第25話 在の謝罪
在は替そっくりの顔を僕に向けて、まっすぐに僕を見つめた。柔らかそうな唇が動き出す。
「……今回のことに、貴方を巻き込んでしまってごめんなさい」
予想外のタイミングでの謝罪に頭が真っ白になった。
「貴方個人が桜刃組関係ではこれ以上傷付かないように努めましょう」
在は僕を突き放してるような気がした。遠のく慈愛に縋りつこうと思わず手を伸ばしたが、在は身を引いてその手を避けた。
「貴方にとっては、此処での生活も楽とは言えないものでしょう。辛く苦しいものなんでしょう」
在の声は穏やかに解けるように響いた。
「それでもせめて少しでも幸福があるように祈る。僕はそれ以上のことはしてあげられない」
在が立ち上がって、僕の涙と鼻水で汚れた自身の喪服を眺めた。そして、僕に手を差し伸べた。
「……洗面所に連れて行ってくれないかしら?」
僕はその温かい手を強く握って言われた通りにした。
在は洗面台でタオルを濡らして、汚物を拭きとった。この時、初めて彼が左利きであると気付いた。
「貴方も顔を洗ったら?」
僕はまたも言われた通りに動いた。在が新しいタオルで顔を拭ってくれた。義眼が見えた筈だが、嬉しいことに特に反応は無かった。
タオルが離れる時に在の左手を掴んだ。在は拒まなかったが、目を伏せた。長く濃い睫毛が頬に豪勢な影を落とす。
「替のことを覚えていてほしいと言ったけれど、取り消すね。今回のことはなるべく忘れてほしくなったの」
寂しさを感じて、手を握る力を強めた。在は振り解かなかった。ただ、寂しさが増す言葉を続けた。
「貴方には荷が重いことだった。……ごめんなさい。僕は混乱しているのね、きっと。替が薬師神子在に成り代わって、僕が処分される未来もあり得た。だから、彼女をもう一人の、あり得たかもしれない未来の自分のように思ってしまったのかな。だから、彼女に死後だけでも少しでも救いがあることを望んでしまったのでしょうね。貴方が傷付くことも考えずに」
僕と在の間に膜でもあるかのように、その声はぼやけて聞こえた。在自身にとっては膜に跳ね返されてよく聞こえているのだろう。何処か自分に言い聞かせているような趣があった。
貴方の言う通り、と在はぽつりと続けた。
「……僕も男という身勝手な獣よ」
すうっと二重瞼が上がり、無感情な二つの丸い闇が僕に向けられた。相変わらず、僕の手に対しては何のアクションも無かった。けれど、その人形の如く無機質に見える表情は拒絶を表していた。
僕は在に女らしい健気さを感じた。同時に、またも強く深い慈愛も覚えた。
在が懸念する通り、僕は替のことを覚えておけば傷付くだろう。けれども、傷付いてもなお手放してはいけないことなのだ。
桜刃組とは関係の遠い僕が覚えていなければ、替は一ノ宮時也の混沌とした計画の末の心中相手でしかない――在の代わりになる可能性しか持っていなかった女になってしまう。
もっと替のことを知りたいと思った。在が最初に身勝手に望んでしまった通り、せめて覚えておいてあげたい。その為により多くの情報が欲しくなった。
同時に、もっと在のことを知りたいと思った。与えられた慈愛を僕こそ身勝手によりいっそう求めた。
在が人形のような様相で閉ざした心を再び開きたかった。その為の言葉を探しながら口を開いた。ああとか時間稼ぎの言葉を紡いだ途端、僕と在二人きりの世界は壊れた。
「大和は何処だ!」
突然の父の声に肩が跳ね、在の左手を強く握った。在は僕の手ごと手を下ろし、僕の腹近くに寄せて離した。そして、手を軽く撫でた。
「行きましょう」
任せてくれと伝えられた気がした。在に続いて洗面台を離れて、替達が横たわる部屋に向かった。
父はその部屋の前にいた。奈央子や奏や亜久里も揃っていた。
父の顔は既に興奮で真っ赤に染まっていた。在を見て目を見開いた。
「何で濡れて」
父の言葉の途中で奈央子が勢いよく挙手した。そして、Eカップの胸を弾ませて、在と父の間に割って入った。手を上げたまま背伸びをして父に顔を近づけた。
「私めが泣きついてしまったからです! 私の涙と化粧で汚してしまったのです。今は化粧を直し、亜久里さんとお茶をして落ち着きましたけども! 実は、この西園寺奈央子は大泣きしておりました!」
揺れるシニヨンの勢いに押されたのか、父が数歩後ずさりした。しかし、奈央子と在の合間から目を眇めて僕を射抜いた。
「大和も泣いていたようだが」
僕よりも速く在が反応し、ゆっくりと話した。
「貰い泣きのようなものです。替の……女の方の事情を知って泣いてくださいました。情が深い、優しい方ですね」
父はまず初めに一瞬唖然とし、じんわりと照れ顔に移行した。
「いや、そんな……」
在は奏の方を向いた。奏は大きな黒色のリュックサックを背負っていた。在と目が合うと奏は瞬き、父に声をかけた。
「信濃さん。後は桜刃組三人だけで大丈夫です。ご迷惑をお掛けしました。どうかご家族三人ともお休みください」
父が否定の声を出すも、奏は頑なだった。
「カタギの人間にこれ以上頼りたくはありません。桜刃組だけにさせて下さい」
言葉こそへりくだっていたが、威圧的な言い方だった。父はばつが悪そうに口をもごもごとした後、亜久里を連れて僕の方へ向かってきた。
「手が必要になったら呼んで下さいね」
名残惜しげに在にそう言って、僕の腕を掴んで居間へと向かった。
居間に着くと誰ともなくダイニングテーブルのいつもの席に座った。亜久里が奈央子をもてなした後があり、仁子から貰った大福が重箱ごと置いてあった。父はその内一つをむんずと掴むと、三口で平らげてしまった。
「茶」
父の一言で亜久里が立ち上がる。僕も彼女に続こうとしたが、父の睨みで制された。
父は身を乗り出して、声を潜ませた。
「そっちの様子はどうだった?」
「……さっき奈央子ちゃんが言ったことぐらいだよ」
つまらなそうな相槌が返ってきた。多分、本当は自分の不機嫌の理由を言いたいのだろう。気をきかせて話を振ってやることにした。
「そっちはどうだった?」
父の鼻の孔が膨らんだ。
「酷かったよ。奏君が万事あの調子でね。桜刃組にかつていた者としては今の状況が気になるんだけど、一切話してくれない。その癖、一ノ宮と僕の関係や一ノ宮の死に場所についてはやけに聞いてくる」
大袈裟な溜息が僕の前髪を揺らした。
「あの子は人に壁をつくる。焔君もそうだったけど、あの子みたいに突き放す感じじゃなかった。善良な人間の振りをして柔軟だったからね。それに在君相手だとあからさまに壁が無かったし。微笑ましいものだった。でも、あの子はつっけんどんだ。疲れたよ。これから大丈夫なんだろうか」
父は熱心に心配した。村民達の好奇心とはまた別の、自分も今もなお桜刃組の人間であるかのような振る舞いだった。僕にとっては不愉快だった。この場から逃げることにした。
「やっぱり何かできないか、聞いてくるよ。不安になってきた」
奈央子ちゃんがね、とお節介そうに呟いてみせると、父は喜んだ。僕の心のうちさえ推し量れない状態だと分かると心細くなった。
今の父を見てられないという理由だけで在達いる部屋に向かう僕の足は重かった。自然とゆっくり静かに歩くことになった。
部屋まであと二十歩程の所で聞こえて来た声に足を止めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます