武田信勝の会議
六月二十三日。
躑躅ヶ崎館にて、一人の少女が少年に迫っていた。
「叔母上は何をあわてているのですか」
「これがあわてずにいられますか!」
菊姫は美濃から帰って来てと言う物ますます格好を付け出した甥に突っかかり、体を揺さぶらんばかりに迫る。だがこの武田家当主はまるで叔母を相手にしようとしないまま、兵法書ばかり読んでいる。
「そう言えば叔母上は此度高坂殿の長男に嫁ぐそうですが準備の方はよろしいのですか」
「あなたは本当にもう!」
相変わらずの馬耳東風ぶりに兵法書をひったくって叩き付けてやろうとかと思ったが、信勝は涼しい顔をしているくせに妙に強い力で本を握りしめていた。
「この状況を何だと思っているのか、それをうかがいたいのです!」
「ええ、北条が約定を踏みにじって来ると」
「この躑躅ヶ崎館はどうなるのですか!あなたは当主でしょう!」
「文句ならば小山田殿にお願い申し上げます、そんな暇なんかないでしょうけど」
つい昨晩、小田原城から兵が動き出したと言う話が躑躅ヶ崎館に飛び込んで来た。
それからと言うものの躑躅ヶ崎館は蜘蛛の子を散らしたような大騒動になり、逃げ出そうとする人間まで出る始末だった。
この報告を真っ先に伝えて来たのは小山田信茂であり、今彼は手勢を率いて東の岩殿城に入っている。
「私は大将なら大将らしくしなさいと言ってるだけです!」
「叔母上は山県殿も信じられないと」
「もっとはっきり言いなさい!」
「叔母上は婚礼の準備を早くなさって下さい!」
小声と言うか自分に聞かせれば十分だと言わんばかりの音量でしか答えない信勝にいら立っていた菊姫はこれまで以上に甲高く吠えたが、ようやく大きな声で返って来た言葉はあきれるほどに悠長だった。
「すると何ですか、万一の時は私が!」
「ええそうです!早くして下さい!これは当主からの依頼、いや命令です!叔母甥など関係ございません!」
いくら煽っても動かない甥に愛想を尽かしたのか、菊姫はまったく嫁入り前の女性らしからぬ大股で走り去った。
信勝も信勝で一瞥もくれぬまま、無言でゆっくりと兵法書を抱えながら歩き出す。年齢相応に頼りない足取りではあるが、どこか当主らしくなっていた。
「おっといけない」
と思いきやいきなり股に兵法書を置き、何かを求めるように向きを変えた。そして急に小走りになり、どこかの部屋に入るや袴を脱ぎ出した。
「まったく……本当に広いな……」
まだ小さな棒を引っ張り出して震えの大元を放り出した少年は、祖父が使っていたその場所の大きさに感心していた。それ相応の臭いは鼻に付くが、みんな同じ物を出している以上どうにもならない事を少年は知っている。
「あははは……」
そして大広間にやって来た少年は真っ正直に遅れた訳を話し、年下の人間などいない場に笑いを起こした。
「やれやれ、まだまだ我々が支えてやらんとな」
「そうですな本当」
武藤喜兵衛や三枝守友と言ったこの場にいた将たちも笑う。実に微笑ましくのんびりした空間であり、嵐の前の静けさとか言うにはあまりにも穏やか過ぎる。
「あーさて本題であるが、北条家が武田に攻めて来るらしい」
「その旨は小山田殿から聞き及んでおります。小田原城に兵を集めこの躑躅ヶ崎館を狙っているとか」
「この躑躅ヶ崎館から小田原城まで、どれだけかかる」
「急げば三日です」
何の妨害もないという前提だが、本当にそれぐらいの距離しかないのが両家だった。なればこそ幾度も争いは起きて来たし、和平も結んで来た。
「様子からすると明後日にはここまで来るか」
「そうですね」
「さて時に、この戦はどうすれば勝ちだと思う」
「それは無論、北条氏政を討ち取るべきかと」
守友が威勢のいいことを言うが、反応はまるでない。
「この戦は敵を追い返せば勝ちでございましょう。にらみ合いになれば大御所様や山県様がいらっしゃるのですから」
それに対抗するように喜兵衛ももっともらしい事を言うが、それでも賛同する声は上がらない。
元より四名臣を含む重職者のいない場であったが、それでもあまりにも静かすぎた。
実際問題、この時馬場・内藤・高坂は川中島の戦後処理などでまだ北信州におり、親族衆の穴山信君は駿河と遠江を守るのに懸命、秋山信友は岩村城におり、山県昌景が到着するまで小山田信茂が筆頭を名乗れる状態だった。
と言うか信君よりもっと濃い親族であるはずの武田信豊は、何も言おうとしないでじっと信勝の側に座っていた。
「それで、作戦はどうなんだ」
保護者を気取っても誰も文句を言わないはずなのにじっと構えるこの従兄弟叔父に一同の視線が集まったが、信豊は馬耳東風の体だった。
ごくありきたりな事だけ言って話を進め、やけに面白そうな顔をして下座の人間たちの顔を見出した。
「……で、敵の数は」
「一万はくだらないと思われます」
「こっちが即座に出せる兵は」
「小山田の三千にここにいる五千で八千ですね」
で、全く意味のない沈黙が三分ほど続いたのち信勝の口から出た言葉は兵力の数についての質問だった。
基本中の基本である。
「そうかそうか、その程度の数の差ならば何とでもなる。わしらで耐えればいいのだろう」
「では出陣いたしますか」
そして、そのまま軍議は終わった。
守備に徹し、山県軍への援軍要請の使者を送る。
さらに北条の横紙破りを佐竹以下の関東諸侯に伝え、後方を突く事も思慮に入れるように要請する。
そんな事が取りまとめられ、兵士たちは次々と出撃した。
※※※※※※※※※
「ふむ……そうか。よくやった」
軍議から半日後の六月二十四日早朝。
まだ暗い小田原山中にて、風魔小太郎は部下からの報告を聞いていた。
すべての言葉が終わると銭袋を適当に見せかけて正確に投げ、一人っきりで思いを巡らせた。
(ほどなくして甲相の国境にお館様の軍は到達する…………その際にこんな事を伝えていいのか……)
正直、緊張感どころか、中身も何にもない。
つまらない痴話喧嘩同然の言い争いから始まり、相手の兵力の確認と言う基本中の基本の作業もなっていない。
お粗末どころの騒ぎではない。
こんな物を馬鹿正直に報告すれば、どう考えても油断する。
ただでさえ七歳児が総大将、信玄以下主力不在と言う前提条件が揃っている以上、油断してしまう要素はさらに増える。
完全に聞かせるために聞かされたのか!
(信玄が教えていたのか?とすれば今回も相当に厄介だろう……されどなればそれはそれで……)
信玄が何らかの策を事前に授け、あらかじめ残していた将たちに伝えていたとすればつじつまは合う。適当な会議のような物を作り上げてこちらに聞かせ、それを吹き込めば裏をかけると言う寸法だ。
だがそれこそ信玄の思うがままと言う意味であり、面白くもないし面白くもある。
と言うか、もし仮に演技ならばもう少し策らしきものが出て来ても良かったはずだった。
ほぼ「攻めるか、守るか、じゃあ守る」でしかない以上、具体的な兵の動きがてんでわからない。
かと言って粘れば間に合わなかった可能性もあるし、低いが殺されていた可能性もあった。そうなれば雑な会議を開いたと言う情報すら入らない。
何せ、もう既に氏政は動き出してしまっている。
確かに同盟の横紙破りをする以上もたつくのは望ましくないが、それでもそれなりに情報を集めてからにすべきではないか。確かに足利義昭うんたらかんたらによりとか言う書状を送ればその間に守りを固められるのはわかるが、それでも拙速に思えた。
「何もわからなかった?」
小太郎は結局、こう答えるしかなかった。
急いで庵を飛び出し、走りながら氏政に追いついたその日の夜、国境まで来ていた氏政は当然の如く不機嫌になった。
「風魔忍びは何をやっているのだ」
「甲州忍びが予想外に強く……」
「そなた自ら向かえば良かったものを……!」
氏政の愚痴にも、小太郎はじっと沈黙を守る。
策であるのかないのか、いや策である事は間違いないのだが、誰が言い出したか全く分からない。
仮に信玄の策ならば信勝以下そんな連中しか残ってないと言う事だから多少苦戦しても戦は勝てるだろうし、そうでないなら今度の戦は危ない。
「武田は本隊がいなくとも強いのか……」
ここに来るまでもずっと考えていた。
本当のことを言うべきか、それとも口をつぐむか。
結局後者を選びこうして説教を受けた上である程度悪くない方向に行った事もあり内心で安堵してみたが、それでも胸のつかえは取れない。
「とにかくだ、よくやってくれた。後はわしらに任せ」
「この風魔、見とうございます。甲州に三つ鱗の旗が立つ所を」
まったくらしくもなく、そんな事を言ってしまった。
必要ないはずの責任感と罪悪感が口を動かし、ただの応援ではない事をにじませてしまった。
「何そなた、この戦場に立つと申すのか」
「どうかご内密に…」
「相わかった、その力ぜひとも使ってくれ、頼むぞ!」
その結果、流れるように戦に参加する事になった。
(万一の時はこの不誠を許されるように取り計らわせる他ないか……)
それでも武田信勝と言う存在を知るためと割り切り、小太郎は闇に消えた。
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