第30話 橘清美を知る

 殆ど歯車が外れ、膜が殻になった頃――七月三日月曜日の夜だった。

 僕が一番に帰宅した。郵便受けには珍しく手書きの手紙が入っていた。

 宛先には家の住所と父の名前が、差出人としては愛媛の住所と「橘宗助」の名前があった。

 封筒は縦型であり、季節外れなことに彼岸花のイラストが刷ってあった。しかも、ぱんぱんに膨らんでいた。何となく押してみたが、どうやら紙以外は入っていないようだった。ただ、振ってみると中で何かが揺れている音がした。便せんだけでは無いらしい。封は糊できっちり閉じられていたが、シールが貼ってあった。アンティーク調の鍵が描かれたものだった。

 彼岸花と鍵から一ノ宮時也や安藤を思い出して弄ったものの、僕宛ではないから封は切らなかった。

 それに、「橘宗助」という名前は聞いたことが無かった。

 名前通りの男性だとすると、父が桜刃組にいた頃の知り合いだろうと推測できた。しかし、今までこのようなことは無かったので、不自然だ。封筒もシールも男が選んだにしては奇妙だ。

 だとすれば、偽名だ。父が昔遊んだ女の誰かか。亜久里と出会ってから他の女と遊んでいる様子は無かったので、気味が悪かった。

 まあ、どちらにせよ父の問題だ。僕には関係ない。モチーフが偶然重なっただけだ。

 父に渡すと、差出人の名前を見て真っ青になった。そして、部屋に一人で籠った。

 先に亜久里と晩御飯のオムライスを食べていると、亜久里は不安そうに僕に話しかけてきた。

「ねえねえ、あれ、誰からの手紙なん?」

「僕も知らない人だよ」

「そっか……」

 亜久里は俯いて会話を終わらせた。食べ終わった後は食器を僕に渡してから、テーブルの上に組んだ手の中に顔を付けた。

 食器を洗い終えて亜久里を見に行くと、そのままの姿勢で啜り泣いていた。

 僕は彼女の隣の席に座り、肩を撫でてやった。

 ――僕だけでなく、家庭も壊れていっていくのか。

 そんなことを思い浮かんだが、この先のことまで考えられなかった。

 オムライスが冷めきった頃、父が漸く居間に来た。

 奇怪なことに父は満面の笑みを浮かべていた。手には写真があった。

「子どもの頃の男友達からだったよ」

 父の言葉を受けて亜久里が顔を上げた。父の笑みに困惑が混じる。

「橘宗助っていうんだ。僕の父も彼の父も桜刃組にいてね。幼馴染だったし、一緒に桜刃組にいたこともあったんだ」

 父は写真を僕らに向けて置いた。

 写っていたのは寄り添い合う男女だった。

 彼女達の後ろには青々とした木々が広がっていた。だいたい男の背の高さ程の高さがあり、よく見ると緑色の丸い果実が成っていた。木々の上には青空があり、入道雲が広がっていた。

 僕がまず目を奪われたのは女の方だった。色白で、尻まである髪も茶色がかっていた。若干の癖毛らしく、絶妙なウェーブを描いていた。鼻まである前髪から覗く両目は二重で、大きくぱっちりとしている。はっきりとした顔立ちで、鼻が高く、口も大きい。困ったような控えめな笑みや男の袖を小さく掴む右手から、彼女の奥ゆかしさが伝わり好感を抱いた。少し猫背だがスタイルは良い。隣の男よりも恐らく二十センチ程度は高い。手足はほっそりとしている。Iカップはあるだろう。黄色のサマーニットが体の線に沿っており、くびれを強調していた。紺色のロングスカートが上品さを加えていた。年齢はよく分からない。あどけなさがあるが、若さが漲っている感じは無い。二十代後半から四十代あたりだろうか。

 彼女に見惚れていると、父は隣の男を指さした。

 男の方は目を細めて歯を見せて元気に笑っている為、人相がよく分からない。はっきりした二重で、色は白い方だ。髪は女よりは黒い。紺色のアロハシャツを着ている。服の趣向は子供っぽくないが、それ以外はかなり幼い。中学生ぐらいだろうか、と安易に考えた。彼が橘宗助だとすると、年齢が合わない。

 亜久里が戸惑いながら尋ねた。

「この人が宗助さん?」

「そうだよ。僕の五つ下だから、今年五十歳だね」

 亜久里と僕が驚くと、父は明るい笑い声を上げた。

「見えないよね。もう二十五年も会ってないけど、全く変わってなくて僕も驚いた。いや、寧ろ若返ってるようにさえ思うよ。昔から規格外の童顔だったけどさ」

 亜久里が女の方を指さす。

「この人は奥さんなん?」

「そうだよ。九歳下だそうだ」

「四十一歳かあ。奥さんも若く見えるわ。宗助さん程じゃないけど」

 亜久里は機嫌が戻って来たらしく、楽し気に喋り出した。

「この写真、宗助さんが小さいん? 後ろの木って蜜柑やよね?」

「そうだよ。宗助は百五十くらいだったからね。今は奥さんの家の蜜柑農家を手伝ってるそうだ」

「え、百五十もあんのん?」

「奥さんが大きいからね。百七十は越えているんじゃないかな。宗助は昔から大きい女が好きだったからなあ……」

 父は目を細めて深く息を吐いた。打ち消すように咳払いが続いた。

「実はね、彼等の子が先月に桜刃組に入ったそうだ」

 緊張した声が不思議だった。亜久里が頷きながら尋ねる。

「えー、じゃあ十代の子?」

「いや、二十四歳だ」

「ええっ」

「橘清美って子でね。今まで大学院で英文学を勉強してたんだって」

 写真の女をベースに知的な女性を思い描く。父はゆっくりと言葉を続けた。

「宗助の我儘で入れられたが、今は楽しくやってるそうだ。性格は宗助に似ているみたいだ。明るくてお喋りなムード―メーカーって所かな。安藤君や奈央子ちゃんと気が合いそうだね」

 想像の中の清美が宗助と同じく元気いっぱいの笑みを弾けさせた。嗚呼、可愛らしい。

 父はふふっと軽やかに笑うと、僕を見つめた。

「大和、提案がある」

 父の顔にもう笑みは無かった。真剣な眼差しは鋭く、僕の纏う厚い殻を突き破った。

 この先の言葉は分かっていた。いつかは向き合わねばならないことであったから。

「正確には僕だけの考えじゃないんだ。宗助と桜刃組の皆と、あと安藤君の考えだよ」

 父はそう言って、もう一度咳払いした。

「大和も桜刃組に入らないか」

 その一言で完全に殻は切り払われた。一ノ宮時也の言葉が蘇る。

 ――来いよ、桜刃組にさ。

 心音が早く大きくなっていく。

 父は無慈悲に言葉を続けた。

「人手が足りていないんだ。在君の時代になってから随分手荒な真似はしなくなったそうだし、橘清美のお蔭で空気も良いらしい。きっと大和も気に入るよ」

 あの日、口づけた替の顔を思い出した。

 彼女の死を無駄にしない為にも、僕は肯定せねばならない。他の道など無い。

 分かりきったことだ。

 しかし、思考に体はついていかなかった。僕の体は強張り、何一つ動かせなかった。

 父がまた深い息を吐く。それから、優しい声をつくった。

「今度の金曜日、安藤君と奏君が裏鍛鍛冶屋に来る。何か聞きたいことがあれば、安藤君に連絡するといい」

 残り四日。それまでに僕は決意を口にできるようにならねばならない。

 しかしながら情けないことに、桜刃組にいる自分も、桜刃組を利用して村を出た自分も一切想像できなかった。

 替のことだけが頭を占めていた。

 彼女への憐みに深く沈んだ。自力では浮き上がれそうになかった。

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