第39話 三ツ矢奏の親切
仁子がたっぷりとした体を揺らして僕の数歩前まで来た。真っ青な顔の中、円らな瞳が震えていた。
「今日の十八時くらいにな、針依が帰って来るんや。皆に晩御飯振舞ってくれるんやて。せやから、それまでに帰って来てもらわな困るわ」
仁子の声はいつもよりも高く、苦しげだった。
僕は彼女に女らしい温もりを覚えることがあった。けれど、もう二度とそんなことは無いだろう。彼女の描く未来と僕の選んだ未来が重なり合うことが無いのだから。
針依の母に僕はあえて人の良さそうな笑みを見せてやった。
「ええ。勿論」
「じゃあ早く行かないとね」
割り込んできた安藤が僕の腕を引いた。
彼女はまだ何か言いたげだったが、唇を僅かに動かして俯いた。安藤はぱっと右手を上げて大きく振った。
「では、皆さん、さようなら。かなちゃんをよろしくお願いしますね」
村民は戸惑っていた。黙っていたり、安藤につられて空虚に手を振ったり、「さようなら」と鸚鵡返してみたりしていた。
気持ちの悪い光景だったので、安藤を引っ張って歩き出した。
しかし、奏が僕達の足を止めた。
「安藤さん。聞きたいことがあるんです」
安藤がびくと体を震わせた。
「帰ってからじゃ駄目かなあ?」
「今、この時でしかないといけませんね」
安藤が僕から手を放して、腕を組んだ。ピンヒールを三度鳴らして、奏に向き直った。
「君のフォローはできないよ。信濃さんにでも頼りなよ。それか、奈央子ちゃんに電話で参加してもらったら」
「奏が尋ねたいのは別件です」
奏の藍色の瞳が僕を見据えた。けれども、奏はそのまま安藤との会話を続けた。
「どうして安藤さんは奏のことをかなちゃんと呼ぶのですか? 今日初めて呼ばれました」
「女装したら可愛い子ぶりたくなっちゃった」
「うざい嘘吐き変態さん」
「清ちゃんも同じように呼んでるから良いじゃない」
「清ちゃん? いつもは別の呼び方ですよね」
「同じ理由だよー」
「うざい嘘吐き変態さん。貴方もそう思いませんか」
奏が僕を呼んだ。
「やまちゃんさん」
奏の目が悪戯気に細められた。そうすると、味気の無い顔に妖艶さが付与された。八年前の焔を強烈に彷彿とさせられた。
――焔は、僕が桜刃組に入ると知ったらどう思うだろう。
僕が新たに歩み始めた人生を、僕よりも速く真っ当に生きている彼はどう評価してくれるのだろう。微笑の仮面を被って僕の調子に合わせて歓迎してくれるだろうか。それとも、在達の事を思って心の底から喜んでくれるだろうか。
目の前の焔と血の繋がった男には予想が着くのだろうか。
問おうと口を開いたが、己でも唐突だと分かって声にはならなかった。
ただ、安藤に引っ張られて別れの言葉もそこそこに車に乗り込んだ。
僕の頭は八年前の焔に支配されていた。助手席の安藤が話しかけてくるが意味まで咀嚼できなかった。耐えかねた安藤が僕の頬を突いた。
「どうしたんですか。考えていること聞かせて下さいよお」
八年前の焔への執着を吐露しようとしたが、羞恥がまたも声を奪った。しかし、安藤には伝わったらしい。ふふっと短く笑って楽し気な声が聞こえてきた。
「焔のことですかあ?」
嗚呼、彼には敵わない。
僕は観念して肯いた。
「……桜刃組に僕が入った時の反応が気になってね」
「歓迎しますよ。心の底から」
「僕にはその底を見せてくれるかな」
ははあんと安藤が声を上げた。また僕の頬を突いてきた。
「本音が互いに言い合える仲になりたい、と」
「そこまでじゃあ無いが」
「焔は桜刃組の人間と僕に対しては本音剥き出しですよ。嫌になる程度にはね。小言が多くて煩いんですよ。ああ、でも、最初は遠慮して猫被るかな」
小言という不似合いな単語に焔が分からなくなった。僕の困惑を他所に安藤が張り切り出した。
「でも任せて下さいよ。一晩で親密にさせてあげますから。裏技があるんですよ」
「裏技?」
「焔はある程度酔うと本音しか話せなくなるんですよ。しかも、記憶は残るんです。大和さんが来る日にガンガンに酔わせてやりますよ。よくやるんで慣れたものですよ」
絶句した。焔の醜態にも安藤のそれにも。
安藤が捲くし立てる。
「焔は焔でその方が楽なんですよ。人間不信を極めていて、人との距離を遠く見積り過ぎなんですよ。僕の行為は潤滑油です」
「……焔が納得しないだろう」
「既に諦めさせました。大丈夫ですよ。大和さんは焔と同じく僕の憐れな被害者と焔に見られるだけですから」
「君は加害者で良いのか?」
「別の所では、僕は焔の被害者ですからね。友達なので、お互い持ちつ持たれつですよ」
溜息を堪えきれなかった。
「友達だと思っているのは君だけじゃないのか」
「うわ、非道いですね。清ちゃんに言っちゃおうかな。言っちゃえ、言っちゃえー。大和さんって毒舌なんだよ」
安藤が裏声を出す。
「えー、嘘お! 仲良くできるじゃろか? 年もだいぶ離れとるけん、不安じゃわい」
「方言⁉」
「愛媛と広島と、あと京都というか関西弁が混じってるんですよ」
「……可愛いなあ」
我ながら単純なことに今度は清美のことで頭がいっぱいになってしまった。
安藤が噴き出した。苛立った。文句を言ってやろうと口を開いた時、安藤が慌ててバックミラーを指さした。
「ほら、村出ちゃいましたよ」
確かにもう村民の家は一つも見えない。ただ狭い道を遮るように鬱蒼と茂った木々が手を伸ばしているだけだ。
十年間あの村から父と共にしか出られなかったことが嘘のように僕の心はあっさりと凪いでいた。
安藤は暫く僕を無言で眺めて言った。
「では、目的地を言いましょう。永苑ショッピングセンター・橿原です」
「仕事じゃないのか……?」
てっきり駅にでも向かうかと思っていたので、意外だった。
「そこの喫茶店でお客さんと待ち合わせしているんです。急いでもらわないと間に合いませんね。何法定速度守ってるんですか。対向車いないんですから、かっ飛ばしましょうよ」
「君、時間の使い方が下手じゃないのか」
「大和さんとかなちゃんに手間取っただけですー」
「君が無駄に話した部分も大きいんじゃないのか」
「あっ、非道い。清ちゃんに言っちゃおうかな」
「何回目だ、その下り!」
そんな風にわあわあ騒いでいたら、あっという間に目的地に着いた。しかも、屋外駐車場に入った所で安藤はベルトを外し、鞄の中を探り出した。
サイドブレーキを引いた途端、目の前にB5サイズの青いキャンパスノートが突き出された。
「これ、替ちゃんの日記の訳が全て乗っています。在さん直筆の原本です。所有者は奈央子ちゃんなので、読み終わったら返しに来て下さい。期限はいつでも良いそうです」
受け取ってみるも、読む気にはなれなかった。本人に意味を見出すなと釘を刺された代物である。
返そうとしたら、今度はタブレット端末が突き出された。
映し出されているのは、真っ白な長髪を几帳面に三つ編みにした壮年だった。デジャブを感じていたら、画面がスワイプされて別の写真が出てきた。
同一人物だが髪が金髪になり、青年と呼べる若々しさがあった。隣には十代の頃の「お人形さん」みたいだった在がいた。
「蛇蔵高忍……」
「ご存じでしたか。二代目組長の時に在さんのお世話をしていた人です。そして、替さんの日記に唯一現れる他人である『おじさん』。彼のことを詳しく聞きたくなったら、連絡して下さい。すぐに教えます」
では、と安藤がタブレットを抱えてドアを開いた。
「待て。これは読むべきものじゃないだろ」
安藤が目を眇めて、口角を上げた。それだけのことで別人に見えた。
「あの遺書だけが彼女の全てではありません。貴方が桜刃組を選択した今、彼女の別の、穏やかな側面も知っておいてほしいのです。彼女は桜刃組の犠牲者であり、忘れてはならない人だから。彼女に興味を持った貴方と奈央子ちゃんには覚えておいてほしい」
では、と安藤がまた繰り返す。
「来年の三月までに桜刃組にお越し下さい。さようなら」
ドアが乱暴に閉じられた。安藤は走って店の中に入っていった。僕は安藤が見えなくなるまで目で追っていた。
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