第10話 父の性依存症と僕の筆おろし

 自分のくだらない人生から逃げ出したくて目の前の事象に集中してみる。

 閉め切った部屋。面倒な事情がありそうな屍が二体。気味の悪いぬいぐるみが一つ。

 新たなトラウマになりそうではある。が、十一年前の惨劇を掻き消してはくれないだろう。来年三月の運命を変えてくれるものでもないだろう。全く無駄な事象だ。

 唐突に穢れという言葉が浮かんだ。この場に留まり続けるのは良くない。いや、既に屍達と共有している床に接している尻から嫌なエナジーに体が侵されているようにさえ感じた。

 不安になって立ち上がった。安心を得る為に唯一の肉親である父のもとに向かった。

 父達の寝室の扉をノックしようとした時、亜久里の喘ぎ声が漏れ聞こえた。

「んん……っ、激し……」

 扉が透けたように寝室内の景色が浮かんだ。

 散らされ落とされた布団と枕とごみ。乱れたシーツ。父になすがままにされている女。女陰に突き立てられたコンドームに包まれた男根。それを更に深く入れようとするかのように強引に動く腰。女が逃げぬように固定する両腕。女に向けて垂れ、体の動きに合わせて揺れる長髪。

 男の背中には鬼子母神が描かれている。鬼子母神は抱えた赤子に対して穏やかに微笑み続けている。

 吐き気が込み上げ、トイレに走った。便器の前に座り込んだ途端、晩飯や薬や胃液が飛び出した。喉に焼けるような痛みを感じながら、元が何か分からないまでに混ざりきった吐瀉物を眺めた。同時に、混沌とした幼少期が、それを形成した父が思い浮かんだ。

 父――鹿村信濃は性依存症だ。

 精神科で診断された訳でも無いが、僕はそう思っている。

 いつからそうだったのかは分からない。僕が生まれる以前からのことだろうとは思う。

 実母は僕が物心ついた頃にはいなかった。僕を生んで母になった一年後に父に愛想を尽かして出ていった。彼女は僕を連れて行きたがったようだが、父が猛反対した。その上、父は彼女を母失格だと言って、二度と僕とは会わないように誓わせた。

 僕は納得いかずに小学二年生の時に祖母に頼んで彼女に会った。彼女は既に新たな家庭を持っていた。カタギで善良な夫と、彼との間に生まれた子供達を愛していた。彼女は新しい家族を守る為に僕を拒んだ。僕自身も短い会話の間に彼女がもう僕の母ではないことを悟った。

 彼女が父に愛想を尽かした理由が父の旺盛な性欲であることを、煤谷村に来た頃に父自身の口から知らされた。

 父は肉便器としての妻を求めた。しかし、同時に僕の母を求めた。

 二つの役割を受け入れられた女はいなかった。まず、女は父と恋に落ちて体を許した後に妻となった。次に、僕に会わせられて母になることを強いられた。僕に会った時点で逃げた女もいた。ただ、殆どの女達はめいっぱい父の要望に応えようとした。僕が起きている時間は家事をして僕を愛した。そして、父が帰ってくると肉便器になった。温度差が激しい日常に女達は壊れ、父から逃げた。

 父と、母になろうとしてくれた女達は性交が僕の目に入らないように気を付けた。僕が眠っている間に声を潜ませて行っていた。

 しかし、小学校中学年の頃から僕は寝た振りをした後に性交を覗き見るようになった。寝室の扉を静かに僅かに開くと、いつも父の背中が見えた。父が僕を育て上げる決意の表明としていれた鬼子母神の刺青がそこにはあった。穏やかな鬼子母神とは正反対に父は荒々しく腰を振っていた。僕は異様な父の姿に目が離せなかった。だから、繰り返し覗き見た。

 何度か女に気付かれたことがある。大抵の女は一気に調子を崩して逃げた。ただ、小学六年生の時の女は父に負けず劣らず色情魔だった。しかし、父よりは愛情深かった。

 彼女は遊びに誘うような気軽さで僕の筆おろしを提案した。僕も興味があったので受け入れた。彼女は優しい手付きで僕と交わった。父とする時よりも大分緩やかな動きだった。事が終わった時に彼女は僕を抱きしめて囁いた。

「男なら女には優しくしてあげないと駄目よ」

 僕の頭をゆっくり撫でて彼女は言葉を続けた。

「私や信濃みたいに壊れちゃいけないし、壊しちゃいけないのよ」

 僕が肯くと、彼女は良い子と繰り返した。

 彼女のしたことはけして母としてはいけないことだろう。現に、父は僕達の密通を知るや否や彼女を追い出した。その時、僕は初めて父が女を殴るのを見た。

 僕も彼女を母として認めていない。しかし、彼女の教えのお蔭で性交が愛情表現やコミュニケーションであることを理解した。おかげで恋人達を大切に出来た。同時に、父がただ己の性欲によって女を襲う獣であることも理解した。

 僕が中学二年生の時に、亜久里が父と関係を持った。彼女もまた狂人だ。男の暴力性を愛し、男に性的に尽くすことを悦びとする。亜久里は父と別れたくなかったが、母性が全くないので母にもなれなかった。

 僕は亜久里があまり好きではなかった。

 でも、亜久里の提案は都合が良かった。

 当時、父は桜刃組に愛想を尽かしていた。足抜けしたら亜久里と共に煤谷村の裏鍛鍛冶屋で働こうと彼女は提案した。そして、僕に対して母にはなれないので姉になろうかと持ち掛けた。勿論、父は後者に納得しなかった。だから、僕が説得した。父としても母探しに疲弊しきっていたから、案外容易に受け入れた。

 父が運転する車で少ない荷物と共に煤谷村に引っ越した時、僕は嬉しかった。平穏な日々が始まるのだと胸を躍らせていた。此処が故郷だと思える日が来るのだと信じていた。

 十一年前の惨劇が起きるまでは。

 あの時の針依の地団駄を思い出して、胃液を吐いた。

 思考したくなくて、手を動かした。何回か水を流して、洗面台に向かって走った。うがいを繰り返し、顔を三度程洗った。髪を梳かしたら、自室に戻って義眼を入れて着替えた。

 兎に角複雑なことをしようと、台所に行って棚の奥に突っ込んでいた直火式ホットサンドメーカーを取り出した。思いつくまま具を作ってホットサンドをつくった。六種類できた時に漸く落ち着いてきた。

 今日の仕事のことを考えながら、三人分の朝食を用意した。

 先に食べようと腰を落ち着けた途端、二人がやってきた。

 亜久里がわざとらしく無邪気に万歳をした。

「わあい、ホットサンドや。豪華やねえ。コンビーフとチーズのんある?」

 あると応えながら、父の様子を窺った。真顔だった父は僕を見て取り繕うような微笑を見せた。上手く反応を返せずに微妙な間が生まれそうだった時、亜久里が声を弾けさせた。

「さっすがやまくん。料理が上手で気遣いもできるなんて最高やわあ」

 亜久里はスキップで僕に近付き、数度肩を撫でた。こういう気が利く所は彼女の美点だ。

 父が安堵したように表情を弛緩させ、僕の向かいの席に着いた。

「それにしても多くないか?」

 亜久里が父の隣に座り、肩で小突いた。

「美味しいものが沢山やなんて幸せやよお」

「亜久里が幸せなら良いけどさ」

 亜久里が軽い笑い声をあげて、いただきますとホットサンドに齧り付いた。

 それから数度の会話があった。今日の天気や仕事が主な内容だった。不自然なくらい早朝にあったアクシデントや今夜の不気味な予定には触れなかった。亜久里がそんなことを言わせないように道化を演じ続けていたのもあるが、父が圧力をかけていたのが大きい。

 三人で一緒に裏鍛鍛冶屋の事務所に行った後、同じように昨夜のことを秘すのだと思っていた。が、そうもいかなかった。

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