第8話 寿観7年・父に対するトラウマ
小学四年生の頃のことだ。
その頃は匣織市のマンションに住んでいて、小学生でも電車を使えば行ける距離に祖父母の家があった。僕は週に一度程度、一人でそこに行くのが習慣だった。二人とも歓迎してくれた。特に祖母の愛情は深くて、僕がドアベルを押せば小走りで出てきてくれた。
でも、ある日、出てくれなくなった。最初は出かけていただけだと思っていた。けれども、別の日に行っても出てくれなかった。二回目に訪れた時、何となく家全体がひっそりと生活感が無くなっているように感じた。気味が悪かった。
そこで見て見ぬ振りをすれば良かった。
父と祖父母の関係は二代目組長の時代になってから段々と悪くなっていた。そもそも最初は一緒に暮らしていたのに、あまりにも仲が悪くなったので、父は僕を連れてマンションに移ったのだ。
だから、父に聞くべきでは無かった。でも、父にしか聞けなかった。
僕は焦っていた。思慮も足りなかった。
朝になって飲んだくれて帰って来た父に真正面から聞いてしまった。
父は溜息を吐きながら、ペットボトルの焼酎をグラスに満たした。それを一気に飲み干して怒鳴り出した。
「殺してやった。今頃魚の糞にでもなってるだろ」
全身の血が沸騰したみたいに震えが止まらなかった。嘘だと叫んだ。
父は僕の声に怯んで悲しそうに顔を歪めた。しかし、それは一瞬のことであり、すぐに意識は逸れた。
グラスが派手な音を立てて割れた。
父が床に叩きつけたのだった。僕も驚いたが、父も驚いていた。訳が分からなかった。
ヒイーと父は悲鳴なのか笑い声なのか分からない声をあげて俯いた。そして、グラスの破片に焼酎をかけ始めた。まるでグラスが壊れたのが受け入れられないかのようにかけ続けた。
「仕方ないことなんだ。あいつらいつまでも昔のことを引きずってた。初代組長のことをずっと言い続けてさ。今は二代目の時代なんだぞ。ついていけずに抜けた老いぼれの癖に煩いんだよ。愚痴だけなら良かったけどさ、いや悪い。でも獏宮の親父らがさ、実行しやがったからさ、無視できなくなってさ。殺せって言われたんだ。殺すしかないじゃないか。僕は二代目組長の下で働いているんだからさ。仕方ないんだ。やるしかなかった。それ以外に道は無かった」
父の独白は不安定な音程と音量でなされていたが、ペットボトルが空になると終わった。
硝子の破片が焼酎に浸った床にペットボトルが投げ捨てられた。ペットボトルは飛沫を散らして一度跳ね、僕の足元に転がり込んできた。
父の目がそれを追った後、僕の顔へと引き寄せられた。
真っ赤な顔には怒ってるようにも悲しんでいるようにも笑っているようにも見えるぐちゃぐちゃの表情が浮かんでいた。あまりにも異様で恐ろしくて、腰を抜かした。父の目は僕の顔へと照準を合わせたまま下がった。
そして、父は微笑んだ。父性を覚えさせる優しい普段通りの表情だ。
「掃除しないと。此処もあっちの家も。僕一人じゃ無理だし、早くお母さん見つけなきゃな」
母などもう欲しくは無かったが、僕はただ頷くことしかできなかった。
トラウマだ。しかし、この瞬間までは忘れていられたものだ。心の奥底に眠っていた古傷の瘡蓋をめくりとられた。
恐怖が通り過ぎていった後、憤りがやってきた。
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