上杉軍の崩壊

「いいのう、本陣はやっぱりいいのう」


 武田信玄はつい先ほどまで別の人間が座っていた本陣に腰掛けながら笑っていた。


 十二年前のあの戦で、本陣としていた場所に。


「しかし上杉景虎もなかなか頑張りましたな」

「確かになかなかの器じゃった。ま、晩成する前に壊してやったがね」



 信玄本隊五千の兵に攻められては、景虎率いる千ではなすすべもなかった。

 斎藤勢を出してしまったせいで余分な兵もないまま、二分足らずで景虎自ら戦う羽目になり、もう二分後に実父の下へと不帰の旅に出た。

 景虎の後を追わんと言う良心的な兵もおらず、まったくあっさりと信玄は謙信の本陣たる茶臼山を奪取したのだ。



「しかしもし気づかれていたら」

「その時は適当に橋でも塞ぎながら構ってやったよ。交通の要所を塞がんなどただの馬鹿だからな」




 八幡原から海津城への街道の、さらに東の山中。




 そこに、信玄本隊は潜伏していた。

「旗はしょせん旗だ。いくらでも用意できるのだから安い物だ」

 茶臼山には風林火山の旗はない。上杉の旗は既に撤去してやったが、かかっているのは甲陽菱のそれしかない。


「海津城は大丈夫なのでしょうか」

「何、あの弟にしてあの兄ありだ。心配など要らぬ」


 海津城に籠っていたのは、信玄ではなく真田信綱と昌輝。

 武藤喜兵衛の兄である。


「喜兵衛ほど目から鼻に抜ける所はないが二人とも才覚は確かだ。万が一謙信が来ても守る事はできる。あの男は野戦は得意だが攻城戦は下手だからな」

 野戦なら一人の武勇で全てをひっくり返せるが、攻城戦ではどうしても地形が重視される。さらに謙信軍は北条や武田に追われた寄り合い所帯に近く、いわゆる敗残兵に過ぎない。そんな敗残兵がいくら集まった所で謙信が力を発揮できない以上敗残兵以上にはなれず、復仇の志もまた限度がある。もちろん長尾家譜代の兵は弱くないが、それらとて謙信への崇拝ありきでしかない。


「一点集中もいいがその理由を考えねばならぬ。立っていた人間しか物を言う事は出来んのだよ」

 勝てば官軍、負ければ賊軍。勝者が口にすれば自慢か戦略、敗者が口にすれば言い訳か繰り言。

「この戦いはただのいつも通りの川中島ではない。武田と上杉の最後の大戦だ。

 これ以上もたついていては信長によりどっちも飲み込まれる。その事が謙信にはわからんのだろうな」


 信玄は実際、そう口説いて上杉と北条から兵を引き出した。しかしその結果謙信は足利義昭の死と言う結果にのみいきり立ち、こんな挙動に走ってしまった。それと勝頼の事もあったらしいが、信玄にとっては義昭以上にどうでもいいお話だった。


「謙信が来ます!」

「強引に突撃したから陣の機能も残っている。ゆっくりと迎え撃ってやるとするかね。

 ああ、そろそろ旗もたくさん上げておかねばな」

 

 信玄はあくまでも、余裕を崩さなかった。




※※※※※※※※※




「これはこれは…!」


 内藤昌豊の口から、実にわざとらしい喜びの声が飛んで来た。

 内藤軍もここぞとばかりに反応し、勝負あったと言わんばかりに叫ぶ。

「勝ったぞ!」

「もう時間の問題だ!」

 確かに上杉軍本陣である茶臼山を奪ったとは言えまだ相当な数が残っているのに能天気であったが、その能天気が戦場の空気を一気に変えた。


「どうしよう…!」

「どうするも何もあるか!目の前の連中を片せば信玄など袋の鼠だ!」


 鬼小島弥太郎は必死に叫びながら兵を前にやるが、鬼小島軍と対峙している高坂勢は勢いを強め、逆に押し返しにかかっている。


「どうしたどうした!あの謙信をしてその方らを見捨てたと言う事だ!」

「これ以上の戦いに意味はない!すぐさま降れ!」


 高坂軍からも降れ降れの大合唱が始まり、ふざけるなとばかりに突っかかった兵たちが次々と溶け出した。



 ここまで篠ノ井では互角に戦いが繰り広げられていたように思えたが、謙信が内藤軍を突き抜けるだけで殲滅させなかった事もあり内藤軍は士気が落ちず兵の損耗も少なく、高坂軍と馬場軍には全く無関係だったため兵数の多い武田軍の方が単純に有利だった。

 さらに内藤勢からたまに飛ぶ銃弾が正確でこそないが確実に、本来あり得ない場所から犠牲を生み、さらに兵の心を揺るがしていた。



 そんな状態をひっくり返せる援軍となるはずだった謙信の急な方向転換、そしてその動機と重たすぎる現実。


「おそらく景虎様は…!」


 それらが一気に上杉軍を襲い、士気を貪り食らった。

「景虎様の仇!」

「そうだ!景虎様の無念を晴らさねばぁ!」


 その結果精鋭軍と言っても数名ほどいた臆病な兵が景虎様の仇!と言う絶好の名目を得て、勝手に逃げ出し始めた。


「彼らに任せろ!彼らがいずれ信玄を討ち反転して戻ってきてくれる!謙信公と共に!」

 弥太郎は必死に喚きながら得物を赤く染める。そうでもしなければもうどうにもならない事をわかっているからこそ、必死にその逃亡劇をごまかしていた。


「ついに崩れたぞ!さあとどめを刺せ!」


 だが高坂軍は弥太郎の取り繕いなど知った事かと言わんばかりに歓喜の声を上げ、昌信自ら先鋒に立り、その勢いのまま昌信は四人の男を斬った。



 この一撃により、これまで前方が溶け出し横からは銃撃が飛び後ろからは逃亡兵が出ると言う有様でありながら、かろうじて戦っていた鬼小島軍は一挙に瓦解した。




「もうダメだぁ!」

「か、か、景虎様の仇ぃぃ!」

「そうだ、景虎様の無念をぉぉぉぉ!!」




 景虎様の仇と言う言葉が一挙に言い訳に成り下がり、臆病だった人間から順に弥太郎から離れた。言葉通り茶臼山へ向かう兵もいたが、そうでなくただ北へと向かうだけの兵の方がずっと多かった。

「おいこら逃げるな!」

「謙信公と共に景虎様の仇を討つだけです!」

 弥太郎がいくら吠えても兵たちは言う事を聞かない。


 十二年前の川中島の戦の前信玄から犬をけしかけられた際に平然と口上を述べていた豪傑の一喝も弱気の虫に敗北し、死者の数倍の逃亡兵が生まれて行く。


 そして兵がいなくなったせいでむき出しにされた弥太郎に、ついに武田軍の刃が迫る。

「ええい!くそ!」

 弥太郎は目の前の敵を死体に変えようとするが、勢いが違い過ぎる。

 元から精鋭だったのに勢いが加わって昌信のようになっていた高坂軍の兵たちは次々と弥太郎に襲い掛かり、その首を奪いに向かう。

「これぞ鬼小島弥太郎!」

 本来なら恐れられるべき巨体もただ乗り越えるにふさわしい巨岩でしかなく、士気をよけいに上げるばかりだった。

 今更逃げる事も出来ない以上、ここで死ぬしかない。


「いや、死なんと戦えば生きる!」


 弥太郎は全力を込めて謙信の言葉を叫び、高坂軍を全部食い尽くしにかかった。


 だが彼が得た物は、二名分の雑兵の返り血と一名分の首、そして四名分の雑兵の槍の穂先だけだった。

「く…」

 叫んでいるつもりなのに誰にも聞こえないような声しか出せない自分に驚き、そして自分の腕の力がなくなっている事に気づいて完全に絶望した。


「こんな、こんな場所で…!」


 弥太郎の最後の一撃は中年男により受け止められ、そのままその中年男によって弥太郎の体は首と永遠の別れを遂げた。


 その男の名前が高坂昌信である事を知らなかったのは、おそらく不幸だったのだろう。



 それなら、弥太郎の死に顔はもう少しまともだっただろうから……。




※※※※※※※※※




 年甲斐もなくと言う言い回しが当てはまるのか、自分でもわからない。

 御年五十九歳、信玄より六つ年かさなこの男は最高にいい気分だった。

「まあ、昨日の味方は今日の敵なのが乱世の理ゆえ」

 そんな調子のいいことを言いながら、柿崎軍へと突っ込んで行く。

 顔がほころぶのを無理矢理抑えながら、得物を振る。

「ずいぶんな面の皮だな」

「自覚はしている」

 目の前の敵将からも指摘されたが、今更その事を恥じる気もない。手足が年齢と共にごつくなったように、面の皮だって厚くなった。


「真っ正直もいいがそれだけで世渡りができる訳でもない。孺子共に謀るに足らず」

「どういう了見だ!」

「そのままの意味だ。上杉謙信と言う孺子にこれ以上付き合う事もないだろう」


 上杉謙信は大義に甘ったれる坊やに過ぎない—————と言うその言葉こそ、上杉の将兵にとって最大の痛点だった。

「おのれ!謙信公を侮辱するなど許さぬ!」

 景家は完全に我を失い、兵たちと共に馬場軍へと突っ込んで来た。

 馬場信房を殺すために。


「まったく、これが友軍だったとは……ほんの数週の間に何が変わってしまったのだ」

「そのふざけた舌を引っこ抜いてくれる!者ども!この男だけは生かして返すな!」

「おっとっとっと…」

「この口だけ男!」


 信房は千曲川へ向けて、ほんの三歩ほど後退した。元より背水の陣に近い状態だったのでまるで意味のない行動だったはずだが、その後退がなおさら景家に火を点け、兵たちを煽った。


 まるで自分さえ殺せばすべてが終わるようになってしまっている景家の行いに、信房はかけらも同情などしなかった。




「やれ」




 鋒矢の陣と言うよりただの単騎突撃になってしまった景家は、両端にまともな数の兵も置かなかった。

 そんな事をすればどうなるかは明白なはずなのに。


「貴様、ら…!」


 信房に挑みかかる五歩ほど前に、景家の両脇に槍が刺さった。形ばかりの護衛はその前に地に倒れており、景家も彼らの後を追うように地に叩き付けられた。

 そしてその背中に次々とまた別の槍が刺さり、景家の体を血の池へと沈めた。すぐ引きずり出せばあるいは助かったかもしれない命だったが、救援しようとした上杉の兵たちが全て先に死んだせいで結局二度と浮かんでくる事はなかった。



「大将は討ち取ったぞ!一気呵成に畳みかけろ!」


 信房が景家の首をもいで掲げると、馬場軍の士気は最高潮に達した。


 対する柿崎軍は主将の討ち死にによりどん底に落ち、鬼小島軍と同じように景虎様の仇とかわめいて逃げる兵や景家の仇討ちだとか言って万歳突撃する兵に分裂し、後者は士気の高まっていた馬場軍に消され前者もまたどんどん視界から消えて行く。


 信房もまた、景家の首を近習に渡して仇討ちとか叫ぶ自殺志願者たちを斬った。



(いよいよかもしれんな……)


 この時すでに、鬼小島弥太郎討ち死にの報も入っている。


 十九年間、六度にわたるこの川中島の戦に、いよいよ完全決着の時が来る。




 その場に立ち会える喜びが、翌年還暦を迎える男を動かしていた。

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