第31話 寿観29年7月7日
フルニトラゼパムを飲んでベッドに入った後、安藤にメールした。
――僕への誘いは聞いた。今は兎に角、まず替のことをもっと知りたい。
そんな短い文一つで、明日になれば肩の荷が下ろせていると思った。言わば独り言に近かった。
だが、即座に生きた安藤からの返信が僕の心を掻き乱した。
――了解です。替ちゃんの日記が見つかりましたので、持っていきますね。彼女自身の遺書のような内容や彼女の性格が分かる内容を含んでいます。きっと大和さんの気持ちが楽になると思いますよ。あと、僕からも一つお願いがあります。金曜日にそちらのお宅に向かいますので、よろしければ門で出迎えてくれませんか。返信はしなくて大丈夫ですよ。どうなるかは楽しみにしておきますね。
読んですぐにスマホを床に転がし、布団をかぶった。
一ノ宮替の性格。
僕は彼女に興味を持っているが、その点を深く考えていなかったことに気付いた。改めて考えると、僕は在と替は見た目だけでなく、性格も似ているように思い込んでしまっていた。
瞼を閉じると、在と替が重なったイメージが浮かんだ。二人を左右に分けていく。
在は物静かで、密かに慈愛に溢れていた。
では、替は?
山羊のぬいぐるみを思い出す。ぬいぐるみ自体はしっかりとは思い出せなかったが、奈央子の言葉は思い出した。替と同じ女である彼女の推測によれば、牧場で購入され、手作りの服を着せられていた。それ程に愛されていた。
イメージ上の替がその場に正座し、ぬいぐるみを抱きしめた。俯いており、顔は見えない。声も聞こえない。
もっと想像を広げようとしたが、薬効が襲ってきて深い眠りに落ちた。
翌朝、異様に気持ちよく目が覚めた。
全ての色が目に痛い程に鮮やかに見えた。裏鍛鍛冶屋に行くとそれは顕著になった。
見知った人間がすぐに認識できなかったのだ。
人間に対してだけでなく、自分の行動についてもそうだった。
仕事は既にやり慣れているから難なくできる。しかし、驚きがあった。
パソコン上に表示された金額一つ一つが当然のものと受け入れられるのに、摩訶不思議にも思えた。梱包も難なくできたが、自分の包み方が不安になった。HPの更新も勿論容易くできた。更新された画面を見て、ホームページ自体を初めて見た気がした。
周囲から見ても僕は可笑しかったらしい。僕の知らぬ間にそれは村中の話題になっていたらしく、外回りをしていた父にも伝わっていた。
定時三十分前、仁子が肩を突いてきた。思わず身を引くと、仁子はきょとんとしていた。当然だ。普段なら、「どうしましたか」と優しく尋ねてあげていたのだから。
誤魔化しの言葉を考えるも、先に仁子がしょげた目で僕を見た。
窯次郎が首を突っ込んできた。
「信濃さんに聞いたわ。金曜に桜刃組が来る時、鹿村の家でも話するんやろ」
僕は何とか肯き、話を引き出そうとした。
「聞いたことはそれだけですか?」
もし、桜刃組に僕が入るかもしれないことまでも知れわたっていたら、パニックが起きるだろう。
幸いなことに窯次郎は不思議そうに瞬いて、顎を掻くだけだった。
「信濃さん、今でも桜刃組好きやからなあ、もてなしたいって、ごねたんやってな。大和君も桜刃組の相手せなあかんのやろ」
仁子が、もーと唸って喋り出した。
「来年には大和君は裏鍛家に入るんやし、そういうんは勘弁してほしいわ。いい加減、子離れしてほしいなあ」
仁子が僕の肩を擦った。意識してそれを受け入れる。
父の嘘が露見しないように、僕は困ってみせた。
「まあ、そうですね。前回は仕方が無かったけど、今回はちょっと上手く呑み込めてないんですよ」
「見たら分かるわあ。大和君、お義母さんに相談してくれても良かったんやで?」
仁子の円らな瞳を見て、何故かトイプードルが浮かんだ。それを隠しながら微笑みかける。
「余計な心配をかけたくなかったんです」
仁子のふっくらとした指が僕の肩をなぞった。
「優しいんやからあ」
窯次郎がうんうんと肯いた。
「でも、そろそろもうちょっと遠慮せんでええねんで」
「そんな。婿としてもご迷惑はかけられませんよ」
自分の口から飛び出した如何にも誠実そうな声がやけに耳についた。
目の前の二人は安堵しているように見えた。外面的には僕は普段通りの僕であるらしい。そのことに僕も安堵した。
帰宅するまで同じ調子で取り繕い続けた。不思議な感覚は今日限りのものだと勝手に決めつけた。
しかし、僕はこの日から毎日、妙な新鮮さを覚え続けることになった。
無論、対処の仕方は分かっていたから、不自然に思う人はもういないようだった。それは有難かったが、毎日どっぷりと疲れた。食事と風呂をさっさと済ませて、フルニトラゼパムを普段より早く飲むようになった。
結局、替のことについて深く考えることを一切せずに金曜日を迎えてしまった。
安藤は十時頃に着く予定だった。
僕は焦燥感に駆られ早めに起きたが、真面な思考はできなかった。かといって、父に話しかける気力も無かった。
父も父で九時頃まで亜久里と寝室に籠っていた。どうせ性交を繰り返していたのだろう。
九時になって漸く二人は用意を始めた。父は妙に張り切っていた。僕らの服を選んだ後、念入りに掃除しようと言い出した。
僕は門周りの掃除を買って出た。何となく一人になりたかったからだ。
父は車が見えたらすぐ伝えるように言ってきた。真面目な返事をしてやり、さっさと家を出た。
わざとゆっくりと丁寧に掃除した。それでも時間が余った。掃除用具を納屋に片付けて、門に凭れ掛かった。暫くは景色を眺めていたが、何の面白みもない見飽きたそれに堪えられる筈も無く、スマホで随分前に放置していたパズルゲームをやった。
二十回程パズルを解き終わった頃、やっと車の音がした。スマホをしまって音のした方を見る。あの日と同じ黒のハイエースで心がざわついた。
父に伝えなければと思ったものの、何だか体が重くなって動かなかった。僕は自分の体に甘えて何もせずに待った。
ハイエースの運転席には三ツ矢奏がいた。髪型は前と同じ粗雑なポニーテールだった。服はスーツでなかったが、あの時と同じチョーカーをしていた。右袖だけはある奇妙な服を着ているように初めは見えた。しかし、近づくにつれ、右腕も剥き出しであることに気付いた。右腕全体にタトゥーが入れてあるのだ。
助手席にはスーツ姿の人間が座っていた。ぱっと見はEカップの女に見えたが、すぐに安藤だと分かった。
ハイエースが僕の数歩前で停車する。
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