第9話 寿観25年冬・安藤巳幸との出会い(2)

 目前の女の振りをした男に言葉の刃を突き立てた。

「君なんぞに話されなくても十分に知っている。それどころか、思い出したくもないことだったんだ。帰ってくれ」

 安藤は目を丸くした後、あろうことか声を張った。

「穿った見方をしているんですよ。あんなこと、子どもだった貴方には把握しきれる筈がありません。今こそちゃんと向き合ってほしいんです。治療の一助にもなる筈です」

「他人のお前が口出しすることじゃないだろ」

 安藤が応えようとしたので、机を拳で叩いた。安藤は痙攣して口を閉じた。

「お前だって……情報屋だなんて胡乱な商売しているお前だって人に触れられたくない過去がある筈だろ。なあ、言えないことぐらいあるんだろ」

 なあと大声で喚いたら、安藤は瞬いた。それから、きっと僕を睨みつけた。

「レイプされていました。売春させられてました。言えちゃいましたよ。貴方の話はこれ以上に酷いことではありません。寧ろ、貴方の背負っているものを軽くする為に話に来ました」

 目の前の人間が分からなくなった。男だとは――社会的にも肉体的にも強者だとは思えなくなった。とても自分のことなど顧みられない。

 僕はどのような表情を浮かべていたのか、安藤はきょとんとした。そして、気まずそうに視線を彷徨わせてから僕を見つめた。

「前座として、僕のお話でもしましょうか?」

 僕は肯いた。

 安藤は己の過去を話した。個人名を出さないようにしている為か、遠回しな言い方が多かったが、惨さは嫌な程伝わった。

 幼少期に実父から虐待され、大人の男女から嬲られ、それから自身の養母から商品扱いを受けて、大人の男女両方から蹂躙された。

「僕から『青少年』という価値が無くなるまで続く筈だったでしょう。でも、ある日、母から自由を買う為の金額が提示されました。普通に考えれば無理な金額でしたから、戯言だったんでしょう。達成してきたら唖然としてましたよ。そういうことで僕は自由を得た訳です」

 安藤がそう語る頃には僕は聞き入ってしまっていた。

「これでハッピーエンドだと思いましたか?」

 素直に頷くと、安藤は悲しそうに眉を下げた。

「残念、外れです。売春から解放されても、僕はどうすればいいか分からなかった。相談しました。友人や真面な家族はいませんから、自分の体を買った客にですよ」

 最悪な状況に僕は彼に親近感を覚え始めた。しかし、彼は僕を突き放すように自分の過去の話を続けた。

 客の中に凄腕の情報屋がいた。その人と話すうちに、産褥で亡くなった実の母のことを、実父を通してからしか知らないことに気付いた。安藤は情報屋の力を借りて彼女について調べ上げた。

「不思議なもので、家族――というか自分の人生に大きく影響したことを捉え直すと落ち着きました。やってみたいことが湧いて来るようになりました。過去を踏み固めて漸く未来を見ることが出来たんです」

 安藤は僕の手を握った。そのまま何処かに連れていかれるんじゃないかと思ったが、座ったままだった。

「大和さんにも同じことをしてほしいんです」

 安藤の笑みは眩しく見えた。

「僕にはできない。今で精いっぱいなんだ」

 自分でも情けなくなる声だった。安藤は唇を尖らせた後、手を放した。

「じゃあ、要所だけお話しします。二代目桜刃組は関わった人間がおかしくなって当然のものだった。三代目桜刃組はそうではありません」

「焔を見れば分かるよ」

 焔と安藤は繰り返した。そして、バッグからタブレットを取り出した。

「四年前に会ったきりですよね。今どうなっているか知りたくないですかあ?」

 僕は肯いた。そして、写真を見せられるのを待った。

 焔のことだから、大学生になったとは言えまだあどけないのだろう。同い年の安藤ですらこれなんだから焔の方がもっと中性的だろう。今もなお在の隣で杖を振り回しているんだろう。

 そんな僕の予想は外れた。

 見せられた写真の中、焔は男らしく髪を短くしてさっぱりとしていた。道着を着て蕩けるような笑みを浮かべていた。隣にいるのは知らない男だった。彼も道着を着て、はにかんでいる。場所は日本家屋の前。玄関には木の看板がかかっていた。それで何処か分かった。焔がどうなったのかも分かってしまった。信じたくなかった。

 安藤が無慈悲に説明していく。

「今は桜刃組とは前程関わっておりません。大学が無い日は喜珠村にある実家の道場を継ぐ為にお父様について回っています。この写真のようにね」

「村では嫌われ者だと言っていたぞ。特に父から嫌われていると」

 ああ、と安藤は声をあげた。

「そうでしたよ。あの頃の焔から見れば、の話ですがね。お父様は焔から嫌われていると思って距離を置いていたんです。村の大人達はお父様が焔を疎んでると思っていたから、焔に冷たかったんです。問題は子ども達――といっても焔と同世代ぐらいの人達のことですね。彼らは大人達に合わせていたのもありますが、焔を率先して虐めていた人間が怖くて従っていただけです。それが三ツ矢巴。焔のいとこです。今ではなんと焔にメロメロの恋人関係。そんな状態で焔がお父様に歩み寄ったから、もう喜珠村に焔を嫌おうとする人はいません。それ所か慕う人ばかりです」

 事実が受け入れられず、そんなと考えも無しに口走った。安藤が勝手に僕の言葉を継いだ。

「そんなに状況が変わるなんて不思議でしょう。滑稽にさえ見えますよね。でも、ずっと傍で見ていた僕には当然のことに思えます。焔は勇気と努力をもって自分が拒絶されて拒絶していた状況に挑みました。随分と辛酸を嘗めたことも知ってます。というか、愚痴られていましたし。でも、けして諦めませんでした」

 呆然とする僕に安藤が胸を張った。

「格好いい男でしょう」

 浮いたような感覚の中、紅茶色の瞳が問いかけるように僕を見つめていた。ああ、と反射的に相槌を打った。その途端、燃えるように皮膚という皮膚が熱くなった。

 僕は猛烈に自分自身が恥ずかしくなった。

 焔と違って四年間家に籠って状況に甘えていた自分が情けなくて仕方なかった。

 顔が上げられなくなった。その後も安藤は写真を見せながら三代目桜刃組の話をしてくれた。よくは覚えていないが。

 安藤が帰って、いてもたってもいられなくなった。

 兎に角現状から進まなければならない。社会復帰せねばならない。

 でも、僕には村を出ることが考えられなかった。

 ネットで就職サイトを眺めた。自分でも働けるかもしれないという所はいくつかあった。しかし、住所を見ると途端に指が動かなくなった。

 働こうとしていることだけが村民にいつの間にか伝わった。そうして、ある日、針依の祖父であり、裏鍛家の当主であり、裏鍛鍛冶屋の代表取締役であり、村のリーダーである裏鍛刀太郎とうたろうが家にやってきた。

「婿殿には経理をやってもらいたいんやが、如何や?」

 言葉だけは提案という形を成していた。だが、わざわざ足を運んできたという行為や鋭い眼光から命令だと分かった。僕には受け入れる以外の選択肢が無かった。

 次の日には裏鍛鍛冶屋のオフィスに僕のデスクが用意されていた。僕の右隣には針依の母の仁子じんこ、左隣には針依の叔父の窯次郎かまじろうのデスクがあった。

 裏鍛家の一員とみなされながら、僕は働きだした。

 逃げ出したいと願う毎日だったが、結局今に至るまで四年間、狭苦しいデスクを前にし続けている。

 嗚呼、嫌な現実だ。

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