第33話 安藤巳幸の仕事

 安藤を居間まで案内して、三人でダイニングテーブルを囲んで座った。

 安藤は緋色のカバーをしたタブレット端末を取り出すと、父を見た。

「まず信濃さんからのご依頼を果たします」

 続く言葉が僕らを驚かせた。

「信濃さん、大和さんと二人きりにさせてもらえませんか」

 父はむっとした。机に置いていた両手が拳をつくり、ぎりと震えていた。

「いや、僕が頼んだことだろう」

「でも、貴方には関係ありません。大和さんの口からお聞き下さい」

「大和一人が聞くには辛いことだろう」

「それは大和さん一人の問題です。彼女の話は本来貴方が干渉してはならない事柄です。話の後に大和さんがケアを求めれば、貴方の出番です。そうなるまでお控えください」

 父が音を発した瞬間、安藤は頭を下げた。簪の飾りが勢いよく踊る。

「どうかご理解ください」

 父は口ごもって、僕を見た。

 僕自身、どういうことか分かっていなかった。「彼女」とは誰なのだろうか。替がまず思い浮かんだが、それなら僕と同じ依頼だと安藤は言っただろう。奈央子か清美の話だろうか。安藤が僕を桜刃組に入れるつもりなら、親には聞かせたくない下世話な話をするつもりだろうか。だとすれば僕も安藤の考えは理解できる。

「安藤の言うことを聞いてくれないか。必ず後で教えるから」

 僕の言葉に父は狼狽えながらも席をたった。父が居間を出て扉が閉まるまで僕らは無言でいた。

 安藤はその間にタブレットを操作していた。

 僕が安藤に向き直ると、見せられたその画面には女が映っていた。

 女は食肉売り場でカートを左手で押していた。カートに置かれた深緑の籠には胡瓜やキャベツ等の野菜が入れられていた。

 女の右には女児がいた。女児はキャラクターの絵が描かれたソーセージの袋を女に渡していた。女児は紺色のワンピースを着て、黄色のリュックを背負っていた。見覚えは無いが、幼稚園の既定の服装に見えた。女児の顔は女によく似ていた。

 女は白地に茶色のチェックが入ったチュニックと灰色のジーンズ、黒のバッシュという格好だった。髪は前髪もひっつめて一つ結びにしている。薄く化粧をしていた。

 ふっくらと太っていたし、胸も垂れていた。目元の皺やほうれい線も目立つようになっていた。

 けれど、僕には一目で誰か分かった。

「晴海……」

「現在の写真です」

 安藤の声につられて彼を見ると、彼は神妙な面持ちで喋り出した。

「時系列に沿って簡単に話します。十一年前のトラブルの後、彼女は精神を病み、閉鎖病棟で入院しました。退院後、彼女は関東の旅館で働きました。住み込みでした。その旅館の近くにある商店の主と恋に落ち、結婚しました。そして、商店で働き出しました。彼女の夫には連れ子と要介護の母がいて、四人で暮らし始めました。連れ子は男の子です」

 安藤がタブレット端末に触れた。

「今からお見せする写真は全て四年前の秋の写真です」

 よく磨かれ整えられた爪が生えた長い指が画面をスワイプする。

 晴海と男が石畳の道に広がった落ち葉を掃除していた。晴海はカーキ色の長いワンピースを着ており、妊娠により膨らんだ腹によって布が張っていた。男は禿げ頭で小太りで撫で肩だった。盛り上がった頬のお蔭か、優しく誠実そうに見えた。五十代に見える。

「夫か……」

 安藤は肯き、スワイプして別の写真を見せた。

 何処かの広場だった。晴海は車椅子に手を添えていた。車椅子にはちんまりとした老婆が乗っていた。二人とも、黄色に染まった銀杏を柔らかな笑顔で見上げていた。

「義母か」

 安藤はまたも肯いて、別の写真を見せた。

 晴海が車の運転席から出てきていた。学ランを着た少年が晴海に向かって歩いていた。彼は丸坊主で大きなリュックを背負っていた。野球部だろうか。

「連れ子か」

 僕の言葉に肯いて、タブレットを両手で引き寄せた。

「音声データもあります。聞かれますか?」

 僕が肯くと、安藤はタブレットの画面を自分に向けて操作した。

「どうぞ」

 それは晴海の声から始まった。

 

 ――たっちゃーん、お弁当!

 ――あー! やっべ! ありがとう、お母さん。

 ――いってらっしゃい。

 ――いってきまーす!

 扉が閉まる音がし、小走りの足音が続いた。

 壮年男性の声と老婆の声が入り込む。

 ――晴海、スマホ鳴らしてえ。

 ――お前は昔から忘れん坊だね。鍵はあるのかい。

 ――あるよ。

 ――鍵はあるのに、何でスマホは無いんだ。

 ――スマホに聞いてくれよ。

 晴海の明るい声が続く。

 ――ノリさん、洗面台で見かけましたよ。お義母さん、新聞とってきましたよ。

 壮年男性と老婆も声を明るくする。

 ――あー! そっか、置いたな。

 ――悪いね、晴海さん。

 晴海のくすくすとした笑い声がした。


 音声はそこで終わった。

 安藤が驚いた顔で僕を見ていた。

 その姿が歪んでいることに気付いて、やっと僕は分かった。

 僕は涙を溢していた。

 安藤がおずおずと話そうとしたが、僕が言葉を重ねた。

「晴海は新しい家族を得たんだな。血の繋がった娘までいて、きちんと生活してるんだ」

 安藤が相槌を打った。僕の口は喋り続けた。まるで心と口が直接繋がったように制御が聞かなかった。

「十一年前の惨劇も、米子さんのことも、僕のことも、もう彼女を苦しめていないんだ。新しい人生を歩んでいるんだ。後ろめたさもなく、幸福なんだね」

 安藤が静かに肯いた。

「良かった……」

 自分の言葉に自分で納得した。

 僕はずっと晴海のことを思い続けていた訳じゃない。過去だと割り切っていた。自分のことだけで精いっぱいだった。

 だのに、こうして現在の姿を突きつけられると、解き放たれたような心地がした。

 安藤が緋色のハンカチを鞄から取り出して、僕に差し出した。

「今回持ってきた情報は以上です。貴方が望むのならば、後日、もっと詳しくお話出来ますが」

 ハンカチを受けって、涙を拭った。意識的に呼吸を整えて、安藤に向き直った。

 彼の瞳は真っ直ぐに僕を映していた。凪いだ水たまりが晴れ上がった青空を正確に反射しているようだった。

 紅茶色のレンズの中で僕は悟った。

 もう晴海の人生と僕の人生が交わることは永遠に無いだろう。いや、あってはならないのだ。それが晴海を愛した者として今できることだろう。

「いや、晴海のことはもういい」

 同時に、僕は僕の人生を歩みださなければならない。それが、晴海が愛してくれた者として今できることだろう。

「替の話をしてくれ」

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