、その顔を掴んで、僕を見下ろさせ続けた。

 針依は左目の下を痙攣させた後、目を眇めながら開いた。

「愛してるわ! 大和君は私のものなんよ!」

 反射的に妄想した清美の姿が浮かんだ。

「僕はもう別の女のものだ!」

「そんなん、許さへん!」

「許さないのは誰だ? 今のお前か? 十一年前に事件起こした十一歳の少女じゃないのか?」

「どっちも私やんか!」

「分離して良いんだ! 左目を奪われた僕が許そう」

「できる訳が無いやろ!」

 針依の声に加勢するかのように、柊が大きく騒めいた。

「煩い!」

 反射的に叫んだ声は今までで一番大きく、辺りから音を奪った。一瞬の静寂が村全体を意識させる。

 そうだ。この村が悪いのだ。

 この村は針依もまた縛り付けているのだ。

 この村は、針依に村の頂点に永く君臨する裏鍛家の一人娘として十一年前の凶行の償いをさせようとしてくるのだ。

「村の外に出よう」

「何でよ!」

「場所が悪いからだ!」

 針依は裏鍛家の食卓のことをぐちゃぐちゃ言い出した。その話は僕に余計に村の外に連れて行かせたくなるだけだった。

 痩せこけた体を抱え、車の助手席に投げ入れた。

 運転席に座って、鍵の入ったバッグを落としてきたことを思い出した。仕方なく車から出ようとすると、針依も出ようとしたので怒鳴った。

「動くな!」

 針依は怯えを見せた。留めにドアを蹴って閉めた。

 門の前に散らばった荷物を拾い集めて、トランクに投げ入れる。できるだけ急いだが、同時に男らしく無駄に偉そうに見えるよう努めた。

 運転席に乗り込むと、針依は既にベルトをつけていた。そのまま大人しく従っているかと思ったが、車が動き出すと喚きだした。

「大和君、狂ってるわ!」

 僕は男特有の頑固さで言い返した。

「僕なんかに貴重な青春時代の十一年間を捧げた君よりかはマシだ!」

「大和君は素敵なの!」

「こんなおっさんの何処がいいんだ! 君はレイプ被害者だぞ! 馬鹿だ!」

 男がよく言う嫌な台詞をわざと言うことにする。

「女は馬鹿だ!」

 針依は怯まなかった。

「そんなこと少しも思ってない癖に!」

「ああ、そうだ! 思いたくなかった! 男が思うからだ! 大嫌いな男なんぞと同じ言葉なんて吐きたくなかったね。わざわざそうさせる程に、僕はお前が嫌いなんだよ!」

 脳に酸素がいってない言葉に我ながら呆れそうになるが、アクセルを思いっきり踏んで誤魔化した。

 激しく唸り速く走る車に針依が悲鳴を漏らした。

「村から出るってどうすんの? 大和君ろくに出られないやん」

「今日から出られるようになった! どうせ仁子から聞いてるんだろ」

「お母さん呼び捨てにせんといて!」

「今は家族のことを忘れろ!」

「出来る訳無いやろ!」

「するんだよ!」

 針依は舌打ちして黙った。僕も黙ったが、裏鍛家を通り過ぎて思い浮かんだことをすぐに口に出す。

「眞上と結婚しろよ」

 針依は下品に素っ頓狂な声を上げた。可愛らしさが微塵も無い。

「裏鍛家の一人娘は眞上と結婚すれば万々歳だろ。村からすれば!」

「あんなきっしょい狂人と結婚したないわ!」

「きっしょいおっさんともしたくないだろ!」

「大和君はきっしょいおっさんやない。少なくとも私からすれば」

「僕からすればお前は馬鹿で痩せぎすなブスだよ。何でお前は女の癖にそんな胸がないんだ。色気も無い。女装した安藤の方がまだ色気あったぞ」

「あっちのレベルが高いんよ! ビリーさんも抱き着いたくらいやねんやろ!」

「ビリーがきっしょいおっさんなんじゃないのか!」

「そんなん言うたらあかんやろ!」

「車の中の会話なんて聞こえるかよ!」

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