第21話 鬼子母神の息子と白雪姫
覚醒する。左の眼窩の周りを撫で回されていることに気付いて、羞恥が体を貫いた。体を起こして、その手が引っ込んだ方を見る。
ネグリジェを着た針依がいた。
すっぴんの顔には笑みがあった。
慈愛は一切ない。独占欲から来る傲慢さだけがあった。
それで、針依が僕の左目を貫いたことを未だ後悔していないことを確信した。
こいつにとっては全て計算通りなのだ。
邪魔な晴海を排除し、僕を不自由な人間にした。裏鍛刀太郎に罪悪感を負わせた。彼が裏鍛家の悪名が広がらないように動き、僕に償いとして人生を用意してやるのを見越していたのだ。針依自身があの事件以降人が変わったように落ち着き、僕を純粋に愛し続けている姿勢を見せれば、刀太郎が「裏鍛家の一人娘である針依の婿」という堅い地位に僕を押し込むことを想定していたのだ。
あの日の針依の言葉が浮かんだ。
――大和君が私だけにしか合わないようにしたらいいんや。
こいつはそれを言い放った直前にこの未来を見越していたのだ。
ある程度は推測していたことだった。けれども、こうもはっきりと確信させられるとなると、辛くて仕方がなかった。
肺に入ってくる空気が棘を刺す。全神経が委縮する。脳は思考を試みるも、真っ白に塗り潰されて動きが鈍くなっていく。舌は重くなり、口腔も鼻腔も渇いていく。
針依が表情を柔らかにして、時計を指さした。
「まだ十五分あるわ」
顔こそ上手く取り繕っていたが、声と指先は震えていた。それで僕が如何様な表情を浮かべてしまっているかに気付いて、慌てて気の良さそうな笑みを貼り付けた。
「いや、もう帰るよ。食後の薬も飲まないといけないし」
自分でも感心するほど真面な建前を述べると、針依は両手を胸の前で重ね合わせて俯いた。フリルが豪勢に付いた真っ白なネグリジェに本性と同じく黒い髪が這っていた。
部屋を見回すと、キャビネットの上に僕の服が置いてあるのを見つけた。急いでそれに着替えて、義眼をティッシュごとワイシャツの胸ポケットに突っ込んだ。バスローブを畳んで抱えて立ち上がると、針依が顔を上げた。
「待って」
目を潤ませて縋りつこうと腕を伸ばして来た。僕は扉へと向かって逃れた。
「抗うつ剤がきれてきて、苦しいんだ。おやすみ」
針依の返事を聞く前に部屋を出た。粗雑な扱いに彼女は不快になるだろう。明後日土曜日にこの村に再び戻ってきて、僕に過剰に甘えることが安易に予想できた。何かしらの代償が求められるだろうが、今は考える気も起らなかった。
無言で裏鍛家を出ていく心づもりだったが、玄関で靴を履いている時に仁子がやってきた。
仁子は箱を包んだ風呂敷を持っていた。僕が彼女に気付くと、夫の針夫と同じようにずいとそれを突き出した。
「豆大福つくったんや。甘いもの食べると落ち着くやろ? 桜刃組のことが終わったら食べえ」
仁子は乳液を塗ったばかりのようで、玄関の橙色の灯りに丸い頬がつやつやと光っていた。
僕は風呂敷を受け取って、短く礼をした。一刻も早く裏鍛家から離れたかったので、別れの挨拶を続けて踵を返した。
「待って。ちょっと聞いてえや」
その声には慈愛があった。思わず進みかけた足を戻した。しかし、振り返る気力は無かった。
仁子は気にせず、僕の背中に向かって温かく話しかけた。
「大和君には感謝しとる。しきれん程や。……私は……私個人は大和君の味方でいたいんや。……力になれるとは言い切れん。できることも少ないかもしれん。けれども、頼って欲しいんや!」
慈愛の発露を受けて、抱き着きたい衝動が生じた。しかし、そうすることはできない。裏鍛家の嫁に頼ることはできない。
震えて不安定な音程になりそうな声を懸命に制御し、簡素に形ばかりの感謝と別れを告げて裏鍛家を出た。
裏鍛家の敷地から両足が出た途端、箱を両手で抱えて全速力で走った。
月夜の中、湿った空気が邪魔するように重く纏わりついた。
ザアザアザアザアと風が木々を震わせた。その音を聞きたくなくて、叫びたくなったが歯を噛み締めて一目散に家を目指した。
漸く帰ったものの、誰も迎え入れてくれなかった。勢いそのままに靴を脱ぎ棄て、父と亜久里の寝室に向かった。
その扉に耳をつければ、亜久里の嬌声と肉同士がぶつかる音が聞こえた。
扉の先で踊っているだろう鬼子母神に急速に安心した。途端、俯瞰的に現状を見下ろし、自身の奇怪さを嘲った。
重箱を居間のテーブルに置き、風呂場に向かった。
隅々まで洗い流して、水分を残らず乾かした。歯茎から血が出る程に丹念に歯を磨いた。義眼も洗浄液で丁寧に洗って嵌め込んだ。
鏡に映った右目も義眼の左目と同様に生気が無かった。気味悪く思い、いつも通りに前髪で左目を隠した。
自室に戻って灰色のTシャツと黒のスキニージーンズに着替えた。抗うつ剤を手に出して、台所に向かった。
胃に抗うつ剤を落とし込んでも、特に気分は変わらなかった。
台所から居間の時計を見れば、十時を示していた。
一時間だけでも眠ろうと自室のベッドに横になったが、落ち着くことは無かった。結局、机の上に置いていた読みかけの文庫本――谷崎潤一郎の「卍」を手に屍達の部屋に入った。
蛍光灯に照らされた屍は朝よりも色褪せている気がした。見慣れただけかもしれないが。何となく女の傍らの壁に凭れ掛かって座った。
さあ読もうと紅色の表紙を見て反射的に、女の頬とその色を比較してしまった。途端、僕の注意はこの不幸な女にしか向かなくなった。
文庫を床に置き、女に近付いた。いつの間にか僕の指はその頬をなぞっていた。その指の動きを目で追ったら、今度は抱きしめてしまっていた。
温もりの失せきった屍の筈なのに、何だか熱い心地がした。いや、僕の心が燃えだしたのだ。
愛おしさとも寂しさとも悲しさとも区別のつかない妙な激情が身を貫いた。
夢で聞いた彼女の言葉を思い出した。
――こあいの。
僕の今の感情もその言葉で表せる気がした。
「こあいの」
口に出してみると、崖っぷちに立たされたかのような不安定さが突如襲ってきた。彼女にしがみついてやり過ごそうとした。
はち切れんばかりに暴れる心臓が僕の体と彼女の体を揺らしているように感じた。
意図的に呼吸の速度を落としてみると、ふうと吐いた僕の息が彼女の長い黒髪を揺らした。乱してしまったそれを撫でつける。手入れがよくいきとどいた髪は持ち主が死してなおしなやかな手触りだった。思わず手櫛を繰り返せば、寂寥さが増した。
彼女の生涯は親や他人に振り回され、自由意志など無いに等しいものだったのだろう。――それは僕も同じだ。彼女はきっと僕の唯一の理解者になってくれただろう。
彼女と僕との境界が曖昧になっていく。
桜刃組の都合で命を断たされた彼女と、針依の都合で将来が確定している僕。二人に何の違いがあるのだろう。ならば、僕にとって生も死も等しく虚しいものではないだろうか。
生と死の境界が曖昧になっていく。
思考が深い闇の中へと堕ちていく。
理性が思考にブレーキをかけようとするも、思考が理性を嘲る。
「大和! 何処だ!」
父の大声によって漸く思考が打ち切られ、自分の異常行動を恥じた。露呈しないように彼女を元の位置に戻す。
文庫を掴んで部屋を出ると真っ赤な顔の父がいた。つりあがった目に身が竦んだ。
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