甲斐の虎、長尾景虎を呑む
「謙信、わしは直にやり合うには少し年を取りすぎたからのう、わしの部下でも相手にしてくれ」
信玄は相変わらず座ったまま、謙信を軍配ひとつであしらっている。
何せ茶臼山は十二年前には信玄、今は謙信が本拠としたように野戦の本陣としては絶好の地であり、当然要害としては強力である。
ただそんな場所でも五倍の兵で攻められれば話は別であり、信玄軍五千は千人の景虎軍を一気に押しつぶし、あっという間に陣を奪ってしまったわけだ。
「お主の息子もなかなかやる、わしが橋を焼いたのを見抜いて海津城の側に兵を回すとはのう。されど家臣の方があれでは、な…………」
ほんの少しだけ寂寥の念を込めた事に気づくのか否か、そんな事を考えつつ謙信の反応を楽しんでいた。
勝頼とて、家臣が真っ当であればまともに育ったかもしれない。跡部勝資と言う知恵者気取りの男や長坂長閑斎とか言う宿老になれなかった怨念の凝り固まった存在でなければ—————とか言うのは全て繰り言でしかない。
「斎藤とやらもすっかりお主を信じ込み、どうせゆっくり行っても大丈夫だろうと思っておった……最強とは、時として足かせにもなるのだぞ…………」
信玄個人の武勇は、もはや最低級だろう。十三年前に坊主となった時から刀を抜かないと決めている五十三歳の男が、現役の兵士に勝てるはずもない。
だがそれゆえに、個々の将兵が強くなる余地を残している。
「行け!行け!」
謙信は先頭に立って姫鶴一文字とやらを振り回しているが、それだけで戦が勝てるのならば誰も苦労しない。だと言うのに上杉軍はその謙信の武勇を信じ、疑問を抱く事がない。
「何もかもこっちはうまく行き、そっちはうまく行っておらぬ。そういう事ではないのかね?謙信よ」
相手に届きようのないつぶやきと共に、信玄は腰を上げた。
「さて……最後の一手を打たせてもらうかね……」
信玄は横を向き、一人の男に耳打ちした。
上杉謙信に、とどめを刺すために。
※※※※※※※※※
「あああ……!」
上杉謙信のうめき声が、茶臼山の麓に響く。上杉軍の兵士たちは主の苦悩を全身で感じ、その苦悩を晴らすべく山に立ち向かう。
だが破れない。山での戦いは高い所にいる方が有利だと言う戦の原則をいかんなく見せつけられるように、次々と死体が増える。
「景虎の配下たちは!」
「一応抵抗はしているようですがどうこうする力があるかと言うと…!」
つい先ほどまで本陣だったはずの地が、嫌になるぐらい遠い。
風林火山ではなくただの甲陽菱だが、間違いなく信玄がそこにいる。
わかるのだ。
景虎を殺した信玄が。
征夷大将軍を失ったのに今更我が子一人で嘆く気もないが、それでも無念の思いは込み上げて来る。
この時にはもう、謙信は信玄のやり方をわかっていた。
本陣の妻女山に自分が突っ込んで来るのを読み切り、あらかじめ退避。そしてその信憑性を高めるためにわざとらしく主力軍を置き、さらに旗まで置く。
そして本人は海津城ではなくまた別の場所にひそみ、斎藤をおびき出して空白になった本陣へと突っ込む。
読み切れなかった自分が悪いと言えばそれまでだが、その結果を思うと悔し涙があふれ出す。
その挙句、
「鬼小島様、高坂により討ち死に!」
「柿崎様、馬場信房めに討たれました!」
義昭はおろか息子のみならず、寵臣すら奪って行く。
残った二人の配下の兵たちは武田に呑まれそうになるのを嫌って抵抗しているか自分と一緒に景虎様の仇と叫んで突撃するかのどちらかで、一応軍として機能していない訳ではないが形勢は明らかだった。
この時、茶臼山を攻撃していた兵は四千近くいた。確かに信玄軍本隊は五千近かったが、それでもまったく形勢はこちらに傾かない。謙信自ら愛刀を振るっているが、飛んでくるのは矢ばかりで人は来ない。たまに人を見かけても自分には向かわず、いかにも弱っている兵にばかり攻撃して来る。
卑怯者とか叫んでも通らないのはわかっているが、叫んでやりたくて仕方がなかった。
もっとも、この四千と言うのは妻女山で負傷した兵と鬼小島軍や柿崎軍からの逃亡兵に近い兵が大半で、まともなのは朝信の配下だった兵ぐらいだった。そんな額面通りとはとても行かないようなのがいくら集まった所で、有効な攻撃ができる訳もない。
—————もはや無理です、退きましょう。
そんな気の利いた言葉を投げかけられる人間は、今の上杉軍に一人もいない。
いるとすれば斎藤朝信だが、彼は今謙信に負けず劣らずの危機的状況の中にあった。
海津城の西ばかりにあたっていた斎藤軍は今、北からの拳を受けていた。
本来の進行方向からの軍勢に朝信はあわてて兵を割いたが、これにより海津城への防備はなおさら薄くなった。
激化していた西門からの攻撃のせいで兵は釘付けにされ続けており、対処するのすら目一杯と言う有様である。逃げようにも明らかに武田領である南にしか道がない以上、朝信軍もまた完全に封殺されていた。
このからくりは極めて単純で、北門ではなく東門から出て来た兵が大回りして襲い掛かって来ていただけである。守将信綱の弟である昌輝率いる兵たちは生まれも育ちも信州と言う地元民であり、山中の道を見つけるのもお手の物だった。
その地理への明るさを生かして信玄軍を上杉軍に見つからない場所に秘匿した彼らからしてみれば、こんな奇襲などお茶の子さいさいであったのだ。
「このままでは後ろからも刺されます!」
「わかっている!その前に信玄を抜く!」
こんな勝ち戦が決定的な状況で出て来る訳はない。だから—————と言う常識など、今の謙信には通じない。
(絶対に、絶対に許さぬ……!多くの悪逆非道を働き、むやみやたらに人を傷つけた武田信玄を…………!)
自分の死など恐れていない。
恐れているとすれば信玄の生存と跳梁跋扈、そして織田信長の勢力伸長。
いや、信玄の生存のみ。
あの男だけは生かしておかない。
何が何でもその首を刎ねねばならない。
(毘沙門天よ…この身に悪を討伐する力を…!)
強く神に祈り、必死に駒を進める。自分が張った陣幕も含めて十重二十重の壁の向こうにいる存在に向かい必死に壁を破らんとしているが、実際には削り取っているだけでしかない。
謙信をして削り取る事しかできない壁、いや防波堤は君臨する事をやめない。越後の龍をも飲み込まんとしている津波と手を組み、ただじっとそびえ続けている。その防波堤の先に立つ存在を首にする事だけを求め、軍神と呼ばれているくせに神の名を唱えながら斬りかかる。
だがその度に防波堤にぶつかって同志たちはいなくなり、次々と血潮を撒き散らす。
「ついに捉えたぞ!あと一歩だ!」
そして、ついに津波が追いついてしまった。
これまで血潮を撒き散らしていた遺体も、この時まで動いていた心臓を抱えていた同志も、津波の中に消えて行く。
津波を操る邪悪な魔物たちの主、高坂・馬場・内藤たちは我こそはとばかりにはしゃぎ回り、日本海よりずっと暖かい海へと勇士たちを放り込む。
魔物たちは遺体と波を見せびらかし、命よりも大事な物を奪いにかかった。
最後の最後まで残っていた、一番の宝を。
「ああもうダメだぁ!」
「謙信公、疾くお逃げ下さいませ!」
「誰か助けてくれぇぇ!」
ついに、あの上杉謙信軍の心がくじけたのだ。
最後の目的である武田信玄討伐すらままならない事を悟った兵たちが次々と己が命を愛しみ出し、四分五裂し出した。
もっとも景虎様の仇とか言いながら後方に向いた兵の中には最初から逃げる気だった連中も多く、そうなる前に死んだ人間も山といた。その中でも生き残っていた連中は待ってましたとばかりに無言で逃げ出し、さらに一部の兵は北ではなく南東に走り出した。南東は確かに津波の来ない方角だったが、「上杉軍の兵士」が逃げる方角ではない。「攻める」方角だ。
そんな方角に助けてくれと言いながら逃げると言うのは、もはや言わずもがなだった。
「このまま、こんな所で…!」
防波堤を破れず、津波に飲み込まれたまま死ぬ運命に必死に抵抗しようとしていた謙信と言う四十四歳の男。
すでに返り血とは違う存在で赤く染まり、呼吸も荒くなっている。眼光のみ炯々として文字通り龍が如く異形になりつつあった謙信の視線の先には、もはや何もなかった。
————————————————————いや!
「信玄!」
勝ちが決まったと見て出て来たのか!
十二年前に見た時はまだもう少し精悍だった顔つきはひどく肥え太り、その分だけ狡猾さが両目からにじみ出ている。
「貴様……!人面獣心、外面如菩薩内面如夜叉とは貴様の事よ…!」
「勝てばよいのだ、勝てば」
ふざけた口上ばかりでこちらとまともに向き合おうとしない。腕には軍配すら持たず丸腰で馬の上に座り、こちらを挑発している。
「上様の無念!貴様の父と息子の無念…すべて、この、上杉謙信が、晴らす…!!」
「そういうのを独り善がりと言うのだがね」
「無間地獄へ落ちろぉぉ!」
謙信は、視線の先に映った最後の光明に向けて走った。
その間に十を超える槍や矢が刺さったのを感じながら、姫鶴一文字の最後の犠牲を求めた。
「お館様ぁ!」
「止めるなぁ!」
誰の制止も聞かないまま、謙信は信玄の前に立ちはだかる兵たちを斬り倒した。
そして剝き出しになった信玄の首目掛けて、姫鶴一文字を振った。
しかし、その一刀が信玄の首を飛ばす事はなかった。
「影武者…!」
近づいてみると、顔が違っていた。五十三にしては若く、それにひげも黒い。
しかも鎧もどこか雑に見えて来る。
その一瞬のためらいが、信玄の影武者の命さえも守る事になってしまった。
「あ、ああっ、あああ……!」
謙信の胸、胴、両手、両足、それから馬と、顔以外のありとあらゆる場所に刃が食い込む。急速に痛みが走り、姫鶴一文字を持ったまま謙信の肉体は仰向けに地に倒れた。
「わしは、まだ…!」
それでも姫鶴一文字を振ろうとするが、腕に力が入らない。腱を斬られたのか歩く事さえもままならず、もはや握るだけで精一杯だった。
「信、玄……め、上様……!」
ようやく己が死を悟った謙信は必死に宿敵と、守るべきだった主君の名前を呼んだ。
もはやこれまでと見たのか、誰も手を出して来ない。
なめられているとは思ったが、それでもどうにもならない事を認めてしまうしかなかった。
「おみ足の 赴くままに すみをおい 尊ぶべきは 白き輝き……!」
その三十一文字と共に、上杉謙信の闘争は終わった。
謙信からしてみれば、臣として我が足の赴くままに澄んだ世を求め、足利尊氏の作った純白の源氏の旗を掲げたかった。
だがあるいは、義昭は己がおみ足の赴くままに炭でも背負いながら、白き雪や米粒でも追いかけていたかったかもしれない。
農民上がりだとか言う、羽柴秀吉に服属した男らしく。
認めたわけではなかった。
だがいざこうして死が迫って来ると、なぜか義昭の本音がどこにあったのか考えたくなった。
謙信はあの世で義昭と再会して質問できることを祈りながら、目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます