第5話 寿観21年春・三ツ矢焔との出会い(2)

 庭から彼へと視線をうつせば、息が止まりそうになった。

 その顔にあったのは先程とは全く別の微笑だった。口角は緊張がとれてゆるやかに上がっており、蝶へと向けられた瞳は柔らかく細められていた。あどけない顔立ちには似合わない程に深い慈愛がその表情から見て取れた。

 僕は幾人もの母を思い出した。父の女となり、僕の母とならねばならなくなった女達。彼女達は母としての役割を受け入れると、僕に慈愛の表情を向けて安心を与えようとしてきた。結局は父や僕との痴情のもつれで彼女達は離れていった。

 亜久里が父と関係を持った時に僕は既に中学生であり、亜久里は僕の母という役割を受け入れられなかった。代わりに僕に対しては近所のお姉さんのような役割を選んだ。思春期真っ盛りの僕には有難い選択だった。ずっとそう考えていた。けれど、本当にそうだったのだろうか?

 中学生あたりから、僕は女と関係を持つようになった。誰とも長続きはしなかったが、すぐに新たな関係を持つことはできた。幾人ものかつての恋人達の顔が浮かんだ。僕がわざと子供っぽく甘えた時に見せてくれた表情を頭の中で並べていった。そこには慈愛があった。

 勿論、僕の最後の女である市橋いちはし晴海はるみの顔もそこにはあった。

 日曜の昼下がり、デイサービスで義母の介護から解放された彼女が縁側に座っていた。僕はその柔らかな太腿を枕にしてまだ揃っていた双眸で彼女を見上げていた。彼女は慈愛いっぱいに笑って僕の頭を撫で回した。

 ――強烈な飢餓感に襲われた。

 気付けば、焔へと手を伸ばしていた。指先に意識が乗っていく。

 ――嗚呼、どうか慈愛を与えてくれ。

 ――蝶にではなく、在にではなく、この僕に与えてくれ。

 七歳も年下の少年に向けるにはあまりにも歪な感情だった。焔は異様に感じたらしく、目を丸くして僕を見た。すると、より幼く見えて慈愛は霧散した。

 僕は氷水を被せられたかのように急速に冷えていった。手を引っ込め、誤魔化しの言葉を並べようとするが、三年間真面に使われていない喉からは何も出てこなかった。

 焔は僕の奇行を無かったかのように、静かに僕を見据えて言葉を紡いだ。

「此処は素敵な所ですね。在だけでなく、桜刃組自体をも受け入れてくれている。信濃さんももう余所から来たようには見えない。敵ばかりの桜刃組には楽園のようですよ」

 彼の言葉が薄っぺらく聞こえて、僕の三年間溜め続けていた怒りが噴き上がってきた。

 焔は察したらしく、テーブルの上に重ねた手を置き、ゆっくり瞬いた。

 僕は許された気がして怒りの窯の蓋をほんの少しだけずらした。

「……僕には悪く見える」

 焔は短い相槌をした。ほう。その二文字が窯の蓋を更にずらした。

「この村は暴力を受け入れているだけだ。……武者がいた頃から刀なんぞ作り続けている。戦後になってなお桜刃組の為に刃物をつくっている。……薬師神子在の剣鉈なんて、殺人に確実に使われると分かってつくっているんだぞ」

 脳裏で裏鍛針依はりえが地団駄を踏む。白いワンピースが膨らむ隣で晴海の義母が杖を振り上げる。――僕が左目と晴海を失うことになった惨劇の光景だ。

「狂っているんだ、煤谷村は!」

 怒鳴り声は二人しかいない家の中で反響した。己の声ながら耳障りだった。しかし、焔は穏やかに聞いていた。

「それでも私達には救いですよ。……在が剣鉈を持っていなければ、桜刃組の人間は全員死んでいたでしょう。勿論、私も含まれます」

「桜刃組以外には迷惑でしかないだろう」

 勢いのままいった言葉に自分で首を傾げた。

 どうして僕は焔を桜刃組の一部として見ているんだ。どうして焔も自身を桜刃組の一部として見ているんだ。いったい何故この少年がこの場にいるんだ。

「君は……桜刃組の何なんだ?」

 焔はくすりと小さな笑い声をあげた。

「結局、私の――俺の話ですか。面白くないですよ」

 焔の黒真珠のような瞳は投げやりに僕に向けられていた。重ねられていた両手は解かれ、だらんと床へと向けられた。

「俺は、嫌われ者です。俺が生まれた喜珠村では疎まれ続けてきました。父には特に嫌われています。仲の良い人もいますが、大っぴらに仲良くはできません。そういう状況ですから、高校進学の際に村から出るように父から言われました。ずっといた村ですら居場所が無かったんですから、勿論、外にも居場所をつくれる筈もありませんでした。今年の冬に在が心身の調子を崩したので、幼少期に付き合いのあった俺が世話するように頼まれました。本当は看病だけで良かったんですけど、在にも桜刃組にも受け入れられてしまいました。初めて得た居場所です。だから、ずっといられるように努力しているんです。今は組長のボディーガードになろうと説得しているんですよ。生まれてこの方剣道をやっていましたし」

 まあと言いながら焔は両手を軽く握った。右の拳を顔の近くまで、左の拳を胸あたりまで上げた。

「使うのは杖術ですけどね。親戚に教えてもらったんですが、剣道よりこちらの方がしっくりくるんです」

 焔は年相応の無邪気な笑みを浮かべて杖術の構えらしきものを解いた。

「俺の主張が通れば、在は剣鉈を振るうことは無くなるでしょう。優作さんが此方でつくられた刀を持っていますが、今は殆ど拳銃しか使っていません。そう遠くない未来、桜刃組はこの村に来ることは無くなるでしょう」

 焔の言葉は嘘だった。いや、当時の彼は知らなかったのかもしれない。桜刃組は初代の頃から自分の組以外にも刀を売る為にもこの村と繋がっており、その関係が途切れることは無かった。

 僕は何も言えなかった。当時その事を知っていたが、否定する気が起きなかった。いや、焔が言外に語った事が突き刺さっていた。

 ――裏社会にしか居場所が無い少年を前にして、よくもまあのうのうと大人の癖に父親に守られて引き籠っていられるな。

 僕は自分が猛烈に恥ずかしくなった。焔を見るのも辛くなって俯いてしまった。泣きそうになったが、それは何とか堪えた。

 焔は何も言わずに黙っていた。数分後、トートバックから単語帳を取り出して、勉強を始めた。

 僕は姿勢を変えずに密かに彼を眺め続けた。焔は勉強に熱中しているように見えた。僕を意識的に見ないようにしている訳ではなく、僕が目に入っていないようだった。

 僕は焔とのやりとりを反芻した。そして、彼がかなり気まぐれであることに気付いた。女じみたその性格を愛おしく思った。

 一時間程焔を密かに愛でていると、唐突に焔は帰り支度を始めて立ち上がった。二人分の湯呑を台所に持っていこうとしたので、流石に止めた。湯呑を掴む焔の手を掴むことになった。

「もう帰るのかい?」

「ええ」

 慌てているのを隠しもしない素っ気ない返事だった。焔は瞬いて、湯呑から手を離した。それから、微笑の仮面を被って僕を見つめた。

「さようなら」

 沁み込んでくるような温かい声だった。僕は言外の願いを察した。焔は――桜刃組にしか居場所のない少年は、もう二度とこの煤谷村に桜刃組が訪れないように祈っているのだ。

 寂しさが体を貫いた。その小さな体を抱き止めたくなった。帰らないでくれと縋って甘えてみたくなった。

 そんな衝動を客観的に見る自分が脳内で叫んだ。

 ――僕は三ツ矢焔が好きだ! 唯一好きになれる男だ!

 自分に戸惑いを覚えて頭が真っ白になった。

 数秒後、焔は仮面を外して僕を不思議そうに眺めた。

 嗚呼、その二つの大きな黒真珠のなんと美しいことか。

 玄関のドアが開く音がして、焔は座りつくす僕の隣を嬉しそうに駆けて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る