第35話 残酷な現実

 読み終わって――正確には同じフレーズが繰り返されてから斜め読みして、僕は震えた。

 氷水をぶっかけられたかのように全てが収縮し、呼吸さえ上手くできなかった。

 安藤を見たが、平然としていた。不安を共有したくて話しかける。

「怖くないのか。安藤も読んだんだろ」

「ええ、勿論。翻訳した在さんも、時也さんに恩を感じている奈央子ちゃんも読みました。……さて、どうしましょうか」

「どうしましょうかって」

「替ちゃん自身の考えはそれです。でも、時也さんの考えは別でしたよね」

 安藤は一度瞼を下ろして手を組んだ。数秒後、半眼で僕を見た。

「時也さんが生前貴方に対して何をしたかを僕は知らされています。時也さんが貴方に提示した案を僕は支持します。その上で、時也さんが在さんに瓜二つの替さんとこの村の近くで心中して伝えたかったことは推測できます」

 僕は何も言えなかった。

「僕だけじゃない。信濃さんも宗助さんも考えを共有しています」

 脳裏に在の顔が浮かんだ。

「在もか」

「ええ。しかし、桜刃組で事情が呑み込めている人間全員が替さんの考えを尊重しています。替さんの為ではありません。貴方の為です。貴方を傷付けない為です」

「僕の為……」

 在の慈愛を感じていると、安藤の冷たい声が鼓膜を刺した。

「僕は、その考えに同意しかねます」

 安藤は一旦ぎゅっと目を閉じてから、僕を鋭く見据えた。

「貴方の選択肢を整理しましょう」

 安藤が一本指を立てた。

「一、このままこの村にい続ける。来年三月に針依ちゃんと結婚して完全に裏鍛家の一員になる」

 安藤がもう一本の指を立てた。

「二、桜刃組を利用して村を脱出し、他の職につく。一ノ宮さんが勢いで言っちゃった選択肢です」

 安藤が更に一本指を立てた。

「三、桜刃組に入る」

 安藤が手を解いて、組み直した。

「僕としては最後をおすすめします。在や焔という貴方が好感を抱いていそうな男性がいますし、殆どの人間は貴方に対して理解があります。勿論、桜刃組側も貴方を必要としています」

 安藤は一度口を堅く結び、また半眼になった。

「……率直に現実の話をしましょう」

 低くなった声は震えていた。

「貴方の鬱病が十一年もの長い間、続いているのは、環境が、この村が、貴方の家族が原因の一つです」

 そして、と安藤は辛そうに喋り続けた。

「貴方の性格もまた貴方を苦しめています。誰も貴方を受け入れられない。貴方も貴方自身を肯定できていないんでしょう」

 安藤の目に涙の膜が張っていっていた。

「この村以外で桜刃組の助けで新たな居場所を得ても貴方は苦しむだけです。しかし、自分一人で別の居場所を探す力が貴方には無い」

 安藤の鋭い言葉に僕は刺された。受け入れたくは無かったが、ねじ込まれてしまった。

 ――彼の言葉は正しい。

 数年前、父に連れられて精神科の帰りに大きなディスカウントストアに行った時のことを思い出した。

 多種多様な商品がうずたかく積まれた棚が所狭しと並べられていた。大音量で短く激しいテーマソングが繰り返し流されていた。入った瞬間、情報量の多さに酔った。しかし、僕は馬鹿なことにボディーソープを探しに行った。目的の棚を探す為に棚の合間の細い道を通り、下品な商品に出くわしたり、商品を落としたりした。それで疲れ果てて、結局父に任せて車に戻って目を閉じた。

 この村と桜刃組以外の道を選ぶということはそれと同じだ。

「……実質、選択肢は二つしか無い」

 僕がそう言うと、安藤は涙が今にも零れそうな目で縋りつくように僕を見つめてきた。

「選択肢というよりも、呪いなのかもしれません。僕は今、晴海さんと替ちゃんについては清算させました。針依ちゃんと信濃さん二人の呪いでこの村に留まり続けるか、時也さんの呪いで桜刃組に行くか。どちらかの呪いを選べば、片方が消えるというだけです」

「そうだね」

 安藤の言葉を飲み込んだが、引っ掛かった。

「父の呪い……?」

「幼少期から傷付けられてきたでしょう。それに、今だってあの人は貴方を手放そうとはしない。鬼子母神のように我が子を奪われることを怖れている」

「父も一ノ宮時也の意図を知っているし、反対もしてないんだろ?」

「そうですね。桜刃組に貴方を入れることを宗助さんから提案された時、あの人は喜んだでしょう」

 手紙のことを思い出して肯くと、安藤は立ち上がった。

「あの人にとって現状は気に食わなかった。十一年前に大切な我が子である貴方の左目を奪った加害者の意のままに進んでいますからね。けれども、従うしかなかった。あの人にも貴方同様、それ以外の道が見えていなかったのです。今までは。ですから、桜刃組――あの人の人生を大きく占めた桜刃組への道が示されたら当然飛びつきますよ。今まで通り自分の庇護下に貴方はい続けると思ってしまうんでしょうね」

 安藤は僕の隣に立って、唐突に抱きしめてきた。顔を偽乳に埋められた。控えめなエキゾチックな香水の匂いが鼻腔を擽る。髪を梳くように撫でられ、耳朶を微かな吐息が擽った。脳が混乱して、男だと分かっているのに男だと認識できなくなった。

 安藤は男として言いようのない声で囁きかける。

「今の桜刃組に信濃さんが入る隙はありません。桜刃組からすれば完全に裏鍛鍛冶屋のうちの一人でしかない。貴方が望みさえすれば、貴方と裏鍛鍛冶屋が一生接触できないようにしますよ」

 想像さえできない事柄に頭が動かなくなった。

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