怪盗R

 アメリカ東部にある《エックスム研究所》──生物学者シェリーが所長を務める軍事技術研究所だ。

 ここでは沈黙の日以降、魔獣やコムザンに関する研究を行っている。

 優秀な人材と充実した設備が揃っており、ここから発表される研究論文は世界中の研究機関から注目されていた。

 午後10時を過ぎた研究所の中は人影が少なく大部分の所員は帰宅したか隣接する寮で休んでいた。静かな廊下を白衣姿の児玉零樺が歩いていた。

 太い黒縁の眼鏡、ウェーブのかかったショートカットのかつら、右頬につけぼくろ、白い業務用マスク……

 そこまで変装して研究所にいるのには理由があった。

 「始めるわ」

 零樺は襟に着けたマイクに小声で呟いた。

 「了解。目的物は5階資料室」

 敷地の外で待機しているキャサリンが答えた。眼鏡の耳にかける部分は骨振動型のスピーカーが内蔵されて零樺の耳には電話で通話するレベルの音量で聞こえた。

 研究所には正面玄関から偽造IDカードで入り階段を上って5階に着いた。セキュリティレベルが高いこのフロアのドアを開けるには人差し指を機械に入れて静脈認証を行う必要がある。

 零樺はポケットから特殊な樹脂で作った人差し指の模型を機械に入れた。

 低い機械音が鳴りドアのロックが解除された。

 「楽勝ね」零樺はニヤリとした。

 零樺はモゼラニクス社の秘書として働く一方で役員の高梨源一の命令で潜入活動も行っていた。

 小柄の魔獣コンラルを操る魔獣使いの零樺には適任だった。

 魔獣使いの村での暮らしに飽きて17才で村を出た零樺は都会で窃盗を繰り返して暮らしていた。

 ある日、高梨の自宅に侵入して宝石を盗もうとした時、運悪く高梨に見つかった。

 零樺にとってたまに起きるアクシデントだった。

 いつもなら魔獣を召喚して相手が驚いている隙に逃げる手筈で切り抜けたが相手が悪かった。

 魔獣を召喚する隙をつかれて高梨に麻酔銃を撃たれて零樺はその場に倒れてしまった。

 それが高梨と零樺の出会いだった。

 高梨は警察に通報せずその場で零樺をモゼラニクス社にスカウトした。

 高給の上、潜入活動で上乗せされる報酬も良かったので零樺は快諾した。

 それからは高梨の手足となって働いていた。

 「はあ……あの爺さん、早く彼女作ってくれないかな。愛人だと陰口叩かれて鬱陶しいわ」

 零樺は愚痴りながら資料室の前に来た。

 IDカードと静脈認証をクリアして部屋に入ると高い棚に瓶詰の標本が並んでいた。

 「さて、お宝はどれかな……」

 零樺は棚に並んだ標本を見ながら歩いた。棚にはコムザンの体の一部の標本が並んでいた。

 隣の部屋からウーウーと大きな呻き声が聞こえた。

 「何かヤバいのが隣にいるわね。早く探さないと」

 零樺は足早に棚の標本を見て歩いたが見つからずにスマホを操作して写真を見た。

 「やっぱりないわ。どこにあるのよ《聖獣の爪》」

 ディタンとの戦いに敗れて灰になったルベルジアの体は空間の裂け目に吸い込まれたが爪の破片が森の木に引っかかっていた。

 以前に暴走したラウトラの体も灰になった事から魔獣使いが同化した魔獣は死んだ後でも物質化して残る事がわかった。

 その爪をアメリカ軍が回収して調査を行った結果、人間の爪と同じ組織で同化したレイリンのDNAと一致した事から軍は『ただの巨大な人間の爪』として片付けてエックスム研究所で保管する事になった。

 その事を高梨が聞きつけて零樺に盗むように命令した。

 「ないわ」部屋の中を二周して爪を探したが見当たらなかった。

 零樺は防犯カメラの死角に入り襟に着けた小型マイクに小声で話しかけた。

 「目的物なし」

 「6階の資料室に移動した可能性あり」

 「ちょっと、わかっていたなら早く言いなさいよ」

 「そっちから連絡が来ないと答えられないの。さっき防犯カメラに小瓶を持った女が映っていたわ。人が来ない内に急いで」

 「わかったわ」

 キャサリンのまくしたてる口調に零樺はムッとした。

 「今日は運が悪いわね」

 零樺は軽く舌打ちをして部屋を出た。外には誰もいなかったが隣の部屋から呻き声が相変わらず響いていた。

 6階のセキュリティをクリアし資料室に入った。

 ここにも瓶詰の標本が棚に並んでいた。

 棚を探していた零樺が立ち止まった。

 人間の爪の2倍程の大きさで薄い灰色の爪の破片が小瓶に入っていた。

 「あった」

 零樺が小瓶を手にした時、部屋のドアが開いた。

 「ヤバい!」零樺は小瓶をポケットに入れて奥の棚の陰にかがんだ。

 コツコツと女物の細い靴の音がした。

 「あら、ないわ。さっき頼んだのに」

 英語で話す女の低い声を零樺は目を閉じて聞いた。

 (誰かを呼んだら厄介だわ。言い訳を考えなくちゃ)

 零樺はかがんだまま考え始めた。

 「どこにあるのよ。全く……」

 女はぶつぶつ言いながら部屋を出て行った。零樺は大きく息を吐いて立ち上がった。

 「ああびっくりした。帰ろう」

 零樺は部屋を出た。しかし運悪く部屋に戻って来た女と鉢合わせになってしまった。

 「あなた、何をしているの?」

 (あっ、シェリー博士)

 女の顔を見て零樺は一瞬ハッとしたが、

 「すみません、所長。資料を探していたのですが見つからなくて。5階へ行きます」

と流暢な英語で答えた。

 「そう。私も行くから一緒にどう?」

 零樺はしまったと内心思ったが「いいですよ」とにこやかに答えた。

 (まあいいわ。すぐに見つけた振りして出て行けばいいから。でも何だか嫌な予感がするわ)

 シェリーの後をついていくように零樺はゆっくり歩いた。

 二人は5階の資料室の前に着いた。隣でウーウーと呻き声が響いた。

 「もう何をやっているのよ」

 シェリーが隣の部屋に入ったのを見て零樺は「今のうちに!」と逃げようとした時、

 「いやあ!助けて!」

 シェリーの悲鳴が聞こえた。

 「何?どうしよう……ああもう!」

 零樺は走って部屋に入った。

 部屋の奥で2メートル程の紫色の肌で体毛に覆われた生物がシェリーの腕を掴んでいた。そばに白衣姿の男達が数人倒れていた。

 その生物は足を鎖で壁に繋がれていたが、手に繋がれた鎖がちぎれていた。

 「何なの、この化け物は」

 零樺は驚いた。

 「シーヴィの変異体よ。助けて!」

 シーヴィに腕を掴まれたシェリーが叫んだ。

 (非常ベルを押せば更に人が増える。仕方ないか)

 零樺はポケットに手を入れて低周波を発生する装置のボタンを押した。シーヴィの挙動に変化はなかった。

 「えっ、効かないの?それなら」

 零樺はポケットから装置を出してダイアルを回して再びボタンを押した。

 シーヴィがウォーと叫びシェリーを離して暴れ出した。

 (ガーディアンが生んだコムザン用の周波数に反応した。面倒な化け物を作ったわね)

 「こっち!」

 零樺は舌打ちしてシュリーの手を掴んで引き寄せて壁の非常ベルのボタンを力強く押した。

 館内にブザー音が鳴り響いた。シーヴィの両足の鎖がちぎれた。

 二人は急いで部屋を出た。

 「何をしたの?」

 「そんなのどうでもいいから逃げるのよ!」

 シーヴィがドアを突き破って追いかけて来た。

 (全くもう……嫌な予感が的中ね)

 二人は階段がある部屋に入った。鉄製のドアをシーヴィがドンドンと力強く叩いた。零樺はドアを全身で押さえた。

 「人を呼んで来て!私もすぐに後を追うから」

 零樺が言うとシェリーは「わかった」と答えて階段を駆け下りた。

 零樺はドアから離れて階段の上の踊り場に立った。シーヴィがドアを力強く開けて零樺を見上げた。

 「こっちよ、化け物」

 零樺は階段を駆け上がった。シーヴィが叫びながら追いかけた。

 屋上のドアをカードで開けて外に出た。

 屋上の真ん中辺りで零樺は立ち止まった。シーヴィが走って来た。

 「さよなら」

 零樺は冷たく言うと目を閉じてコンラルを召喚した。

 その時、ポケットに入れた小瓶が青く輝いた。

 「えっ何?」

 ポケットから取り出した小瓶の爪が青く波打つように輝いた。

 シーヴィも眩しい輝きにひるんだ。

 零樺の目の前が暗くなった。聖獣ルベルジアが現れた。幻影が零樺の目の前に広がった。知らない星の風景、魔獣使いのレイリンの姿、そして最後の戦い……

 (これは……記憶?……魔獣が見た記憶……風の音、鐘の音……光が体に入ってくる)

 意識の中で青く眩しい光でパンッと弾けた。零樺は我に返った。目の前にシーヴィが黙って立っていた。

 銃を持った男達が数人走って来た。

 「もう何なの……悪いけどあなたの相手はしていられないから。じゃあね」

 零樺は閃光弾をシーヴィの足元に投げた。光が眩しく炸裂した。シーヴィがひるんだ隙に零樺はコンラルに乗って飛び立った。

 零樺は襟のマイクに話しかけた。

 「色々あったけどお宝は回収したわ。コンラルで帰るから撤退して」

 零樺を乗せたコンラルは闇夜の空へ消えていった。

 それから5日後、零樺は高梨に呼ばれた。

 「エックスム研究所から最新型の低周波発生装置の注文が来たよ。現場で大きな効果があったとかで」

 「シーヴィの研究には危険が伴いますからね」

 (あんなのポコポコ作っていたら命がいくつあっても足りないからね)

 零樺はすました顔で答えた。

 「それとシェリー所長から君へプレゼントだそうだ。いつの間に親しくなったのかね」

 「何でしょうか」

 零樺は高梨から封筒を受け取ってその場で開いた。

 封筒には研究所の訪問者用のIDカードが入っていた。そして小さな紙に

 『今度はランチタイムにいらっしゃい。それとあれの調査結果を報告してね。代わりにあの装置をまとめて買ってあげるから』

と書かれていた。

 (あの女……)

 零樺は引きつった笑顔を浮かべてカードを握りしめた。

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