第13話 寿観18年の惨劇(2)

「この売女が! 亡くなってもうた一郎に申し訳ねえとは思わねえのか! 一郎が草葉の陰で泣いておるわ! よくも市橋を穢しよって! よくも針依ちゃんの思い人を穢しよって! よくも煤谷村を穢しよって! この淫乱が! 詫びろ! 償え!」

 盆の中頃、米子は鬼のような形相で杖を振り回して声を荒げていた。仁王立ちしている彼女の足元では晴海が土下座をしていた。

 僕は市橋家に着いた時、激しい物音はするもののドアベルを鳴らしても誰も出て来ず、不審に思ってドアノブに手を掛けた。ドアは呆気なく開き、米子の怒声を聞いてリビングまで行った。そしたら、上述のカオスに出くわして、体が動かなかった。

 そこにいたのは彼女達二人だけではなく、裏鍛針依もいた。まだ十一歳だった針依は千枚通しを握っていた。その刃は真っ赤に染まっていた。針依が僕へと一歩踏み出すと、膝丈の白いワンピースが揺れた。

 僕はそれで漸く脳を動かすことができ、晴海に駆け寄った。同時に、僕が来たことで彼女も米子も停止して僕を見ていたことを気付いた。その顔は異様に無表情だった。

 晴海の隣に座り込み、彼女の上半身を抱き立たせた。そして、膝やら右胸やら腹やらに赤い点を見て取れた。すぐに千枚通しで刺されたのだと分かった。彼女は体の力が入らないらしく、ぐたりと僕に凭れ掛かった。

「いったいどうしたんだ」

 僕が聞くと、彼女の息が荒くなった。目は見開かれ、顔は紅に染まっていた。体が痙攣を始めた。

 ――ダン。ダンダンダン。

 突然の鈍い音がし、その方向を見ると針依がいた。針依は目が合うと再度地団駄を繰り返した。

 裏鍛家の一人娘がこんなことをしたのか? 如何に甘やかされて育ってきたとはいえ子どもがこんなことが出来るのか?

 僕が混乱しきっていると、米子が晴海の腹を杖で叩きつけた。彼女の体越しにその強烈な衝撃が伝わった。

 米子は肩で息をしながら全てを緊張させて僕達を見下ろしていた。

「米子さん、止めて下さい。晴海は怪我をしているんですよ!」

 僕の言葉を掻き消すようにダンと地団駄がした。

 米子が晴海の膝を繰り返し踏みつけた。ベージュのチノパンにあった赤い点が広がっていった。

 米子が足を引いたと同時に、僕は晴海を伏せさせて上に覆いかぶさった。すぐにでもこうすれば良かったと後悔を抱きながら米子を見上げた。

 その目には涙の膜が張りつつあった。唇もわなわなと震え出した。

 ――ダンダンダンダンダンダンダンダンダンダン。

 地団駄を聞き、米子は上に向かって雄たけびをあげた。そして、真っ赤な顔を僕に向けた。見開かれた目は虚ろであり、涙が落ちた。

「私は煤谷村の市橋の女主人や! 亡くなってもうた市橋の者達の為に、村を守らねばならねえ! この淫魔を嫁にしてしまった以上、私が責任をとって退治せねばならねえ! 退けや、鹿村大和! 余所者のお前には何ぞ関係ありやせん!」

 米子の言葉は僕に向けられていないように聞こえた。米子はまるで舞台上の役者のように台詞をなぞっているようだった。

 だとすれば、観客は針依だ。

 針依を見ると、彼女は大きな口をにたりと吊り上げ、細長の目を糸のように細くした。そして、ダダダダダダダダダダとやけに音を立てて僕に走り寄って来た。僕の数歩手前で急に止まった。白いワンピースが広がった。

 針依は千枚通しを隠すように両手を肥えた体の後ろにやった。そして、赤子のようなはち切れんばかりに丸々とした顔を僕に向けた。薄い唇を窄ませてもじもじと悶えた後、瞬きを繰り返して僕を見つめた。

「ねえ、大和君。大和君も米子さんと同じやの。この女にだまされているんよ」

 わざと甘く高くつくったいつも通りの喋り方にぞぞげだった。それから、米子が言わされていた言葉を無意識に繰り返してしまっていた。

「……針依ちゃんの思い人」

 針依は頬を下品に赤くし、唇の下に拳を二つくっつけた。キャアキャアと叫びながら、ドスンドスンと飛び跳ねた。血に染まった千枚通しがきらきらと表情を変えた。

「ばれちゃった。ばれちゃった。針依ね、本当はちゃんと告白するつもりやったんよ。ダイエットして、見違えるようにキレイになって、おケショーも覚えて満開の桜の下で、ハートのシール貼ったラブレター渡したかったんよ。なのに、晴海ってヒドいヤツ」

 晴海が僕の下でびくりと震えた。針依が舌打ちした。

「おっきいお胸とお尻で大和君をユーワクして、米子さんをセンノーして堂々とフリンしたんやよ。あかんやろ? だから、米子さんとセーバイしてるんの! 大和君はどいてえや」

 は、と鋭い息が僕の喉から零れた。呼吸が早くなっていったので、一旦息を止める。冷静になろうと、状況を整理する。針依の言っていることは当てにならない。洗脳――いや恫喝して米子を従わせて、晴海を傷付けさせているのだ。恫喝はきっと千枚通しで晴海を刺したことだ。針依自身が暴れたら晴海を殺しかねないと思って、米子はあえて加害者になったのだろう。

 僕は米子に慈愛を感じて彼女を見た。彼女はいつの間にやらその場に腰を下ろしていた。そして、壊れたように無表情で涙を溢し続けていた。彼女の心に刻みつけられた傷が見えるようだった。

 ダンダンダンダンダンと地団駄が響いた。

 米子ははっとし、キエエエエと金切り声を上げて震えながら立ち上がった。

 痛ましかった。晴海も辛いらしく、嗚咽を噛み殺したようなくぐもった声を上げた。

 ――晴海と米子を幸せにする。

 かつての己の宣言を思い出し、僕は晴海を睨みつけた。男として声をめいっぱい低くして張り上げた。

「悪いのは針依、お前一人だ! お前こそ退け! お前こそ詫びろ! 晴海と米子さんを……僕の大事な家族を傷付けて許さないぞ!」

 針依は家族と鸚鵡返しして、目をしばたたかせた。

「そうだ! 二人は僕の家族だ! 僕はもうすぐ晴海と結婚するんだ! 不倫なんかじゃない! 市橋家の未亡人と結婚を前提に付き合っているだけだ!」

 針依はケッコンと数えきれない程繰り返して、地団駄を踏んだ。

「何それ何それ何それ何それ何それ! 大和君は針依とケッコンするんやよ!」

「する訳無いだろ!」

「針依とケッコンするから、これまで他の女と付き合っても許してあげてたんやよ? 針依のために女の扱いを学んでいることやって受け入れてあげてたんよ? 針依が十六になるまではゆるしてあげようとしてたんやよ? きっしょいおばさんにだまされてフリンなんかしちゃったのはダメやけど。それまでは針依、いっぱいいーっぱいガマンしてあげてたんよ?」

 初めて聞く事柄に吐き気がした。

 そもそも、僕は針依と数える程しか喋ったことが無かった。しかも、十歳も年下だ。女として見たことも無かった。村中から甘やかされている子どもとしか認識していなかった。針依から恋愛感情を向けられていることを想像したことさえなかった。勿論、熱い眼差しは多少感じていたが、それは年上のお兄さんへの可愛らしい憧れに過ぎないと考えていた。

 針依の自己完結具合に、押しつけがましさにいっそう憤怒した。

「お前なんかに恋する訳ないだろ!」

「何でえ!」

「お前みたいな」

 晴海が止めてと叫んだが僕は止まらなかった。

「お前みたいな身も心も肥え太ったブスの暴力馬鹿なんか好きになるものか!」

 針依がギエエエエと汚い悲鳴を上げた。部屋全体が揺れていると錯覚するほどにその声は大きかった。その後に針依は俯いて、地団駄をした。

 ――ダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダンダン。

 床を踏み抜こうとしているかのように、今までよりもいっそう激しかった。

 それは突然止んだ。

「大和君が私だけにしか合わないようにしたらいいんや」

 黒髪のボブの下から低い呟きが零れた。

 次のアクションを警戒して、晴海を強く抱き伏せた。しかし、顔は針依を見上げ続けた。

 針依はゆっくりと静かに歩いた。その顔には打って変わってご機嫌な笑みが浮かんでいた。僕の前に来ると腰を下ろして、僕に目線を合わせた。

 晴海の肩を握っていた手の力を強くした。

 針依は勢いよく千枚通しを振り上げた。その行く先を邪魔しようと晴海から手を放した途端、千枚通しは意図しなかった方向に動いた。

 晴海を刺すには左上に逸れている。何故だと考えた途端、意識が途切れた。

 針依の行動の結果が分かったのは、それより二日後のことだった。

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