第4話 寿観21年春・三ツ矢焔との出会い(1)

 焔はあの時、引き籠っていた僕に一人で会いに来てくれた。

 当時は高校二年生だった焔は、まだあどけなさを強く残していた。背は百六十半ばで、華奢で女性らしい曲線はあまり無かった。髪は肩辺りまで伸ばしており、ふわふわの癖毛が柔らかい雰囲気をつくっていた。顔は丸顔で鼻や目は繊細に小さい。白磁の肌が際立たせる、長い睫毛に縁どられた黒目がちで大きな瞳は目尻が下がっていた。栗鼠のような可愛らしい顔立ちだった。

 控えめなノックを聞いて部屋の扉を開いた時、あまりの愛らしさに息を呑んだ。見たことのない美少女相手に着古したスウェットや伸ばしっぱなしの髪と髭が恥ずかしくなった。

 焔は僕にひくことなく、あるいは興味を抱くことなく微笑をつくっていた。

「はじめまして、鹿村大和さん。私は三ツ矢焔です。桜刃組の手伝いをしています。組長が鍛冶屋の方とお話している間、貴方と話すように勧められました」

 その声は顔に似合わず低くて凛と響いた。僕は状況を呑み込めず、無様に狼狽えるしかなかった。いや、家族以外と話すこと自体が三年ぶりだったからもし冷静だったとしても真面に言葉が出て来なかっただろう。

 焔は微笑を崩さず、目線を僕から僕の部屋の中へと移した。

 ベッドまわりに乱雑に積まれた写真集やテーブルの上に放り出された大量の精神薬、片付けられていない通販の箱を見ただろうに、焔はテーブルの上のミネラルウォーターのペットボトルに注目したらしい。

「……喉が渇いてしまいました。いただけますか?」

 僕は頷いたが、自分の部屋のものを渡す勇気は無かったので、自分でも情けなくなる程小さな声で居間に促した。

 焔には居間にいてもらい、僕が煎茶を用意するつもりだった。しかし、焔は台所までついてきた。

「もてなしていただかなくて結構ですよ」

 焔は僕が出した茶器と茶葉の袋を自分の方に寄せてから、やかんでお湯を沸かした。

「そういう訳にもいかないだろう……」

「でも、したくないでしょう?」

「……どうせ……父に言われたんだろう。……引きこもりの息子を……どうにかしてくれと」

「ええ。でも、一介の高校生にはできなくて当然です」

 ですから、と言いながら焔はやかんから僕へと顔を向けた。人差し指を口元に立てて、背伸びをした。それだけの動作なのに、ゆったりとしたミント色のブラウスと左肩に掛けていた生成り色の帆布のトートバックが大袈裟に揺れ、華奢な体を強調した。微笑は悪戯気なものに代わり、それで今までの表情が仮面だったと分かった。

「嘘を吐きましょう。私は貴方と話した。貴方は私との話に疲れて途中で自室に戻られた。それでおしまいです」

 焔はすっと先程の微笑に戻って、またやかんを見た。

 薄いカーテン越しに差し込む柔らかな陽光が焔の輪郭を撫でるといっそう輝いたように見えた。あまりにも綺麗だったから、焔が自分で茶を淹れてそのまま台所で飲んでも、僕はただ傍らに立っていた。

 焔は一息吐くと瞳だけで不思議そうに僕を見た。

「嘘の内容まで考えた方がよろしいでしょうか? 部屋から出ろと私が貴方に強く言ってしまって、貴方は嫌になった。これだけで納得は得られると思いますが」

 いや、と衝動的に否定して、焔の手を掴んだ。顔を見ながら掴んだから、皮の厚さや豆の潰れた硬い跡の感触に驚いた。焔はまた瞳だけ動かして手を見た。僕から見れば伏せ目になった。長い睫毛が頬に影を落とした。その表情はコケティッシュな部分を強調させていた。

「……君と……話がしたい」

 久しぶりの胸の高鳴りと頬の熱を感じた。焔は三回程瞬いて僕に顔を向けた。一瞬だけ目を眇めてから、またお決まりの微笑を浮かべた。

「では、そうしましょうか」

 焔はそう言って二人分の茶を淹れた。流石に居間のテーブルに運ぶのは僕がやった。

 テーブルを挟んで座った。焔がトートバックを隣の席に置いてから小首を傾げた。

「何を話しましょうか。貴方の事情は信濃さんから聞きました。ですから、その……話したくないことは無理におっしゃらなくてもよろしいですし、いきなり愚痴をおっしゃられても受け入れられますよ」

 焔はどうやら父にカウンセリングじみたことを頼まれたようだった。僕は愚痴を溜めていたが、目の前の美少女にそれを吐き出すような幼稚なことはしたくなかった。年上のお兄さんとして紳士然に振舞いたかった。

「……僕の話をするよりも、君の話が聞きたいな」

 焔は先程の方とは反対側に小首を傾げてからやんわりと戻した。追随して揺れる髪が浪漫を感じさせた。

「成程。では、詳しく自己紹介しましょう。私は三ツ矢焔です。高校二年生です。三ツ矢というのは京都府匣織市の――桜刃組事務所と同じ市にある喜珠村で剣道の道場を営んでる家です。この煤谷村の裏鍛家のように、村の中心となっている家でもあります。裏鍛家よりも深く桜刃組に依存してしまっている家でもありますが。私はそこの当主かつ道場主の長男です」

「長男⁉」

 僕の驚愕に焔が背中を背もたれにつけた。一旦視線を落として口角を強くあげてから僕を見据えた。

「組長の弟に間違われることが多いのですが、残念なことに血の繋がりはありません」

「いや、男……なのか」

 焔は目を見開いた。それから一瞬だけ眉根を寄せて口を台形に開いた。掻き消すようにすぐに例の微笑を取り繕った。

「声ですぐ分かりませんか?」

「いや……それぐらいの低さの女もいることにはいるから……」

「胸もありませんが」

「……それぐらいの女もいることにはいるじゃないか」

「…………『女性にもいることはいるけれど男性的な特徴』が二点も揃っていたら、男性だと思いませんか」

「……思わなかったな」

 焔が湯呑を両手で握りしめて俯いた。肩も上がって全身が強張っていた。

 これから怒りを噴出させるのか。それとも平然とした振りをしてプライドを守るのか。どちらにせよ、男としての彼を嫌うことになるだろう。

 焔はお茶を一気に飲み干して、窓を見た。何となく僕も真似をした。

 窓から見えた庭には、多くのプランターが並べられていた。亜久里が手塩にかけて育てているチューリップやパンジーといった花々。セージやバジル等のハーブ。それらの奥には柊が家を囲んでいた。更に奥には斑に桜が咲いている山が見えた。空は青く、雲一つなく澄み切っていた。

 当時、夜以外は自室に籠りきっていたので久しぶりに見た光景ではあった。見慣れていたので、面白く感じるものは無かったが。

 紋白蝶が迷い込み、チューリップの上で旋回を始めた。漸く刺激が出てきたと思った頃、焔が話し出した。

「この村は不思議ですね。組長を……在を歓迎するだなんて」

 その声色は怒りの噴出を抑える為の話題転換にしてはあまりにも優しかった。

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