第2話 寿観29年6月1日

 全てが始まったのは今日――寿観二十九年六月一日木曜日の午前三時頃。

 僕は普段通りにフルニトラゼパムの作用で夢さえ見ずに眠っていた。

 父の鹿村信濃しなのも妻の亜久里あぐりと共に普段通りに眠っていたが、スマートフォンの着信音に叩き起こされた。

 相手は猪沢いのさわ優作ゆうさくだった。父よりも七歳年下の男だ。見た目も中身も穏やかで真面目な壮年で、困ったような笑みを浮かべる癖があった。桜刃組の若頭だとは到底思えない人間だ。

 父は元々桜刃組の構成員だった。十八年前に亜久里と結ばれて、足抜けした。それ以来、亜久里と共に彼女の故郷である煤谷村の裏鍛うらか鍛冶屋で働いてきた。裏鍛鍛冶屋は桜刃組と初代組長の頃から付き合いが続いており、父は十八年間桜刃組の人間を相手してきた。しかし、個人としてはもう裏社会の人間と関わっていなかった。――スマートフォンを手に取るまでは。

 猪沢は非常識な時間に突然頼んで来たのだ。煤谷村から車で半時間程走った所にある湖の畔で、構成員の一ノ宮いちのみや時也ときやが心中を図っているので止めてほしい、と。

 父は愚かにも快諾した。挙句、僕を連れて行った。

 父は興奮状態にあった。目をぎらつかせながら、木々が視界を遮る凸凹の悪路を猛スピードで運転し、声高に独白し続けた。

「優作と喋っている時に聞こえたんだ。在君の声が。一ノ宮を止めようとしている声が。嬉しかったんだ。純郎じゅんろうさんが、在君のお祖父さんで初代組長であるあの人が、僕が憧れ続けるあの人が持っていた優しさが在君にもあるんだって嬉しかったんだ。じゃあ、僕は、鹿村信濃は、純郎さんに救われた鹿村武蔵むさしの息子は、手伝ってあげなきゃならない。それが僕の使命だから。僕が生きてきた理由だから」

 散々息子を振り回し続けた父親ということを抜きにしても、家庭をもった五十五歳の男が持つにはあまりにも幼稚な思想に思えた。

 助手席で突き上げられるように揺さぶられて覚えていた吐き気が更に強まった。

 目的地に辿り着いた頃には手汗が異様に出てべたべたとしていた。

 車から出た途端に駆け出した父の背中を追った。父が振り回す懐中電灯が照らす範囲以外は暗くてよく見えない中、草や石に足を取られながら、時折よく分からないものを踏んだり触ったりしてぞぞげだった。

 挙句の果てに見つけた車は夜闇に溶け込む黒色だった。嫌がらせだと思った。一ノ宮はサディスティックな性格だったので、故意だろう。

 フロントガラスを照らしてみれば、中は煙が立ち込めていた。運転席には紫がかった銀髪のスーツ姿の男――一ノ宮がふんぞり返っていた。助手席には長い黒髪の人間が俯いて座っていた。

 父は迷うことなく運転席側に回り込んだ。僕は助手席側に行った。父が鍵のかかっていなかったドアを開けたので、それに倣った。流れ出てきた煙に咽ながら、父は一ノ宮を引きずり出した。一ノ宮はシートベルトをしていなかった。しかし、助手席の人間はしっかりとしめていた。相手の膝の上に自分の上半身を乗せるようにして突っ込んで、煙に粘膜を刺されながら何とか外した。逃げるように両肩を掴んで引きずり降ろそうとしたが、途中で後ろに転んでしまった。石に背中を刺されると同時に、覆いかぶさるようにして相手の体が降って来た。

 自分の胸にDカップはあるだろう柔らかい胸が乗った。

 その時、漸く女だと分かった。

 女だと分かった途端――まさか既に死んでいるとは思ってはいなかったこともあり――自分の奥の炉に十一年ぶりに火が付いた。上半身を起こしながら彼女を抱え直した。手入れのいき届いた滑らかな長髪、細く丸みの帯びた腰、きゅっと上がった尻、程よく肉のついた柔らかな太腿、小さく愛らしい膝。胸が高鳴らずにはいられなかった。おそるおそる柔らかな頬に触れた。

 出来るだけ紳士的に、出来るだけあっさりと声をかけた。

「大丈夫かい?」

 返事は無かった。緊張しているのだろうかという馬鹿な考えは父の怒鳴り声に掻き消された。

「駄目だ! そっちはどうだ!」

 その声は否応なくヤクザ時代の壊れていた父を思い出させた。返事ができないでいると、父がやってきて僕と彼女を照らした。

 はっきりと見た彼女は美しかった。

 長い睫毛に縁どられた閉じた狐目、高い鼻に桜桃のような唇。照らされてなお夜闇に溶け込む黒い髪、細長い首に細い腕、紫色のネグリジェに包まれた女性的な儚さと艶やかさをもった肉体。

 まるで天女のようだ。――そう思いつつも、違和感があった。

 父は僕から彼女を取り上げるようにして抱いた。その時、彼女は蝋人形のようにまったく反応を示さなかった。父は手慣れた手付きで脈や瞳孔を確かめた。

「こっちも駄目だ。……家に連れて帰るぞ。車に乗せておけ」

 父は彼女と懐中電灯を僕に押し付けて、踵を返した。そして、一ノ宮の車を思いっきり蹴り付けた。遠くで鳥が羽搏いたような音がした。

 僕は父が恐ろしくなって、彼女を抱えて乗って来た車に向かって走った。何度か転びかけたが、慎重に動けるような冷静さは無かった。

 何とか彼女を後部座席に乗せてドアを閉めた後、彼女が亡くなっていることがやっと理解できた。その事が恐ろしくなって父のもとに逃げた。

 足は縺れ、五回程転んだ。口の中に土が入り込んだ。何度も唾を吐いたが完全には除去しきれなかった。苦みとざらざらとした感触が口の中に残ったまま、父と対面した。

 父は練炭の処理を終えていた。僕にスマートフォンと、紫色のワンピースを着せられた不細工な何かよく分からない白いぬいぐるみを渡すと、横たわらせていた一ノ宮の屍を担いだ。そして、僕に先に行くようにヒステリックに顎で促した。

 僕は懐中電灯で先を照らしながら、ゆっくりと歩いた。一度も振り返らなかったが、父が更に荒れていっているのが分かった。

 僕の背後にいる男はもう煤谷村で生活する善良な村民では無かった。桜刃組に尽くし、家族を犠牲にすることも厭わない異常者に戻っていた。

 しかし、僕にとっては深い問題では無かった。

 父が桜刃組に属していた頃に過ごした匣織市も、今住んでいるこの煤谷村も等しく地獄だった。父が如何に荒れようとも地獄があるだけだ。

 助手席に乗り込んだ時にはある程度の平静さがあった。行きよりも興奮した状態で桜刃組への帰依を謳う父の戯言を後部座席で揺れる二体の屍をミラー越しに眺めながら聞き流した。

 父が「在君」という言葉を出した途端、彼女への違和感の正体が分かった。似ているのだ。何処かではなく、性別による特徴以外の全てが一緒なのだ。

 父にそのことを伝えると、妹だろうとあっさりと認めた。そして、薬師神子在の父であり、桜刃組二代目組長である薬師神子じゅんは沢山の女に子を産ませたとつまらなそうに教えてくれた。あまりに素っ気ないので、異様な話であるのにすぐに飲み込めてしまった。

 家に帰ると亜久里が迎えに出た。屍を前に最初こそ顔を引き攣らせていたが、父のような男と添い遂げるような女だから、すぐに適応した。僕達が客間に屍を寝かせると、丁寧に汚れを落としてやっていた。ぬいぐるみさえ綺麗にして女の隣にそっと置いていた。明るい所で見ても何のぬいぐるみか分からなかった。兎にしては顔が長いし、犬にしては耳のつき方と長さがおかしかった。

 僕はぼんやりと亜久里を手伝っていたが、父は別の部屋で猪沢に連絡していた。今日の二十三時に桜刃組の人間が屍や遺品を回収しに来る予定になったそうだ。

 父はそれを伝えると亜久里を寝室へと引っ張っていった。

 僕はシャワーを浴びて一旦はベッドに入ったものの、眠りにつけなくなった。自分を落ち着かせようと白湯を飲んだり、本を開いてみたりしたもののどうにもならなかった。

 結局は屍のもとへ行き、そうして彼女の魔性にやられて突発的な奇行に及んだのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る