第41話 夢想
僕好みのグレーのセダンが走っている。
運転しているのは僕であり、助手席には橘清美がいる。
カーステレオは流行りの邦楽を流している。女性シンガーと一緒に清美が歌っている。
僕達は仕事を終えた所だ。暁の空は彼女の実家で栽培している果実と同じ色に染まっていた。
僕は匣織の最北にある浜に向かっている。
「夏じゃけん、海行かんとなあ」
彼女のそんな可愛らしい我儘を聞いたからだ。
疎らな家の合間から海が見えると、彼女の注意はそちらにそれる。
「日本海じゃあ。色深あ。瀬戸内海とはちゃうね」
彼女はそう言っておもむろにスーツのジャケットを脱いだ。それだけでなく、シャツの釦も外し始める。
僕が驚くも、彼女の手は止まらない。それどころか胸を張った。
「下にビキニ着て来たんよ。折角の海じゃけん、泳がんと勿体無かろ?」
彼女がシャツを完全に脱いだ。横目で見ると、白い素肌が陽光に染まっていた。母と同じくIカップの胸はコバルトブルーのビキニに何とかおさまっていた。
「大和さんったらエッチ」
彼女はにやにやと自分の胸を腕で隠した。
「横で脱がれたら見たくもなる。男の性だ」
自棄に言ってみると、「えー」と彼女が声を上げた。
「今からスカート脱ぐけど、見るん? 流石に事故るで?」
「着いてから見るよ」
「我慢できるん?」
「できる」
彼女はくすくす笑いながら上半身を屈めてスカートやストッキングを脱ぎ始める。
僕は宣言通り彼女を見ずに、浜近くの駐車場まで車を走らせた。
車が止まるや否や、彼女が外へと飛び出す。
僕も車を出ると、彼女が抱き着いてきた。大きく柔らかな胸が僕と彼女の間でめいっぱいに潰れる。
「見えないよ」
「大和さんも脱いだら見せたるよ」
彼女が僕のベルトに無邪気に手を掛ける。その手を掴む。
「僕は水着を着てないんだ」
「うちは下着を忘れたわ。ちょうどええやん」
「何だ、その屁理屈は。帰りはどうするんだ」
「帰りやからええやん。どうでも。なあ、泳ごうや」
「僕は遠慮するね」
強く制する僕の手から彼女はひらりと逃げた。
「じゃあ、うちが大和さんの分まで泳いだるわ」
彼女が数歩下がり、満面の笑みを向けてくる。僕が溜息を吐くと、彼女は海に向かって走り出した。
陽光が彼女の美しい輪郭を撫で上げる。
白い素足は黒いアスファルトを目立たせ、やがて白い砂に塗れた。
彼女は砂浜に足を取られながら踊るように駆けて、暁に染まる海へと飛び込んだ。
彼女は速く、僕が波打ち際に着いた頃には既に足が付かないだろう所まで泳いでいた。
泳ぎ方はバタフライで、重ったるい日本海を腕と足が力強く掻き分ける。飛び上がった飛沫は色を失い、暁に飲み込まれていく。
派手な音を立てて鳥の糞が視界を覆う。
現実にはっきりと戻された僕は、ウォッシャー液を出してワイパーでそれを拭った。
眼前には村の端にある家があった。
嗚呼、村に帰って来てしまった。
村民の家々を見る程に気分が悪くなってきたので、また夢想に耽った。
今度はこの村から出る時のことを考えた。
僕の前に在を置く。漆黒のスーツを着こなした広い背中に安心感を覚える。
彼の手には剥き出しの剣鉈があった。雲間から零れた陽光に長い刃がきらりきらりと時折輝いた。
彼は僕を迎えに来てくれる。この村から連れ出してくれるのだ。
道の端には村民達を並べた。
村民達は剣鉈に怯え、立ち竦んでそれを見つめている。村民達は両手で一本の彼岸花を持っていた。まるで自分達のもう一つの未来を表すかのように、首元にその赤い花を当てている。
誰もが一様にそうしている。
聖子も可南子も雅子も澄子も多津子も、お喋りな口を堅く結んで息さえ漏らさないようにしている。彼女達の家族も他の村民達も倣っている。
車が裏鍛鍛冶屋の前を通過する。
窯次郎も鎌三郎もビリーも兼子も槌男も基子も他の裏鍛家の人達も震える手で彼岸花を喉に当てている。
直正と玉男と眞上はぎらついた目で剣鉈を追っている。
針夫は堅く目と口を閉じ、首を反らせて彼岸花を押し付けている。
仁子は俯き、体を震わせて彼岸花で首を擽っている。
刀太郎は――十一年前の惨劇に始末をつけた男は仏像のように半眼で無表情だ。彼岸花は強く握りしめられ、茎が潰されている。
車を僕の家の前に停車させる。
亜久里は右隣の父を横目で見ながら、困惑した表情で彼岸花を握っている。
父は何も持っていなかった。恍惚とした笑みを浮かべて両手を差し伸べている。呆れる他ない。
父の左隣に針依がいる。
針依は喉に彼岸花を押し付けて、血走った目で在を睨んでいる。剥き出しになった歯はガチガチガチガチと音を立てるが、その隙間から言葉は生じない。しかし、僕を取り上げないで欲しいと喚きたい衝動が強張って前傾した体から見てとれる。
ざまあみろ。僕の左目と十一年もの月日を奪った罰だ。そのまま己の死に怯えながら、僕が去るのを眺めていろ。
清々しい心地で車を車庫に入れ、袋を両腕いっぱいに下げて、家に向かう。門を開こうとした時、風が吹いた。
ザアザアザアザアと柊が音を立てる。
僕はその音に村民や自己の声をもう連想しなかった。しかし、思考は掻き乱された。
先程想像した針依の姿が浮かび、砂嵐のようにザアザアザアと掻き消える。次に浮かんだのは十一年前に凶行に及んだ姿だった。それもザアザアザアザアとすぐに掻き消える。次に浮かんだのは八年前の様変わりした姿だった。ザアザアザアザアと掻き消える。次に浮かんだのは四年前の受験生だった頃の姿だった。その頃、彼女の部屋でよく勉強をみてやっていた。次に浮かんだのは三年前の大学の合格が決まった後の姿だった。一人暮らしをさせる為に針夫と共に引っ越しを手伝ってやった。彼女は不安がっていたので、よく励ました。ザアザアザアザアとその姿も掻き消える。次に浮かんだのは二年前の姿だった。彼女は二十歳になったので、僕と性交を強請ってきた。僕は周囲の圧力もあって断り切れなかった。結局、処女である彼女を犯した。愛情は無かったが憎悪はあったので、コミュニケーションでは無く暴力だった。なのに、彼女は僕との性交に満足し、何度も強請った。僕は性欲処理機として彼女を躾けた。ザアザアザアザアとその姿も掻き消える。次に浮かんだのは現在の姿だった。いや、この後の姿かもしれない。彼女はめかしこんで割烹着を着ている。僕に料理を振る舞い、僕にレイプされるのだ。
ザアザアザアザアと柊が音を立てる。
十一年。
一昔と表現できてしまう程に長い月日だ。
僕にとっては二十一歳から三十二歳までの期間だ。
鬱や義眼に苦しみ続けた。大学も中退したし、引き籠りもした。その後、何とか家で活動できるようになった。更には就職して村の中では単独で活動できるようになった。晴海との別れを過去のものと受け入れられるようになった。そして、十一年前のあの時と同じ熱量では針依を憎むことができなくなった。無視などできない大きな変化があった月日だった。
ザアザアザアザアと柊が音を立てる。
針依にとってこの十一年はどうだったのだろうか。
十一歳から二十二歳の期間だ。
一般的に言えば、心身共に大きく変化する期間だ。子どもから大人になったと言っても良い。社会的に見てもそうだろう。
十一年前、十一歳の彼女が起こした事件は刀太郎によって表沙汰にならなかった。けれども、表沙汰になったとしても彼女に刑罰は与えられなかっただろう。隔離と再教育はなされただろうが、犯罪者とは認められなかっただろう。十一歳の少女は未熟なのだから。
今の彼女は違う。同じことを起こせば犯罪者になる。しかし、そもそも今の彼女は同じことを起こすだろうか。もし、今現在、僕が彼女と同じくらいの年齢として、そして僕がこの村で晴海と付き合ったとして、彼女は同じ方法で僕を自分のものにしようとするだろうか。彼女は今現在もなお同じく僕の左目を穿つだろうか。
――今の彼女が僕の左眼窩の周りを撫で回し、傲慢に笑んだことを思い出す。
彼女はきっと千枚通しを手にするだろう。
分かりきったことだ。
ザアザアザアザアと柊が音を立てる。
分かりきったことなのに、僕は今否定したかった。そもそもどうして今疑問を持ってしまったのだろうか。この体の奥から湧き上がる波は何だろうか。
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