北条氏政の断こう

 上杉謙信の死の報告は、六月二十一日には小田原城にも届いていた。




「まことか!」


 北条氏政が書状を見ながら叫び声を上げる中、風魔小太郎は冷静にうなずいた。


「しかしこれはいくらなんでも信じられんが、本当なのか!」

「全て本当でございます」

「いやしかし、その…………!」


 謙信だけでなく、鬼小島弥太郎と柿崎景家が討ち死に。斎藤朝信は自害。


 さらに、上杉景虎も戦死。


「でも確か一万五千ほどの兵を率いたのだろう…………。生存者は一万、いや五千ぐらいいるはずだ!」

「報告によれば二千を超えることはないと」

「二、千……」


 二千と言う事はつまり、一万三千の兵を失った事になる。

 しかも武田の犠牲者は千足らずらしく、つまり捕虜を含めれば一人で十三人の戦闘能力を奪った事になる。


 あの、上杉の、だ。


「皆を早急に集めよ!」


 氏政はそう叫びながらもくずおれ、書状を何度も何度も見返した。


 どうして。

 なぜだ。

 こんなはずは。


 同じ単語を何度も繰り返しながら、この場に小太郎しかいない孤独を恨み、氏康を呪った。




「父上……」


 ほどなくしてやって来た重臣たち—————上野にいた北条氏照を除く面子—————が氏政の言葉に愕然とした。

 氏直が先陣を切って感嘆の声を上げると、大広間が一気に静まり返った。


「景虎が…!」

「氏邦、確かに景虎の事はわしも悲しい。だがそれ以上に問題なのは上杉全体がほとんど全滅状態と言う現状だ。このまま放置している訳には行かぬぞ」

「上杉家は誰が継ぐのです」

「謙信の甥の景勝が継ぐだろう。だがいかに景勝が達者だろうとそもそもの力が派手に削り取られている以上、上杉に従前通りの真似はできないはずだ」


 桶狭間の今川が二万五千を引き連れ死者二千七百とか言うが、それでも今川家は再起不能になるまで追い詰められ、そのまま滅んでしまった。

 今度の上杉は一万五千からの死者・捕虜一万三千である。もはやお家が今川家のように八年間続くのかさえも怪しい。


「越後を武田と共に分割すればよろしいかと」

 大道寺政繁の提案に対し、氏政は話にならんとばかりにそっぽを向いた。


 それで済むのならばそれこそ苦労しない。

 信玄にほぼ全軍を殺させておいてそれでは単純に火事場泥棒に近いし、労苦の差を考えれば一対一など論外、九対一で持って行かれてもまったくおかしくない。


「おい政繁、そんな単純な話ではないのだぞ」

「これは失礼しました若君様」

 もちろん政繁がその愚策っぷりを先刻承知であった事と氏直の反応速度には安心もしたが、実際このまま傍観などできっこないのも事実だ。


「ではどうせよと言うのだ」

「景勝は絶対に武田とは相容れないでしょう。我が北条とも仲はよろしからずと思われますがそれでも武田よりは……」

「取り込めと言うのか」

「いかにも」


 だが氏直の提案もまた、ありふれた一般論だった。

 元々の経緯上上杉と北条は仲良くしにくいが、ここまで窮地に陥っている相手を助けるのは世の道理だろう。

「あのな氏直、上杉を取り込めば信玄は必ず反発する。いや信玄は飲み込んだとしても上杉勢が信玄を絶対に許すはずがない。それでも構わぬと申すのか」

「このまま越後を丸々飲み込んでしまうよりはよろしいかと」

「確かにな。だがわしにも信玄がどの程度まで本気なのかわからん。越後をまるまる手に入れればこの北条とて危ないが、同時に東北の連中にも接敵する。東北の連中が上杉を助けるか否かはともかく、そうなれば余計にこじれる」


 しかしその世の道理が通らない事も氏政は知っている。

 上杉の本城である春日山城は信濃からそれほど遠くなく、信玄が少し本気を出せば簡単に陥ちるだろう。そうなれば上杉は滅ぶか北へ逃げるかしかなく、余計厄介になる。

 北条としては越後などより、上野や下野を抑えたい。北条の進行方向の西端は上野であり、北端もまたしかりだった。越後を狙うなど、ただ単に伸びすぎでしかない。


 北条にしてみれば、上杉はあのままで良かった。越後でぼーっとしていてくれれば、適当に武田を抑えてくれていればそれでよかった。だが、今の上杉に独立勢力となりうる力はない。もちろん春日山城を捨てて北越へ本城を移すと言うのも考えられるが、それこそ上杉が致命傷だと言う証でしかない。


 さらに佐竹を含む関東諸勢力の事もある。関東の反北条勢力にとって謙信は希望の星であり、それの死はかなりの一大事である。それ自体は北条にとって好都合だったが、頼る伝手をなくした勢力が信玄に傾かない保証はどこにもない。

 取りに行けば確保が難しく、放置すれば上からのしかかられる。持て余されたとしても上杉にもう武田を止める事は出来ない。上杉とは敵対勢力とは言え景虎関係なく奇妙な平和を守って来た現実が、間違いなく失われたのだ。







「武田を攻めるべきかと存じます」







 そんな中飛び込んで来た第三の意見に、この場にいた全員が目を剥いた。




「氏邦……」

「それがしは幻庵様からうかがっていたのです。武田武王丸、いや太郎とか言う男の脅威を」

「男って、まだ十にもすらなってなかろう」

「兄上はご存知ないのですか、その太郎が五千の兵を率いていたと言うお話を」

 

 氏邦が述べたように、小太郎が氏政に当てた書状にはその旨も記してあった。氏政自身が信じられず、話半分に聞いていただけだった。

「知っているが、かと言ってもこれはいささか」

「兄上は秋山が指揮をしていたとお考えなのですか」

「違うのか」

「違い申す」

 会議の場で兄上と言う私的な呼び方の連続にいら立った氏政であったが、氏邦は全くひるむ様子はなかった。


「織田方の柴田勝家とか前田利家とか言う将がおりますが、どっちもかなりの荒くれ者で腕達者です。その両名に向かって幼き面相で立ち向かい、大きくひるませたとうかがっております」

「それは、やはり秋山の仕事ではないのか」

「兄上が景虎を殺された意味をきれいさっぱりお忘れなのならばよろしゅうございますが!」

「やはり上杉の将として川中島にいたから」


 氏政はあくまでも中立的かつ一般的な理屈で応じるが、氏邦は氏直の方を一瞥すると急に疲れた顔をして氏政ににじり寄った。北条家の五代目になるであろう十五歳の氏直は正直才能に乏しく、よく言っても悪く言っても凡才だった。その分有能な家臣がいればつつがなく治世は終わるだろうが、桁外れの存在が来た時にはわからない。ましてや織田信長と言う桁外れの存在が現在進行形でいる以上、正直物足りなく氏邦には思えた。



「信玄は景虎を、いえ若き力を恐れているのです。

 家康も景虎も、いや勝頼をも殺したのはそのためです」



 後生畏るべしとか言うが、その話が本物ならば武王丸はもう十二分に恐ろしい。

 それがこのまま育てばそれこそ信玄かそれ以上になってしまうかもしれない。


「憲秀…」

「確かに内藤も馬場もさして勝頼の死を惜しんでいるようには思えませんでした。あの信玄の忠犬たちが様子からすると信玄は最初から武王丸を据える気だったのでしょう」

「勝頼をも排除して、か……それで幻庵様はと言ったが、幻庵様は」

「幻庵様は先代様の意志を尊重していると」

 北条家の始祖である早雲の三男、すなわち氏政の大叔父の幻庵はそれこそ大御所であり、その力は半端な物ではない。その幻庵様の言葉を聞き逃すまいと耳を傾けていた一同は、氏邦の言葉に少し失望した。


「そうか……ではやはり武田と共に歩めと」

「されどお館様の意志を尊重なさるともおっしゃっておられました。

 当初からその気だったのでしょう、いろいろと」




 実はこの時、小田原城には一万以上の兵がいた。常備軍に近い兵と美濃に行っていた松田軍五千に加えさらに兵をかき集め、結果的にそれだけの数が集まっていたのだ。

(まったく、予想外の形で混乱が起きた物だな…………)

 あの武田信虎が甲州に返されたと聞いた二ヶ月前の時から、信虎を巡って何らかの騒乱が起きると氏政は読んでいた。憲秀を援軍として寄越すと言う名目を経て数を増やし、五千どころかそれだけの数を集めたわけだ。実際には信虎が勝頼の後を追うように病死したため何事も起きなかったが、それでも今すぐ動けるだけの兵が整っていた。




 このまま、武田を放置などできない。

 あるいは下野の確保にでも向かわせようと思っていた軍勢だったが、氏政は決めた。


「わし自ら出る。これ以上武田の跳梁を許すわけにはいかぬ」

「しかし同盟を破棄するとなると」

「征夷大将軍様を殺めた存在とは共存できんとでも言っておけばいい」


 極めて雑な言い訳に使える程度と言うのが、氏政が知る義昭の扱い方だった。



 足利茶々丸こと堀越公方を滅ぼして大大名となった北条家らしい使い方であり、ある意味実に伝統的なやり方だった。

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