第24話 ミサンドリー

 あまりにもインモラルで突飛な話に僕は狼狽えた。しかし、在の双眸と両手は僕の思考を逃してはくれなかった。

「僕にとって、一ノ宮替は自分の立場を脅かし続けていた存在なの。そうとしか考えられない。そして、彼女にとって僕は……貴方が言ったように不自由な生活を強いられる理由であり、いつか破棄すべき存在だった。僕らが互いに優しさや思いやりを持つことはできないの。……例え望んだとしても」

 だから、と在は僕の右手を両手で包んだまま肩から離した。そのまま自分の胸の前に持っていき、僕に頭を下げた。白い項が見えた。よく見ると襟と肌の境目には火傷痕のようなものがあり、それが背中に続いていることを予感させた。彼もまた不自由で過酷な人生を辿って来たのだろう。

「貴方に――桜刃組の事情とは関係なく、背景の知らない状態で替を思ってくれた貴方に彼女を覚えていてほしい」

 男としか判断しようのない低い声が不似合いな女性的な儚さをもって響いた。僕の神経は収縮し、初夏であるのに雪のような冷たさを背中に感じさせた。

 返事の無いことをどう思ったのか、在はゆっくりと顔を上げて上目遣いに僕を見た。

 彼の眉は切なげに下げられ、近寄りがたいまでの美貌に親しみやすさが加わっていた。

「身勝手な願いだとは分かっているの」

 替と全く同じと言っても差し支えの無い唇が柔らかく動き続けた。

「ただでさえ、貴方には怖い思いを」

 在の言葉はそこで途切れた。僕が中腰の体勢を保てず、へたり込んだからだ。

 頭の中で在の言葉が反響する。


 怖い。


 夢の中の替の声がはっきりと聞こえる。


 ――怖いの。


 その一言が鍵であったように、僕の体のあらゆる部分が弛緩し始めた。

 目の前の在が目を丸くして、僕の手を放した。重力に従って落ちる右手は氷水の中に放り込まれたかのように急速に冷たくなっていく。

 嗚呼、温もりをくれ。

 僕の意思とは関係なく視界は滲んでいった。上半身は重く、前へと倒れ込む。

 在の体が僕を支えた。視界は彼の喪服の黒に覆われた。彼の大きな手が僕の背を擦る。それによって温もりが与えられるが、足りなかった。

 もっと求めようと、彼の首筋に額を当てた。じんわりと温もりを感じ、漸く改めて理解した。


 僕は、――怖かったのだ。


 突然現れた屍が。

 過酷な人生を決められた挙句に殺された替が。

 奇怪な思想を抱いて替の人生を支配して心中した一ノ宮時也が。

 二人の死を前にして桜刃組の存在に興奮する父が。

 その興奮を性欲に変換して暴れる父の背中で踊る鬼子母神が。

 そんな父を受け入れる亜久里が。

 僕達を受け入れる煤谷村が。

 僕の人生をこの村にくくり付けた裏鍛家が。

 裏鍛家の頂点であり、十一年前の惨劇に始末をつけた刀太郎が。

 十一年前の惨劇自体が。

 十一年前に惨劇を起こして刀太郎の動きを予測し、僕を得た針依が。

 針依の意のままに操られた後に壮絶な自殺を遂げた米子が。

 針依と米子に傷付けられて狂ったのに正気に戻って、村から僕をおいて逃げた晴海が。

 十一年前の惨劇を知りつつも針依と僕の結婚を歓迎する村民達が。

 針依と僕の性生活を応援する無神経な男共が。

 娘の針依との婚前交渉を促す針夫が。

 全てを了解して無力な癖に慈愛を見せる仁子が。

 全てを了解して僕を嫌う槌男が。

 僕の人生と村を振り回す桜刃組が。

 僕と同じく桜刃組に人生を翻弄されながらも表社会で大人の男になった焔が。

 焔のことをわざわざ知らせに来て僕を掻き乱した安藤が。

 焔の従弟でありながらアウトローで冷静に死に対処する奏が。

 裏社会の人間の癖に泣いて一ノ宮時也の人間性を知らしめた奈央子が。

 

 そして、桜刃組の組長でありながら、僕や替を温かく思いやる在が。


 全てが怖かった。


「僕は、怖かったんだ」

 在はそうと優しく相槌を打って僕を受け止め続けた。それが僕の心を奥底まで解放した。

 涙が零れだした。

 在は一度首を動かした。奈央子が部屋を出て行った音がした。

 嗚呼、在は僕のことをよく理解しているのだ。女の前で泣くのは恥だと普段なら判断する男だと知ってくれているのだ。

 その優しさや体温から強烈な慈愛を覚えた。

 すっぽりと体が包み込まれ、赤子に戻ったかのような気さえして、僕はただ全てを溢れ出させた。

 涙も、嗚咽も、鼻水も垂れ流した。

 嫌な記憶をも吐き出した。

 思いつくまま、時系列もばらばらに言葉にした。在は相槌を打つだけでなく、ちゃんと理解しようとしてくれて、分からない箇所は尋ねてきた。そうされると、溜め続けていた記憶が浄化されて、もう二度と思い返さない場所に捨てていける気がした。その錯覚が更に深く潜ませていた別の記憶を掘り出していくのだった。

「お父さんが、僕の前ではお父さんなんだ」

 自分が自分を置き去りにして、喋り方さえも嫌な記憶の時点に戻っていく。在は変わらない調子で話を聞いてくれる。

「子どもを育み、家庭を維持する役割のこと?」

「うん。お父さんはぼくにはお母さんがいないといけないと思ってて」

「そう」

「家に女の人を連れて来るの。女の人はぼくの前ではお母さんを頑張るの」

「貴方を育み、家庭的に振舞うの?」

「うん。僕を子どもとして愛してくれるんだ。でも、僕が眠ると違うの」

「どうなるの?」

 自分しか知らなかった心の奥底の傷の瘡蓋をめくって見せる。それは難しく辛い事であり、在にしがみついた。

「お父さんの玩具になるんだ。お父さんが玩具として女の人を扱うんだ」

 網膜に焼き付いては消えない扉の間から覗き見た景色がまざまざと浮かび上がる。

「お父さんは性欲に支配されて獣みたいにセックスするんだ。背中の鬼子母神様が踊っているように見えるくらい激しく動くんだよ。女の人の快楽なんて無視した、只の暴力なんだ。それが女の人の心を壊してしまうんだ。お母さんなんてできないようにするんだ」

「……大変ね」

 在は僕を擦るのを止めて、抱きしめた。在はそれ以上の言葉を重ねなかった。自分のものなのか彼のものなのか分からない鼓動が身を震わし、僕の口の動きを促した。

「ぼくは、その時のお父さんじゃない鹿村信濃が怖かった」

 だから、と半ば無意識的に言葉が続いた。

「ぼくは男が嫌いなんだ」

 在は相槌を返さなかった。いや、僕の言葉が続き、挟む合間が無くなってしまったのかもしれない。

「男はどれだけ格好つけても、皆中身は身勝手で我儘な性欲と暴力の獣なんだ」

 在にしっかりと聞いてほしくて、しがみついた手の力を強くする。

「男の本能のままの行動は女を簡単に傷付けるんだ。女は慈愛があって優しいのに」

 在は同意も否定もしなかった。ただ、僕の肩を両手で軽く掴んだ。そして、上半身が離れた。彼に触れていた部分が急速に冷えていった。

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