大道寺政繁の困惑

 六月二十五日。



 北条軍一万は、甲斐の上野原に入っていた。


 ここから岩殿城までは一刻、躑躅ヶ崎館までは一日。



「うーむ……」


 甲州にしては珍しい平野の中で、先鋒を任された大道寺政繁は正面の山地ばかり見ていた。戦の直前とは言えやけに落ち着きなく、十秒単位で左右を向きながら、二分に一度後ろを向く。


「どうなさったのです」

「いやな、ここは敵本拠地も同然だ、それこそ伏兵でもなければおかしいだろう」


 いつ何時襲われるかわからない。

 そう考えるのは不自然でも何でもない。甲州街道をまっすぐ行けば岩殿城だが、それこそ文字通りの一本道であり伏兵には絶好の環境である。一応川はあるがそんなので視界が開ける訳でもないし、と言うか置かない方がおかしいとさえ思っていた。


「なればこそ先鋒であるわしが気づかねばならぬ。少し進軍を遅めてでも探すべきではないか」


 政繁は手勢を左右の山に振り分け、山を探らせた。

 ないならないで構わないが、いずれにしても彼らが戻って来るまでは動かないつもりだった。

「お館様にはお伝えしておいてくれ、伏兵の存在の有無を確認するまで待って下されと」

 その上で使者をやり、事後報告ではあるが氏政にその旨を伝えておけば大丈夫だろうと考えた政繁は再び左右の山に視線をやった。

 



 だがほどなくして、大道寺軍があわただしくなった。


 伏兵が発見されたからではない。




「おいまだ出撃しないのか」

「伏兵がいたら危ないから今確かめてるんだよ」

「そんなもんいねえだろ」

「何だと!」


 当然ながら待たされていた兵士たちは無聊をかこい、雑談を始め出した。


 そんな中で伏兵などいないとか言うなめ腐った言い草を吐いた兵士の胸倉を、いきなり隊長が掴むと言う事件が発生した。


「お前は武田を何だと思っている!本拠地を何だと思っている!北条だって小田原城が落ちればほとんどおしまいに近いんだぞ!そんな場所の警戒を怠る馬鹿がどこにいる!」

 正論を叫びながら兵を持ち上げた隊長の憤怒の形相に兵士たちがおびえ出し、誰も声をかけられなかった。その挙句その兵の方は平然としたまま大口を開け、何が悪いのか全然わからないと言いたげに隊長を見下ろしていた。


「貴様…!」

「知らないんですか、武田の坊やの会議がまったく会議にならずに散会した事。

 何でも坊やは会議の直前に失禁しかかってあわてて厠に駆け込んだとか、家臣たちはその坊やのご機嫌取りに終始したとか、それで適当に出陣したとか、で挙句信玄の娘が怒鳴り込んで追い払われたとか」


 さらに怒った隊長に構う事なく、兵は武田の会議についてしゃべり出した。

 あまりにもお粗末極まる有様に一部の兵たちから尿ではなく失笑が漏れ、また別の兵たちは無言でうなずいていた。

「バカバカしい!そんなでたらめな噂を真に受ける奴があるか!」

「でも風魔忍びが聞き及んだって」

「そんな間抜けな話がどこにある!」

 ついに隊長は、胸倉をつかんだまま持ち上げた兵の股間に向かって、右ひざで蹴りを入れた。

 股間を蹴られて当然のようにうずくまる兵の背中に右足を乗せ、さらに吠える。


「いいか!これから対峙する敵は武田だ!

 あの信玄が率いる兵が弱いはずなどない!そして無策なはずもない!

 油断大敵!わかったら返事だ!」


 だが、反応はない。おびえていると言うより戸惑っている兵の方が多く、独り相撲を見物しているような有様だった。


「お前、たち……!」

「その噂なら俺らも聞きましたよ、でも俺はまともだった会議に信玄の娘が乱入して無茶苦茶にしたって」

「ええ、俺は会議中にあの坊やが小便漏らして大騒ぎになったって」

「あああああああ゛あ゛あ゛あ゛っ!」

 当然ながら苦言を呈したが、余計に失望する羽目になった。誰も彼もこんな甘ったるい噂を信じているのかと思うと隊長は怒りを通り越して諦めの心境になり、濁音が混じりまくった声を上げ出した。


 それでようやくひるんだのを感じて少しはましな気分になったが、それでも空気は全く引き締まらない。


「あの、早く出撃準備を」

「うるさい!敵伏兵発見に付きそれを叩けって事だろ!」

「いえその、四方津から一里ほど調べましたが一人もいないと」



 その挙句、これである。




 —————かなり時間をかけて、まともな出来の兵士が探索したのに、全然なかった。

「今から来ないとは限らんだろ!」

 と隊長は必死に吠えたものの、半分がこの独り相撲に疲れ果てもう半分はそれ見た事かと言わんばかりにそっぽを向いてしまう有様だった。




 この間政繁が何をして来たかと言うとずっと前を向いてばかりであり、兵たちの報告を今か今かと待っていただけだった。

 そして伏兵がないと言う報告を耳にして、なお政繁は訝しんで前進していなかった。


「おーい、いよいよ戦だぞー、気合を入れ直せー」


 間延びした部隊長の声によりようやく兵たちは態勢を整えたものの、あらゆる意味でしまりのない軍勢になってしまった事だけは確実だった。

 先ほど股間を蹴った隊長もまた怒りのやり場を失ったような顔をして地面を蹴り、西を睨みながらいるべき場所へと向かった。

 当然、冷たい視線を浴びながら。







「全くな話だ。わしだってそう思っておった」

 四方津を無抵抗に抜けた政繁は後方の騒乱を耳にした上でそう平板につぶやき、相変わらず左右を向きながら山道を進んだ。


 本当に、いないらしい。


 本当に、警戒していないらしい。


 小山田信茂を含め誰も何の警戒もしないまま、ただぼーっとしていたと言うのか。


「お館様は速く進めと仰せでしたが」

「それでも迂闊に進んで伏兵により万一の事あらば北条が終わる。道を均すのは家臣の役目と言う物だ」

 政繁はこれまでの経験と常識で、それ相応の対応をしたに過ぎない。確かに速さ第一とか言った所で、それで罠にかかっては元も子もない。自分ならまだともかく、氏政が罠にかかったとあってはそれこそ一大事だ。

 だからこそそれなりに下調べも行い、いつでもその可能性を排除しないまま二年間過ごして来た。その上で無警戒を極めた今こそ好機だと思い、こうして攻撃をかけているはずだ。


 だと言うのに、どうにも空気が重たい。

 旧暦六月は晩夏どころかむしろ盛夏であり、山道の涼しさが盆地の暑さに負けている。

 事前のごたごたや待ちくたびれもあって、兵たちは戦いもしないのに汗を掻いていた。


「敵は本当にいるのでしょうか」

「ああいる。間違いなくいる。良いか、我々は敵を発見次第真っ正面からぶつかり食い破る。そして岩殿城を抑え、その上でそこに群がってくる連中を受け止め、その間にお館様たちに躑躅ヶ崎館に突入していただく」

 政繁はあくまでも、王道の答えを出す。


 何を企んでいるのかは知らないが、それでも跳ね返せばいいとばかりに。



「大将!」

「来たか!」


 そしてついに、ある意味待望の報告が届いた。


「小山田軍が迫って来ます!」

「そうかそうか、ついに来たか!」


 小山田信茂。

 岩殿城を守る武田の重臣の軍勢がついに来た。


 逆に言えば、これさえ抜けば甲州陥落は決定的と言う事。



「北条よ!」

 その小山田信茂は、ずいぶんと赤い顔をしながら吠えた。

「わかっている、なぜ信玄は征夷大将軍様を殺めた?そんな人間と手を結んでいては北条までが大逆の徒と思われる。それだけの事だ」

「うおーっ、うおーっ!」

 その信茂に張り合うかのように逆に冷静になった政繁の口上に応えるように、大道寺軍の兵士から歓声が上がる。


「うるさい!それはだな、ほら、信長があんな場所に連れて来るからだ!悪いのは信長だ!」


 それに対し信茂は見苦しく言い訳を並べ、信長のせいにする気満々である。


「黙れ!終わりかけの所に千人でやって来たのに捕らえる余裕もないのか!」

「うるさい!」


 実際責任はあるのだが、ならば捕らえろと言う言葉に反論できないのも事実だった。


 それに対してうるさいしか言わない信茂は、ひたすらに見苦しく聞き苦しかった。



「大将!」

「よし!征夷大将軍様を殺めた武田を討て!」



 事ここに至り、ついに政繁も決意を固めた。




 武田と北条の戦いが、始まったのだ。

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