第12話 寿観18年の惨劇(1)

 十一年前――寿観十八年の盆のあの惨劇が脳裏にまざまざと浮かんでいく。


 僕はその時大学三回生だった。大阪に住んでいたが、休日にはわざわざ村に戻って来ていた。

 目当ては三歳年上の恋人である市橋晴海だった。

 晴海は十七年の夏に市橋家に嫁いできた女だ。十歳以上年上の夫の一郎いちろうは十八年の初めに急逝した。市橋家には晴海と姑の米子よねこだけになった。米子は元々足腰が弱っていたが、息子の死で一気に老け込み、介護が必要な状態になった。晴海は貯金を切り崩しながら米子の面倒を見ていた。村外のデイサービスを利用する時だけが晴海の自由時間だった。

 十八年の春、滅多に村に戻らなかった僕が気まぐれに村で散歩している時、限られた自由を謳歌していた彼女と出会った。

 互いに一目惚れだった。畦道で言葉を交わしてから、誰もいない市橋家で交わるのに時間は掛からなかった。

 露になった裸体は美しかった。雪のような肌はピンと張りがあった。彼女自身は大きくて恥ずかしいと言っていたEカップの胸も垂れることなく、大きな尻もしっかりと上がっていた。手足も腹も程よく女性らしく肉がついていて、抱き心地が良かった。

 事後、彼女は僕の頭を撫でながら、目尻の下がった黒目がちな目で僕を見つめた。

「また会いに来て」

 ぷるんとした唇から零れた京都訛りが残った小さな声は僕を虜にした。

 僕は休日の度に彼女に会いに行った。その度に彼女は顔いっぱいに喜んで僕を迎え入れた。

 晴海は出来た女だった。女らしくお喋りだったが、姑や夫の悪口はけして言わなかった。それどころか、慈愛に溢れていて彼女達を褒めさえした。僕よりも疲れているだろうに、僕を労わって存分に甘やかしてくれた。

 米子も彼女と仲が良く、僕との関係を知ってしまった時も「晴海さんにはそれくらいの息抜きも必要やろう」と快く認めて黙っていてくれた。

 目敏い村民達も気付いていたらしいが、何も言わなかった。僕と晴海が友人の振りして二人で歩いていると、「年が近いから話が合うんやね」などと機嫌よさげに囃し立てた。

 その年の六月の初め、市橋家で米子と晴海と共に昼食を食べていた。宅配便が来て、晴海が席を立った折、米子が向かいに座る僕を手招きした。

 隣まで言ってしゃがむと、米子は囁いた。

「大和君、大学卒業したら、晴海を嫁にもらってくれへんか」

 驚いて米子に問い返すと、米子は皺に埋もれた小さな目に涙を浮かべた。

「あんな良い女が私なんかに……亡くなってもうた一郎に縛られてんのは忍びない」

「晴海は貴女を好いていますよ」

「分かっとる。分かっとるんや」

 米子はぽろぽろと涙を流した。ハンカチを差し出すと手の甲で拭った。

「晴海にも言うたが、市橋の嫁やと聞かんのや。あんたと別れるとまで言い出した」

 うちには分かると米子は俯いた。

「本当は女として男に愛されたいんや。それが女の幸せや。女の本能なんや。女やったら誰でも分かることや。だから晴海はあんたを求めてしもうた。晴海には私にもあんたにも見せん所で苦しんどる。間違っとらんのに、自分を責めとる。解き放ってやりたいんや」

 米子は鼻をすすって僕を見上げた。

「あんたにはそれができる。結婚して、この村から離れて、市橋を忘れるまで愛してやってくれ。晴海を幸せにしてやってくれ」

 米子の熱にあてられてそうになったが、首を振って彼女の肩を掴んで顔を合わせた。

「晴海が愛する貴女を一人にはできません」

 いかんと米子は叫んだ。

「市橋の私がいてはいかん。幸い、金はある。老人ホームに入るわ」

 頼むと米子は震える手で力いっぱい僕の肩を掴んだ。

「本当は一郎が亡くなってもうた時にそうすべきやった。晴海に、優しい晴海に甘えてしもうたのがいかんかった。私は市橋の死に損ないとしてすべきことをするだけや」

 悲しい言葉に僕も泣かずにはいられなかった。

 戻って来た晴海は泣いている僕達に驚き、抱えていた段ボールを落とした。

「どうしたの、二人とも」

 晴海が胸の下まである鴉の濡れ羽色のポニーテールを振り乱しながら僕達に駆け寄ると、米子は崩れ落ちるように僕から晴海に抱き着いた。そして、嗚咽混じりに叫んだ。

「大和君と幸せになってくれ! 市橋を忘れてくれ!」

 晴海は目を見開き、大粒の涙を溢した。

「できる訳ないじゃない! ……お義母さん、大和君、ごめんなさい。私が弱いばかりに苦しめてしまって……」

 そこからは言葉に出来なかったらしく、唯、子どものようにわああと声を上げて泣いた。

 晴海がそこまで取り乱すのは初めてのことだった。市橋の嫁でありながら僕の恋人でるという二律背反に晴海自身が長く深く自責を続けていたことは想像に難くなかった。

 僕は一人の男として彼女を幸せにしたいと強く思った。苦しみの豪雨を降らせる晴海が、心の底から喜べるようにしたかった。

 涙を拭いて泣きじゃくる晴海と米子を抱きしめた。二人が戸惑って無垢な瞳で僕を見つめた。この二人が僕の新しい家族になるのだと確信した。

「僕が二人を幸せにします」

 米子が僕の襟を掴んで縋った。そして、誰よりも大きな声で泣いた。晴海はその姿を見て泣き止んだ。しゃくりを上げながら袖で涙を拭いた。

「三人で幸せになれるならどれ程いいか……」

 祈るような晴海の声に僕は応えた。

「だから、叶えるんだ」

 晴海が僕を見てあどけない動作で頷いた。そして、ぽろぽろと涙を溢した。手を伸ばしてそれを拭った。

 米子は首を横に振った。

「無理や。二人ならできる。私は要らん。市橋の人間としてこの村で死なないかん」

 米子が僕の頬を両手で掴んだ。顔中の皺という皺を寄せて涙も鼻水も唾液も零しながら懇願した。

「晴海だけを幸せにしてくれ」

 絶叫に近い祈りの言葉を紡いだ唇は二か月後正反対の言葉を吐きだした。

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