第34話 白雪姫の遺書

 安藤はにこりと笑んで、タブレットを操作して僕に見せた。

 映し出されたのは奇妙な画像だった。

 バイブルサイズの黒革のシステム手帳が木の机の上に開かれていた。左右両方の頁はバーチカルのリフィルだった。四月九日日曜日から十五日土曜日までの日付と零時から二十四時までの時間軸が印刷されていた。しかし、それらを全て無視して黒一色の線がびっしりと書き連ねてあった。まるでペンのインクの出方が気に入らないとばかりにぐるぐると横に歪な螺旋を描いていた。

「替ちゃんの遺書です」

 悲鳴をあげてしまった。安藤の笑みが悪戯気を含んでくる。

「僕も最初恐怖を感じました。でも、在さんに見せたらすぐに解決しましたよ。これは、ロシア語の筆記体です。日本語に翻訳してもらったものは此方です」

 安藤が鞄からクリアファイルを取り出し、僕に手渡した。半透明なピンク色のそれには紙が一枚挟んであった。ノートを印刷したものであるらしい。

 紙を取り出して読もうとしたら、先程とは別の恐怖を覚えた。

 字が綺麗すぎるのだ。一字だけを見ると、何のフォントも真似ていない人間が書いた字だと分かる。癖が一切見当たらない字だ。しかし、ノート一頁をみっちり埋めている癖に全体のバランスがあまりに整い過ぎている。方眼紙に意識して書いても此処まで整然とすることは無いだろう。

「在の字か?」

「そうですよ」

 そうだと安藤がタブレットを弄って別の画像を見せた。

「これが替ちゃんの書く日本語の文字です」

 先程と同じ手帳の一月の第一週の頁だった。時間軸に沿って行動が坦々と記録してある。朝食、英語の勉強、洗濯物、「初恋」翻訳、風呂の掃除。そんな短い言葉ばかりだったが、読み取るのに苦労する悪字だった。あまりペンを離さずに書いているらしく、変に文字が繋がっている。その上、在とは正反対にバランス感覚が無い。ランダムな方向に微妙に傾いており、大きさも絶妙にまちまちだ。時間軸に沿って書かれた矢印さえ微妙に震えて歪んでいる。筆圧が極端に弱いのだろうか。わざと書いていても此処まで醜くはならないだろう。

「あの顔で此処まで正反対の文字とは凄いな」

「顔で字は書きませんからね」

「それもそうだが」

 安藤は軽やかな笑い声を上げて、タブレットをしまった。

「性格も違いますよ」

 さあと安藤は僕が持った紙に右手を向けた。

 僕は肯いて、替の遺書に向き合った。


 *


 私は「薬師神子在」のスペアとしての役割を終えた。物心ついた時から「薬師神子在」である兄の代替にならないとは分かっていた。祖父が理解したくないから、付き合ってあげていただけだ。祖父の夢が醒めた理由は、兄が桜刃組組長として能動的に動きだしたからだ。それも今更だ。兄には会ったことが無いが、兄は兄なりに「薬師神子在」の役割を果たしながらも、己の意思を見せてきたように思う。「薬師神子在」の資格が無い人には分かりにくいだけだろう。おじさんは兄を「哲学的ゾンビ」と言っていた。でも、おじさんも本当はそうは思いたくは無かったんだろう。兄とおじさんは決裂してしまったから仕方がない。おじさんは本心では今でも兄を好いているから方便が必要なんだ。その方便の一貫として私を構ってくれただけ。おじさんは優しいから役割が無くなった私を匣織以外の場所で暮らそうと提案してくれた。具体的な提案としてはおじさんの知り合いの家だった。富山の梨農家でカタギの優しい人ばかり。私が馴染むまではおじさんも一緒に暮らそうと言ってくれた。馬鹿々々しい。「薬師神子在」の資格が他人から見ても明確に無くなった今、おじさんにとっても私は不要だ。そして、祖父にとっても私は不要だ。私にとっても私は不要だ。自分でも驚いた。「薬師神子在」のスペアなんて迷惑な役割が無くなれば、自由が手に入って薔薇色の人生が送れると夢見たこともあった。所詮、夢だった。「薬師神子在」のスペアじゃない私はどう生きればいいのか分からない。おじさんに聞いたら、趣味でやってた裁縫をとりあえず楽しめば良いのでは無いかと言われた。おじさんに福井県にある大きな店に連れて行ってもらった。欲しいものを全部買ってもらって心は踊った。でも、商品を選んでいる時に分かった。別に裁縫も好きじゃない。暇つぶしに過ぎない。私には何もない。かと言って、何かが欲しい訳でも無い。極論を言えば、もう生きていたくない。おじさんを悲しませたくないから、おじさんの前ではずっと自由を謳歌する振りをした。おじさんは鋭いから多分気付いていたけど、合わせてくれた。最後に見られたおじさんの表情が笑顔で良かった。強張っていたのは残念だけど、心の底から笑わせたいとは思わなかった。私が生きていたくないことを祖父には言わなかった。でも、祖父は私と心中する予定を立てていた。父が自殺とも言える死に方をした時から見えていた終わり方ではある。祖父は父に憧れていたから。父以外のことは何も見えていないロマンチストだから。祖父もまた父の時代の「桜刃組」の復興が叶わないと分かった今、己を不要と見なした。祖父も私も無意味に死ねばいい。けれども、祖父はそんな選択は選ばない。父の時代の残骸であった祖父と、父の時代に意味を成していた「薬師神子在」のスペアであった私。そんな二人の死に祖父は意味を見出させるだろう。対象はきっと兄だ。可哀想だ。いつだって兄は可哀想だ。兄は祖父のサポートとという意味で「薬師神子在」として生きて来た。祖父の為に人生を捧げて、突然兄弟姉妹にとって代わられないよう研鑽を積んだ。お蔭でスペアに求められるスペックは高まり続け、誰も追いつけなくなり、私以外は殺された。私は祖父が父の理解者であったから、何とか密かにスペアを続けられていた。「薬師神子在」になれるようにずっと勉強させられた。怪物のような兄と比べられて詰られた。だから、兄は嫌いだ。大嫌いだ。でも、兄にこれ以上の枷を増やすのはあまりにも憐れだ。だから、私の気持ちを此処に残す。私は私自身が死にたいから死ぬのだ。私が祖父の動きを利用して死ぬのだ。意味なんて何処にも無い。衝動しか無い。私が大好きなロシア語を私よりも上手い兄ならこの文章を読めるだろう。読んでいるか。私は死んでいるだろう。ずっと「薬師神子在」を続けてお疲れ様。これからも続けなきゃいけないなんて最悪だね。私みたいに資格が無くなって、死ねたら良かったのにね。祖父がどう演出しようとも私の死に意味なんか無い。私の人生も「薬師神子在」のスペア、それもお情けで生かされ続けた出来損ないのスペア以外の意味なんか無い。私は貴方の足元に積みあがっているスペア達の骸の山のうちの一人。そこに行くのが遅れてしまっただけ。貴方はスペア達のことを思う事なんか無かったでしょう。生きてればライバル、死んでいれば安心の存在。いちいち感情を動かしていれば「薬師神子在」なんか続けられていない。だから、死に遅れただけの私の死に何の意味も見出すな。私は死にたいから死ぬ。それが全てだ。それしか無い。書くことに疲れたから、そろそろ理解しろ。私が書いた文章はこれだけじゃない。探せばある。全部おじさんとデートした日の日記。「薬師神子在」のスペアとしておじさんに利用された記録でしかない。読んでもいいけれど、意味なんか見出すな。繰り返す。私の死は無意味。一ノ宮替の死は無意味。私の死には意味が無い。私が死んでも何も変わらない。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。私の死は無意味。


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