5・最後の砦

リチャードソンは李が心底驚いた顔をしているのを見て、ああなるほどと合点がいった。

中国は、結果的に米国ほど発展はしなかったものの、シベリアのほとんど全域とインド半島東部を併呑へいどんし、宇宙開発競争においても米国と比肩ひけんするほどだ。その中国の宇宙機関であるCNSAの局長たる李が現状を把握していないというのはいささかおかしな話だった。

「………」

彼が李のそばに控えている緑制服の政治将校とおぼしき男を見据えると、男は一瞬目を合わせたなり、視線を宙へと彷徨さまよわせる。

(やはりか)

親米派との噂が絶えない中、実力のみを足がかりとして局長に就任した李は、の〝最新情報〟に踊らされていた、というわけだ。

だが、李に〝真実〟を教える前にいちいち中国共産党の上層部に諒承りょうしょうを得ている暇はない。こうしている間にも事態は刻一刻と深刻化しているのだ……リチャードソンは秘書に耳打ちをして護衛を増員させてから、「いいですか」と前置きをして切り出した。

「人類はいままで、大量の人工衛星や宇宙ステーション、あるいは探査機を打ち上げてきました。しかし、役目を終えた人工衛星などはそのまま軌道上に残存しつづけ、二年前にNASAが行った調査では――低・中高度周回軌道のうち、すくなくとも五七パーセントが航行禁止宙域の基準に該当しました。原因は、宙域一帯に存在する宇宙塵スペース・デブリです」

そこまでいうだけで事態の深刻さを察したのか、みるみるうちに李の顔が蒼褪あおざめていった。

「……とすると、最近頻発している人工衛星などの事故で、航行不能宙域が爆発的に増加している、ということですか」李が顔を伏せ気味にして言う。

「その通りです。すなわちこれが意味するところは、たとえ生き残った宇宙船が地球へ帰還しようとしたとしても、大気圏再突入を行う前にとなってしまい――」リチャードソンがそこで言葉を切ると、李が引き取って言う。「最悪の場合、地球が全宇宙から孤立してしまう、と?」

「ええ――これが二〇〇〇年代ならばそれでも問題は少なかったでしょうが……」リチャードソンは残念そうに続ける。「いまや地球の資源はあらかた採り尽くされてしまいましたしね」

彼の言葉に嘘はなかった。いまや地球では石油、石炭、天然ガスといった天然資源がほぼ完全に枯渇してしまっており、唯一残っているウラン鉱石も、あと五〇年たらずで尽きようとしていた。再生可能エネルギーで代替しようにも、太陽光パネルや風車をつくるための金属資源の確保にすら汲々としている有様なのだ。

「し、しかし」だが、李は動揺しつつも反駁はんばくを試みた。「それならば、なぜ今になってそのような話をされるのです?我々にできることは、ただ諦観ていかんすることだけではありませんか」

両者のあいだに沈黙が流れるが、そのわずかな静寂は、リチャードソンの妙にはっきりとした「いいえ」という声に破られた。彼はさらに続ける――「たしかに、宇宙塵のせいで宇宙船や人工衛星は破壊されてしまいます。地球から頑丈な宇宙船を打ち上げるにしても、金属資源はもうありません。ですが、お忘れではないですか……〈ドナウ9号〉のことを」

〈ドナウ9号〉――李もその名前には聞きおぼえがあった。二五年前、欧州連合宇宙軍 (EUSF)がの宇宙船をスクラップにした鋼鉄の塊からつくりあげた、耐核地雷原型宇宙船である。――だが、たとえ地球を覆う宇宙塵スペース・デブリのヴェールを突破できたところで、その先に何があろう?そこにあるのは宇宙だけなのだが……

そこまで進んだ李の思索の糸は、先ほどの調子とくらべて妙に甲高くなったリチャードソンの声に断ち切られた。

「ええ、ええ、そうでしょうとも!たしかに、〈ドナウ9号〉は宇宙塵スペース・デブリの層を突破する道具にすぎません。ですが――我々が国防情報局 (DIA)の機密室の奥底で発見したこの文書こそ、〈ドナウ9号〉を人類救済の救世主へと変貌へんぼうさせるキイとなるのです」リチャードソンは銀色に光るアタッシェケースから一束の書類を出すと、勢いよくテーブルに叩きつけた。書類には〈SC66〉とあり、その上を〈CLASSIFIED機密〉の赤文字が横切っている。

「これは、スカンジナビア統合評議会が極秘で作成した文書の複製コピーです。この計画は三年前に実行にうつされ、EUSFが極秘裏に協力したようです」彼がめくったページには、宇宙ステーションのような建築物のイメージ図が載っている。図の上には、黒々と〈OPERATION LAST STAND〝最後の 砦〟作戦〉の文字があった。

「こ、これは……?」李は困惑しつつリチャードソンに訊く。リチャードソンはただ微笑むと、彼の手元にその書類を押しやった。

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