上杉景虎の叫び

「火だと!?」




 妻女山から立ち上る火に目を剥いたのは、上杉景虎だった。


 煙を見た途端に足が震え出し、無理矢理直立して火の存在を確認した時には後ろに倒れそうになっていた。



「景虎様!」

「斎藤殿を、斎藤殿を!」

「え?」

「だから斎藤殿をだ!」


 側近に支えられながら立ち上がって必死に斎藤、斎藤と叫び、右手を振り回す。


「斎藤殿をどちらへ!」

「妻女山だ!斎藤殿を早く妻女山に向かわせてくれ!」

「しかし正面には鬼小島殿と柿崎殿が!」

「海津城の方から回せ!」

 自分に兵があれば全力で迎えに行くのにと言わんばかりにわめきながら両足を踏み鳴らす姿は実父にも義父にも似ない、ただの二十歳の青年だった。

「おそらく父上は誘い込まれたのだ!今頃妻女山に閉じ込められ、あの火のせいで川中島にも戻れない!父上が死ねば上杉は終わりかねんぞ!」


 軍神。


 毘沙門天の化身。


 そう言われる存在が頭にあるからこそ、上杉軍は強い。

 その事を、ある意味よそ者である景虎はよくわかっていた。


 長尾家は元々守護代と言うそれなりの地位のあった武士であり、謙信の兄の晴景は病弱で指導力はとても弱かった。それがいきなり強兵と呼ばれるようになったのは、断じて上杉などと言う滅びかけた名家の看板のおかげではない。


「しかし篠ノ井側は今激しく戦いが行われており!」

「だからこそ八幡原側から回れと言えばいい!八幡原側から回りなんとしても父上をお救い申せ!」

 篠ノ井は二十年前、武田晴信軍と長尾景虎軍が初めて激突した場所であり、今現在は武田と上杉の主力同士が激しくぶつかる最大の戦場となっていた。

 そんな所に援軍を入れた所でせいぜいその場で有利になるぐらいでしかない。もちろん内藤・馬場・高坂と言った辺りを追い詰められる利点はあるが、せいぜい五分五分の数で押し切るのは難しい。


「謙信公を信じておいででないのですか!」

「おそらく篠ノ井側は武田軍とか関係なしに通れん!だが八幡原まで塞いだらしまいだからその道は空いているはずだ!千曲川は橋なしには渡れまい!」




 実はこの時、景虎の言う通り篠ノ井と妻女山をつなぐ橋はすでに焼かれており、妻女山に向かうには八幡原側の橋を渡るしかなかった。

「ですが海津城は!」

「橋もなしに川を渡れるか!」

 八幡原から妻女山に向かうには海津城を通過せねばならないが、それでも道がないよりは数段ましである。


「しかし斎藤様までとなっては次の軍勢が!」

「うるさい!例え父上でも相手は武田だぞ!それに信玄本隊はどこだ!」

「……」

「とにかくだ!そなたはすぐさま斎藤に伝えよ!八幡原から千曲川を渡り、妻女山に向かえと!そなたの行動に父上の安否とこの戦の勝敗がかかっていると!」


 一瞬の沈黙を突くかのように景虎は側にいた小姓に向けて吠え、朝信の下に走らせた。

 兵たちがそれが正解なのか不正解なのかわからないまま、上杉景虎の手によって賽は投げられたのである。




※※※※※※※※※




「進め!」


 景虎からの命令を受けた朝信は八幡原を駆け抜け、千曲川を越えた。

 六月にふさわしい水分に満ちた空気に包まれ、足が重くなる気がする。


 確かに謙信が未だ煙立ち込める妻女山に幽閉状態になったと言うのは問題だ。


 しかしかと言ってそんなにもあわてる必要があると言うのか。


 確かに謙信軍は二千しかいないが、それでも戦力としては圧倒的であり現にあの内藤昌豊軍をも突き抜けたという報告まで入っている。

 確かにそれは信玄の罠だったかもしれないが、かと言ってそこまで焦る必要があると言うのか。


 それが、朝信の認識だった。



「ほどなくして海津城に近づきます」

「うむ……武田は我々を放っておくまい。あるいは信玄自ら我々を阻む事も考えられる。その際には我らの手で信玄を阻み、謙信公をお迎えするのだ」


 謙信が罠にかかっていることを認識すれば必ずこの道を通って来る。

 その際共に引き返し、一気に篠ノ井へとなだれ込んで武田の中心勢力を叩きのめす。

 あるいは信玄自らと戦っている最中に謙信軍の到来による挟撃態勢を作り、そのまま信玄を討つ。


 そんな絵図面を描きながら、ゆっくりと海津城に近づく。

 いつ仕掛けて来るとも限らないという緊張感が斎藤軍にみなぎり、足の重さも苦ではなくなってくる。

 敵はいずこか。どの辺りで攻撃が来るか。四千の内千五百近い兵を海津城の側に向けながら、橋を渡った時の数分の一の速さで進む。

 来るなら来いと言わんばかりに、目を光らせながら。


「風林火山の旗です!」



 そして海津城にはやはり、信玄の城である事を示す旗が立っていた。


 もっとも旗だけで人がいないと言う可能性もあるので朝信は自ら探りに向かったが、確かに兵の気配はあった。



 数は、およそ四千。


「気付かないような敵ではない。千五百は予定通り城を見張り、残る軍勢で謙信公をお迎えする。千五百もいれば問題はなかろう」


 あまり功を焦って突撃して後方を突かれるような真似を避けるため、進軍の速度は上げない。

 ゆっくりと、煙立ち込める妻女山に近づく。

 二千五百の内さらに千人程度を歩きながら選び、後方に備えるように命じながら。


(だいたい、妻女山が囮と言うのならば謙信公がそれに気づかぬはずもない。それにそんな役目の兵などせいぜいいて五百。そんな小軍など謙信公様なら一ひねりのはずだ)


 朝信はあくまでも暢気だった。

 鬼小島や柿崎も同じ気分だろうと勝手に思いながら、後ろばかり気にしつつ足を進めていた。



 で。


「海津城から攻撃が来ました!」

「あわてるな、後方に回していた兵を送れ。我々は全速力で進む」


 海津城からの攻撃の知らせに、朝信は千五百になった兵で全速力を出した。やけに嬉しそうに走る朝信に対し、妻女山の赤みもまた歓迎の種だった。上杉家が平氏の末裔だからと言う訳でもないだろうが、やたら派手派手しい炎さえも信玄の最後の悪あがきに見えて来る。


「来ました!毘沙門天の旗です!」


 そしてついに、待ちに待っていた謙信の到来だった。


「よし!謙信公!さあ早速篠ノ井まで…!」







 そこまで言った所で、朝信の口が止まってしまった。







 やって来た謙信本隊は、数そのものも千あるかなしかぐらいしかおらず、多くの人間がやけどを含む傷を負っていた。

「朝信か…」

 謙信さえも頭巾が焼け、僧らしく剃っていた頭が見えていた。


「いったい何が!」

「信玄を探していたらいきなり火が、それもあり得ぬ速度で……!」


 妻女山をはげ山にするかのように、燃える物を求めて火が広がっている。

 千曲川がなければ川中島の将兵まで焼きそうなほどに燃え広がり、焼き尽くす前に風で木々をなぎ倒そうとしている。

「しかしそんな囮の陣に!」

「今はそなたの言う通り八幡原を経て篠ノ井に向かう方が先だ!」


 朝信は謙信の言葉に駆られるように向きを変え、来た時の数倍の速度で引き返した。

(また橋が落ちていたらそれこそ適当な木でも切って丸木橋でも作り上げ、謙信公だけでも落ち延びさせる!)

 その程度の覚悟をさっと抱ける程度には、朝信も武士だった。


 信玄にはめられたのは認めざるを得ないかもしれない。されどそんな一つや二つの詐術で謙信公を討とうなど慢心もいい所だとばかりに気持ちを奮い立たせる。



 もっとも、気合を入れ直しただけで戦況が変わる訳でもない。


「海津城、開門!!」


 畳みかけるように、武田軍が海津城の門を開いた。

 斎藤勢二千五百に向けて一気呵成の攻撃がかけられる。予測済みだったとは言え武田の攻撃は激しく、次々と戒名の需要が高まって行く。



「共に来い!敵は四千なのであろう!」

「間違いございませぬ!」


 四千で二千五百を抜くのは、そう簡単ではない。海津城と千曲川を挟む街道の厚みなど知れており、数の差を生かせる展開になどなりようもない。もちろん包囲する事もできなくはないが、そんな数の差で部隊を分ければ最悪海津城が抜かれかねない。

「頼んだぞ!」

「はい!」

 朝信は、涙を呑みながら二千五百を置き捨てにする決断を下した。もっとも彼らも気心は知れているので明るく守ってくれたが、それでも謙信の予想外の打撃に自信を失った朝信の背中は重たかった。


「謙信公、武田はそこまで……!」

「妻女山をいくら探そうともその姿はなかった。おそらくは海津城の中にあり、このままそなたの手勢を抜き追いかけて来るだろう。その前に急がねばならぬ!」

 信玄はおそらく後方に控え、作戦を練っていた。卑怯者だと言いたくば言えとばかりに後ろで軍配を振り、この時を待っていたのかもしれない。

「しかしほどなくして信玄が出て来るとなると!」

「されど今の我が手勢では鬼小島らの助けにならぬ…!どうか力を貸してくれ!」



 朝信は迷った。



 信玄本隊が出てくれば二千五百と言えど一瞬で消される。そうなれば謙信も危ない。


 だが今の謙信軍では助けになるどころかむしろ逆効果かもしれない。



 —————そんな状況になった時、人間はどうするか。



「申し訳ございませぬ!残らせてください!手勢はお任せいたします!」



 朝信の答えはそれだった。


 謙信を軍神だと信じているから、出た言葉。


 本当なら謙信だけでも士気は上がったかもしれないが、それを飾るためには兵が必要だと見た朝信の、答え。


「わかった……行くぞ……!」

 謙信は斎藤勢千五百を含む二千五百を連れ、街道を走った。

 謙信を見送った朝信は改めて得物を強く握り、海津城の将兵を睨む。


「信玄は!」

「未だに姿は見えませぬ!」

「そうか!」


 次なる敵、と言うか本命の登場に、朝信は胸躍らせていた。


 妻女山で何があったか、まったく知らないまま。










 ————————————————————妻女山に謙信が突入してすぐ、武田勢はありとあらゆる場所に火を放ち、あっという間に陣を火で包んだ。

 さらに火薬まで使ったので火の回りも早く、ほとんど気付かないうちに妻女山は火の海と化していた。そして橋にまで火薬付きで火を点けられていたために燃え尽きる前に爆発してしまい、謙信は完全に妻女山に閉じ込められた。


 そして謙信が囮の雑兵だと思っていた兵は捨てかまりとでも言うべき特攻兵であり、信玄直属軍の精鋭だった。

 彼らは放火するだけして武器を振りかざして謙信軍に立ち向かい、次々と自分の命を盾に謙信軍の命を奪った。火の勢いと彼らの命がけの戦いぶりにより謙信軍をして動揺し、次々とこの世を去った。

 で謙信はと言うと信玄捜索に無我夢中になり炎さえも目に入らぬ有様で、陣幕をすべて切ってようやく信玄不在に気づく有様だった。




 そんな謙信が橋を渡り八幡原に戻って来たのは、景虎が朝信に命令を出してから四半刻は後だった。

(とにかく篠ノ井へと向かい、味方を助けねば…!)


 未だに南西の篠ノ井では戦いが続いている。両方とも疲れているだろうが、数的にこっちらが不利だろう。長引けば危ない。

 今度は突っ切るだけではなく、殲滅せねばならない。

「狙いは右翼だ!」

 とりあえずは東側の高坂勢に向けて突っ込む。


 そのはずだったのに、兵たちが動かない。

「おいどうした!」


 謙信の叱責にもかかわらず、二千五百になっていた謙信軍の兵の内千近くが西へ向かって走り出した。

 鬨の声を上げ、逃走とは思えないような調子で西の茶臼山へと。


「何事だ!茶臼山に何」




 そこまで言った所で全てを悟った謙信は、強引に西に向きを変えた。







 茶臼山に立つ、風林火山の旗へ向けて。

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