第37話 橘清美の似顔絵

 安藤が座り直して、鞄から年季が入った、赤い革のバイブルサイズのシステム手帳を取り出した。素早くリフィルを破き、さしていたノック式万年筆のペン先を出した。罫線の引かれたリフィルにセピア色のインクで縦長の丸を描いた。

「口が大きくてですね」

 丸の中に緩やかなV字を描いた。

「目が大きくてぱっちり二重ですね」

 縦長の丸二つを描き、それらの上に弧を描いた。

「鼻が高くてですね」

 目の間に長い縦線を引いた。

「前髪は眉辺りでですね」

 目の上に中央から外側へと上がる斜め線を両方描いた。それらの下に水平線を描いた。

「母と同じく色素薄めの黒髪ですが、前髪の左だけ色を抜いてます」

 前髪の左部分以外を細かく斜線を引いた。

「下ろしたら肩くらいある後ろ髪を項でくくってますね。くくり切れなかった横髪は垂らしています」

 両耳らしき半円二つを描き、右耳の下に針鼠のような形をつけて細かく斜線を引いた。両耳の下に短く垂直線を引いた。

「できあがりです」

 僕の方にくるりと紙を回転させて、差し出してきた。単純な絵なので、正しい方向から見ても大きく印象は変わらない。

「ふざけてるのか?」

「僕は絵心がありません。本物の美しさは桜刃組に行かないと見れませんねえ。残念でしたあ」

 べえと安藤が舌を出して、素早く上下に振った。思ったより精神年齢が低いらしい。

 苛立ったが、あえて冷静になった。成程、安藤は好きな女を餌にしてでも僕を桜刃組に入れたいらしい。女より仕事をとる浅ましい男なのだろう。そんな男に清美は相応しくなかろう。

 挑発に乗ったと思われないように、素っ気なく返す。

「僕が桜刃組に行ったら君は後悔すると思うけどね。狙った女は全員おとしてきたから」

「僕と清ちゃんの親密度の前には無意味ですよ。だいたい毎日一緒に遊んでいますからね」

「そこまで友達として見られちゃあ、もう御仕舞だ。諦めろよ」

「そんなことありませんよ。僕の恋路の行方は大和さんには関係ないですよね。参戦してこない限りは。参戦できるんですかあ? 正直な所」

「参戦してほしくないだけだろう」

「いいえ。僕は貴方が桜刃組に来てくれることを望んでいますよ」

 安藤が一瞬視線を逸らして、垂らした横髪を右人差し指に巻き付けながら僕を見た。

「貴方みたいな肉食系がいてくれた方が清ちゃんも恋愛モードに入るかもしれませんからね」

 彼の言葉は上滑りした。自分でも分かったらしく、はにかんだ。

 それによって緊張していた空気が弛緩した。安藤と清美に集中していた僕の頭もすうと冷えて、自分自身を俯瞰した。そして、驚愕せざるを得なかった。

 ――僕は、桜刃組に行く気になっていた。

 苦しんで一ノ宮時也のメッセージを受け止め直した時とは違い、清々しくその道を見据えていた。

 困惑しながら安藤を見てみれば、ご満悦そうに頬を緩めていた。

 嗚呼、まんまと乗せられてしまった。

 安藤が立ち上がり、鞄を持って僕の傍まで来た。

「さて、僕の用は終わりました。車で送って下さいよ」

 何だか癪に障ったので、言い返す。

「歩けば良いだろ。わざわざ車で行く距離じゃない」

 安藤は口を大きく開いて、目いっぱい開いた右手で隠した。そして、激しく身振り手振りをつけて話し出した。

「え! あのろくに整備されていない道を歩けと言うんですか? ピンヒールで⁉ 紳士的じゃないなあ。清ちゃんに言っちゃいましょうかねえ。僕のピンヒール姿を見て格好良いって言ってた可愛い清ちゃんに言っちゃおうかな。大和さんはピンヒールを履いた人を悪路に歩かせるような嫌な男だって言っちゃおうかなあ。言っちゃえ。言っちゃえ。言っちゃおう!」

 うざったるい。気持ち良いくらいに突き抜けてうざったるい。

「送ってやるから、清美には僕の紳士っぷりを語ってこい」

「勿論です。やったあ」

 安藤が勢いよく万歳した。胸が大きく弾んだ。偽乳だと分かっていてもどきっとして苛立った。

「次会う時は男の姿で来いよ」

「では、ジェンダーレスっぽい男装で迎えましょう」

 微妙な会話の噛み合わなさに首を捻りながら、僕も立った。

 自室に財布や車の鍵を入れっぱなしにしている鞄を取りに行った。安藤はぺちゃくちゃ喋りながらついてきた。男の癖によくもまあ言葉が尽きないものだ。

 自室から出た途端、安藤が有無も言わさず手を繋いできた。解こうとした時には安藤は既に小走りしていた。

 玄関まで着いて、靴を履く時にやっと手が離れた。僕も彼の隣で靴を履いていると、父がやってきた。

「安藤君、もう帰るのか?」

「ええ。僕もこの後、用事がありますので。今日のことはまず大和さんに聞いてみてください。それでも何かありましたら、連絡して下さいね」

 安藤は流れるように言いながら靴を履き終えて、くるりとターンして父に向き直った。それから深々とお辞儀をした。

「では、お邪魔しました」

 顔を上げた安藤は父ではなく、僕を見てウインクを飛ばしてきた。

 僕は流れについていけてない父に言葉をかけた。

「送ってくる」

 父が口を開いた途端、安藤は僕の手を引いて素早く家を出た。

 ドアが閉まると、安藤がけらけら笑い出した。僕も無性に可笑しくなって一緒に笑った。

 車が家から離れると、安藤の調子が急に切り替わった。

 ひっそりと優しい声で囁いてきた。

「信濃さんとはさっきくらいの距離感で良いと思いますよ。僕はね」

 勢いで肯こうとしたが、ちょっと引っ掛かるものがあった。ハンドルを握り直しながら、歯列を舐めた。

「まあ、参考にはするよ」

「分からなくなったら相談して下さいね。応援してますから」

 真面目な空気になりそうだったので、わざとふざけた。

「清美と僕の恋を?」

「始まってもないものを応援できませんね!」

「始まった瞬間、終わるから今のうちにしとけよ」

「失恋すると思うなんて随分とネガティブですねえ」

「即失恋するのは君だからな」

「いつまでその大口叩いてられますかね。楽しみですね。今の発言を後悔する瞬間が!」

「厭味ったらしい男は女から好かれないぞ」

「大和さん以外には平身低頭ですよ」

「それもそれで女受けが悪いんじゃないか」

 そんな調子でぽんぽんと軽口を交わしているうちに、裏鍛鍛冶屋に着いた。

 事務所の横の駐車場に行くつもりだったが、事務所前の大騒動を見て、道の端に止めた。

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