第40話 白雪姫の日記

 安藤が完全に見えなくなった頃、曇天からぽつぽつと小雨が降って来た。

 このまま帰ろうかと思ったが、目の前の大きな白い壁に赤紫で描かれたショッピングセンターのロゴを見ると勿体無いように感じた。

 鞄にノートを入れて、小雨の中を走り出す。

 とりあえずは安藤に会わないように、フードコートに向かった。

 ドーナッツ三つとコーヒーを頼み、隅の席を陣取った。目立つように並べられていた期間限定のドーナッツをコーヒーで流し込んだ。ウェットティッシュで口や手を拭き終えて漸く真面に認識できた。

 ――僕は今、一人で村の外にいる。

 体の芯が震えた。不安感はあった。しかし、それよりも爽快感が勝っていた。

 ずっと曇天ばかりだと思っていたこれから先の人生に、雲間の隙間から陽光が差したように思った。

 きっと僕はこれから先、晴海のように、自分が選択して愛する女と共になることだってできるのだ。そんな予感に溢れていた。

 内なる喜びに更に震えが増す。ゆっくりと息を吐いて昂りを鎮めようとする。

 それでも落ち着くことはできなかった。自分の将来以外に目を向けようと、安藤から渡されたノートを読むことにした。

 一頁目はコピーを読まされた部分だった。どうやら逆順になっているらしい。最後の頁を見ると、空白だった。文字を求めて遡っていくもなかなか現れない。やっとたどり着いた頁と最初の頁を掴んで厚さを見ると、全体の三分の一程しか無かった。

 彼女の簡素な生涯を憐れみながら、一番古い日付――寿観二十二年二月六日の日記を読んだ。


 *


 父が死んで、兄が組長になって一年。この間に私が「薬師神子在」となる為の教育は迷走していた。如何に父を理解していた祖父であれど、父の指導無しに「薬師神子在」を形成する方法は分からなかったらしい。挙句、祖父は父を喪った悲しみのあまり理不尽に私を殴るようになった。兄も虐待やら拷問やらをされていたので、それを倣ったという題目付きだったが。祖父は自分でも駄目だと理解していたらしく、私の教育に更にもう一人を加えることにした。今日、その人に会った。「おじさん」と呼ぶことにした。おじさんは、父が生きていた時代、兄の世話をし、教育を手伝った人らしい。祖父以上に派手な外見や、舌が分かれていること(スプリットタンというファッションらしい)に驚いた。でも、中身は真面だ。少なくとも祖父と父と私よりかは穏やかではある。おじさんはどうやら兄憎さで「薬師神子在」のスペアの教育を手伝っているようだった。しかし、祖父や父よりもおじさんのそれは優しかった。おじさんも「薬師神子在」に私は成れないと分かりきっているからだろう。おじさんは二つの方法を示した。どちらも実際に兄がやっていたことだ。まず、日記をつけること。日記というよりかはタイムスケジュールの記録だ。文章作成は書き残しておきたい事柄があった時だけで良い。次に、おじさんが兄に読ませた本を読むこと。といっても、おじさんは兄の好みと父の意向に沿って本を選んでいたらしい。私は日本語と英語とロシア語を学んでいるから、それらの言語で書かれた本を送ってくれることになった。今日は英訳されたカミュの「異邦人」を早速渡された。五ページまで読んだが、気が滅入った。おじさん曰く、兄はカミュが好きだったらしい。ますます兄が理解できなくなった。おじさんの教育を受ければ、私は兄がなってしまった「薬師神子在」に近付くことができるのだろうか。きっと少しも近付かないだろう。口にしたら、おじさんとはもう会えなくなるから黙っておく。おじさんは私が兄のような「哲学的ゾンビ」にならないことを望んだ。知らない単語だったので、説明してもらった。兄はけしてそんなものではないと思った。これも言わなかった。おじさんは私がそんなものにならないように、日記に文章をつける際はその時の感情や思考を残すことをすすめた。誰かに読ませる為でなく、自分だけが読むことを意識することも言われた。だから、私はこうしてロシア語の筆記体で日記をつけてみた。疲れた。おじさんが割と好きだから、従うけれどあまりやりたくない。どうせ記録に残したくなることはこの先起こらないだろう。これが最初で最後だ。


 *


 遺書を読んだ時と印象は変わらなかった。だが、この次の日記が僕を驚かせた。同年四月二十二日のものだ。


 *


 今日は今までで一番楽しかった日だ。山羊が好きなことをおじさんに話したら、すぐに連れて行ってもらった。祖父は最初こそ反対していた。けれど、兄も(忘れてはいるが)おじさんに色々な場所に連れて行ってもらっていたということをおじさんが言うと、祖父は納得した。だから、おじさんと二人で牧場に行った。本物の生きている山羊は自由奔放で個体差があって真っ白で可愛かった。私は「狼と七匹の子山羊」や「三匹の山羊のがらがらどん」の絵本のイラストで好きになったので、動き回っているだけで驚きだった。歩いたり座ったりするだけではなく、木に登る個体までいた。自分でもひく程、「薬師神子在」には相応しくない程はしゃいでしまった。けれど、おじさんは怒らなかった。それどころか私を更に喜ばせようと、山羊の餌やり体験までさせてくれた。私の手の中のキャベツを山羊達が身を乗り出したり頭突きしたりして奪い合った。上手いポジションにつける個体や努力の割に他の個体に呆気なく掠め取られてしまう個体がいた。差異があまりない見た目の個体でさえも性能や性格は多様だった。山羊も人間も同じだ。私が兄と違って「薬師神子在」にはけしてなれないことと重ねると、励まされた。他にも羊や牛や馬を見た。やっぱり見た目が似通っていても性能や性格は全くの別物だった。私が満足して牧場を出ると、車の中にはいつの間にやらプレゼントが置かれていた。おじさんが用意してくれたのだった。私の山羊に対する好意はおじさんから見ると度を越していたらしい。その為にぬいぐるみを買ってくれた。随分デフォルメされた、本物の山羊とはかけ離れたデザインだったが、可愛らしかった。そのもの自体も嬉しかったが、おじさんが私の為に選んでくれたことはもっと嬉しかった。おじさんが運転する車の中で嬉しくてずっと抱きしめた。私は死ぬまで大切にするだろう。このぬいぐるみも、この日の思い出も。


 *


 僕はそこでノートを閉じた。

 これ以上彼女の人格を知ってしまえば、僕はきっとまた彼女の死に意味を見出したくなってしまうだろう。読み進める為には、もう少し彼女の死を風化させねばならない。

 何気なくスマホを見れば、僕に残された自由時間は二十分程だった。微妙な時間だ。

 折角だから何か買おうとフードコートを出た。

 奇妙なことに入る店ごとに欲しいものが見つかった。帽子や服、本や嗜好品。いつもはネットを彷徨ってもなかなか見当たらないのに、何度も一目惚れをした。

 結局両手に六つの袋を携えて、車に戻った。

 車に戻る頃には雨は上がっており、雲間から陽光が零れ落ちていた。一筋のそれが僕の車を照らしていた。

 僕が乗って来た車は亜久里の趣味で空色のころんとしたデザインの軽自動車だ。もっと彩度の低い色の流線形の小型自動車が良い。今日初めてそんな欲求を持った。

 どれもこれも桜刃組に入る決意をしたお蔭だ。

 晴れ晴れとした気持ちで運転をしながら、ぼんやりと夢想した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る